
医療ガバナンス学会 (2025年11月10日 08:00)
谷本哲也
2025年11月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
日曜午後の館内は熱気に包まれ、会場では人の波が途切れることがありませんでした。英語、フランス語、中国語、韓国語など、さまざまな言葉が響き合い、海外からの来場者も目立ちます。誰もが7軀の国宝仏の像の前で足を留め、それぞれの距離で仏像と向き合っていました。じっと息をのむ者、仲間と小声で感想を交わす者。木像には一種の緊張感と独特の迫力が漂い、無数の視線を自然に集めていました。
やや薄暗い室内では木肌の凹凸に光が当てられ、800年以上前に巧みに彫刻された筋肉の張り、衣の深い襞、頬の陰影が鮮明に浮かび上がります。無著・世親像の表情にも目を惹かれました。無著の穏やかで思索的な眼差し。世親のやや鋭く断固とした意志を伝える表情。二人の性格の違いが、木という素材を通しても伝わってきます。玉眼技法によって内側から輝くような眼の力、わずかに開いた唇、額に刻まれた皺の一本一本まで、生命力と存在感に満ちています。東京国立博物館の中央部に設けられた展示室全体が、ひとつの祈りの空間を構成し、来館者たちの鼓動と共鳴しているようでした。
漱石が描いた運慶を取り巻く群衆
夏目漱石の短編『夢十夜』第六夜にも運慶が登場します。
「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html
明治の東京。運慶の名を聞きつけ、護国寺の山門に人々が詰めかけます。誰もがその手の動きを目にしたいと願い、彫る瞬間に何かが生まれるのを待っています。漱石が描いたのは、ただの見物人の群れではなく、創造の現場に立ち会う者たちの期待感でした。群衆の中の若い男は運慶の鑿の一打ち一打ちに目を凝らし、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通り眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と語ります。
ミケランジェロの逸話の翻案ですが、この洞察は運慶の芸術観の核心も突いています。彼は木材に形を押し付けるのではなく、木の中に既に存在する生命を見出し、それを顕現させようとしたのです。これは単なる技術論ではなく、仏教思想における「本来具足」、すべての存在がすでに仏性を備えているという思想と響き合います。
漱石が描いた夢の光景は、現代の展示室と重なります。上野の会場でも、人々は同じように立ち止まり、何かを待っています。彫られた木像の前で、人々の心が揺り動かされます。明治の群衆と2025年の観客は、時代を超えて同じ「観る力」を共有したのかもしれません。
運慶の生涯
運慶(久安・仁平頃:1150年頃〜貞応二年:1223年)は、奈良の名匠・康慶を父に持ち、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した日本彫刻史上の巨匠です。若くして父の工房で修業を積み、安元二年(1176年)には奈良・円成寺の大日如来坐像を完成させました。像内の銘文には「大仏師康慶の弟子、運慶」と記されており、この時点ですでに独自の様式を確立していたことがわかります。穏やかな表情の中に秘められた力強さや、金箔と漆による豊かな質感には、後年の運慶作品の特徴がすでに現れているとされます。
運慶の生涯は、戦乱と復興の時代と重なっていました。治承四年(1180年)の南都焼討で興福寺や東大寺が焼失すると、父や弟子たちとともに復興事業に携わりました。文治年間(1180年代後半)には東国に赴き、北条時政の依頼で願成就院や浄楽寺に阿弥陀三尊像や不動明王、毘沙門天像などを造りました。これらの作品は、写実的で力感にあふれ、当時の武士の精神性を反映した新しい時代の彫刻でした。
建久年間後半(1190年代後半)、奈良に戻った運慶は、東大寺南大門の金剛力士像(阿形・吽形)を快慶らとともに完成させます。寄木造を用いた分業体制と玉眼の技法により、わずか69日間で巨大な仁王像を造り上げたと伝えられます。筋肉の緊張や血管の浮き上がりまで表現したその写実性は、鎌倉彫刻の頂点を示すものです。
晩年の代表作が、今回の展覧会でも展示された興福寺北円堂の無著・世親像です。健永・健歴(1208年から1212年)にかけて制作されたとされ、理想化された聖者像ではなく、思索する人間としての高僧を彫り出した点に、人間の中に仏を見るという鎌倉仏教の精神が反映されています。
運慶は慶派工房を発展させ、息子の湛慶や康弁らにその技術と精神を受け継がせました。貞応二年(1223年)に没し、京都の六波羅蜜寺には没後に弟子たちが造ったとされる伝運慶坐像が伝わります。僧形で念珠を手にしたその像は、仏師であると同時に信仰者でもあった運慶の人生を後世に伝えています。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/25257/pictures/12
奈良の寺院医療と四天王の守護
奈良は、日本の医療と薬の文化の原点です。 奈良県の資料『奈良と薬のストーリー』によれば、飛鳥・奈良時代には薬草の採取・調合・施薬が制度化され、国家機関「典薬寮」が薬政を担いました。大宝律令(701年)により、宮中の医療を司る典薬寮が設置され、医師、薬師、針師、按摩師などの専門職が配置されました。また、地方には「医博士」が派遣され、医学教育も行われていました。
https://www.pref.nara.jp/secure/130907/01%20奈良と薬のストーリー.pdf
その一方で、寺院が地域社会の健康を支える実践の場でもありました。とりわけ光明皇后が天平二年(730年)頃に平城京で設けた施薬院と悲田院は、日本初の公的医療・福祉施設とされています。施薬院では病人に薬を与え、悲田院では貧者や孤児を保護しました。これらは平城京の南東、現在の奈良市内に位置し、興福寺や東大寺といった大寺が薬草栽培や施薬を通じて連携していました。
東大寺の正倉院には、光明皇后が夫・聖武天皇の四十九日に際して献納した薬物60種が収蔵されており、その中には遠くペルシャから伝来したとされる香料や生薬も含まれています。甘草、大黄、桂皮、人参など、現代でも使われる生薬の多くが、すでに奈良時代に日本に伝わっていたのです。なお、上野の森美術館で『正倉院 THE SHOW』も開催中です。
https://shosoin-the-show.jp/tokyo/
興福寺は法相宗の大本山であり、唯識思想を根幹とします。唯識思想は、人間の認識と意識の構造を詳細に分析し、苦しみの根源を煩悩として捉え、その転換を説きます。これは心理学的アプローチとも言え、精神的な治療の体系でもありました。興福寺の本尊である薬師如来は、右手に薬壺を持ち、病気平癒を象徴します。北円堂の仏像群にも、この癒しの思想が流れているはずです。上野の展覧会では次の四天王も展示されています。
•持国天(東方): 左手に槍を立て、国家と秩序を守る
•増長天(南方):剣を構え、成長と再生、五穀豊穣を司る
•広目天(西方): 右手に槍を立て、智慧と真実を象徴する
•多聞天(北方):右手に槍、左手に宝塔を高く掲げ、戦いを司る
四天王が四方を護り、中央に弥勒如来が座す構造は、人間の身体を守る免疫システムのようなものかもしれません。北円堂全体が祈りによる空間として構成されており、そこでは彫刻と信仰、そして人々の生への願いがひとつに結ばれています。
鎌倉仏教の祈りと医療
鎌倉時代は、戦乱と末法思想の広がりの中で、人々が現実の苦しみの中に救いを求めた時代でした。浄土宗、禅宗、日蓮宗などが興り、仏は遠い理想ではなく「今を生きる人間の中に存在するもの」として捉えられるようになりました。こうした思想の転換は、仏像表現にも大きな影響を与えました。
運慶や快慶ら慶派仏師は、平安時代の優美な様式から離れ、筋肉や皮膚の張り、感情の動きを細やかに表す写実的な造形を生み出しました。東大寺南大門の金剛力士像や興福寺北円堂の無著・世親像は、人間の苦悩と精神性を同時に刻み込んだ代表作です。これらは、鎌倉仏教が説いた本来具足という思想を造形として具現化したものといえます。
当時の寺院は、信仰の場であると同時に医療と福祉の拠点でもありました。奈良時代以来の施薬院や悲田院の伝統を受け継ぎ、僧侶が薬草療法や看護を行い、薬師如来信仰が病の癒しと結びつきました。こうした文化の延長線上で、鎌倉仏教の祈りは心身の再生をもたらす実践的な信仰と結びついたのです。
鎌倉期の仏像は、信仰対象であると同時に癒しと再生の象徴でした。運慶の木像が現代の私たちにも感動を与えるのは、そこに人間の痛みと希望の双方を見つめた、鎌倉仏教の精神が刻み込まれているからなのでしょう。