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Vol.25241 「戦場に行った神戸大学の学生たち―戦後80年―」特別展見学記

医療ガバナンス学会 (2025年12月19日 08:00)


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神戸大学医学部6年
岡 翼佐

2025年12月19日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

私は現在、神戸大学医学部の6年生である。

この日、私はいつも学んでいる神戸市中央区・楠キャンパスではなく、久しぶりに神戸市灘区にある六甲台キャンパスへ向かった。

本来なら1年生時に毎日通っていたはずの六甲台キャンパスは、同じ「神戸大学」でありながら、どこか遠い場所でもあった。私の神戸大学生活は2020年、コロナ禍とともに始まった。授業はすべてオンライン。2年生以降は楠キャンパスに移り、六甲台キャンパスには、コロナワクチン接種会場や模試会場として数回来ただけだった。

最寄りの阪急六甲駅で電車を降り、坂を登り始める。約3年ぶりの六甲台への坂道だ。途中、視界が開ける場所で足を止め懐かしさに浸っていると、私より若い学生たちがリュックを揺らしながら当たり前のように私を追い越していった。

やがて六甲台キャンパスに到着すると、眼下に港町・神戸の街並みが開けた。その向こうに広がる大阪湾。やはり「神戸大学といえばここだ」と感じられる景色だった。六甲台キャンパスは経営学部、法学部、文学部、工学部など、多くの学部が集まる神戸大学の本学キャンパスであり、現職の内閣総理大臣・高市早苗氏も学んだ場所である。

■ 激戦地に学徒出陣した3人の記録

特別展「戦場に行った神戸大学の学生たち―戦後80年―」は、六甲台第1キャンパス「神戸大学百年記念館」で開催されていた。入口のドアを静かに押し開け、展示室に入ると、空気が少しひんやりしたように感じた。照明は必要なところだけが淡く照らされ、壁際にパネルやガラスケースが並んでいる。戦時中に激戦地へと旅立っていった、神戸大学の前身である旧制神戸商業大学、神戸経済大学の学生たちの記録だ。

「太平洋戦争が激しさを増す中、同じ世代の学生たちが学徒出陣していった」――史実としては、学校の授業やネットを通じて知っているつもりでいた。しかし、百年記念館で私が目にしたものは、そうした「知識」をはるかに上回る「リアル」だった。

これまで学校で学んできた太平洋戦争は、出来事の羅列を記憶しているだけで、どこか遠い世界の話だった。真珠湾攻撃で始まり、戦況は徐々に不利になり、広島・長崎への原爆投下、そして終戦。教科書には数字や作戦名が並び、結果として日本は敗戦国になった。私は、その流れを一応「理解」しているつもりだった。しかし、展示で学徒出陣した先輩方の手記を読み、パネルに書かれた解説文を読んでいくうちに、自分がいかに何も知らなかったかを思い知らされた。

手記のひとつに、海軍航空隊としてフィリピン・ルソン島クラーク基地へ進出した小川武三さん(神戸商業大学15回生)の記録があった。

昭和19年秋、フィリピン・ルソン島クラーク基地に進出した部隊は、昭和20年、突然の陣地撤退を命じられ、山中で自活しながらゲリラ戦を行うよう命じられる。その後は、軍紀の乱れ、上下の争い、飢餓とマラリア、土民のゲリラ襲撃、友軍同士の殺し合い。「この世の地獄」としか思えない光景が山中で続く。理性を失い、動物のようになっていく人間の姿。死の恐怖すら薄れ、日々朦朧としながら山中をさまよい歩く姿が、生々しい手記の言葉から想像される。1,700名いた部隊の生存者は、わずか13名。クラークに着任した学徒出陣組93名のうち、生きて帰ったのは3名だけだったという。

同じ展示室には、ラングーン(現ヤンゴン)からの脱出の途中で空襲を受け、重傷を負った岩村英雄さん(神戸商業大学14回生)の記録もあった。

胸の傷は長さ16センチ、幅4センチ、深さは骨まで到達した。脚の傷も骨が露出するほど。出血で意識が遠のく中、ブイを胸に当てて出血を止め、海に身を沈めながら爆撃機の去るのを待つ。現地ビルマ人に救われ、牛車で敵中突破し、サルウィン河口からバンコク、サイゴン(現ホーチミン市)の陸軍病院へとたどりつくまでの道のりが記されていた。

さらに、中国大陸での行軍を振り返った冨田利和さん(神戸商業大学予科3回生)の記録。

三日熱マラリア、アメーバ赤痢、戦争栄養失調症。3日に一度40度を超える高熱と、一日十数回に及ぶ下痢に耐えながら、夜行軍を続ける。終戦後、漢口(現武漢市)の陸軍病院で測った体重は38キロしかなかったという。

教科書では、戦争の流れも戦局の変化も説明されている。しかし、そこで戦った一人ひとりの汗や血や声までは載っていない。医学部に進んでからは、マラリアやアメーバ赤痢についても教科書で学んできた。病名も症状も合併症も、ノートには整理されている。しかしこの日、展示室で記録を読んでいると、普段見慣れた文字列がまったく違うものに見えた。熱にうなされながら夜の行軍を続ける兵士の息づかい、飢餓と恐怖の中でも前に進まなければならず歯を食いしばる姿が、活字を通して不思議と鮮明に想像されてきた。

自分はこれまで何ひとつとして分かっておらず、ただただ無機質な知識として暗記していただけだったのだと痛感した。

■ 五感でしか感じ取れない何か

展示の終盤、部屋の一番奥に、その日もっとも衝撃を受けたパネルがあった。

高さ2.6メートル、幅5.1メートル。そこに、丸刈り・詰襟姿の青年たちの顔写真がずらりと並んでいる。びしっと前を向いている者、少し緊張した表情の者、おっとりした優しさを感じさせる者。「戦死者の顔写真」と聞いて、私は勝手に、覚悟をにじませた硬い表情を想像していた。しかし、実際に目にしたのは今の六甲台キャンパスを歩いていてもおかしくない、「普通の学生」の顔ばかりだった。

それぞれの顔写真の下には、「フィリピン」「インドネシア」「沖縄方面」などの戦死地名が記されている。パネルの前に立っていると、不思議なことに、こちらが彼らを見るというより、こちらが見られているような感覚になっていく。

今の自分の生活はどうか。逃げずに向き合えているか。本当にやり切ろうとしているか。
そんな問いかけが、彼らの視線から投げかけられているようだった。

学徒出陣で戦地に赴いた先輩方の積み重ねた「努力」と、いま医学部6年生として机に向かっている自分の「努力」は、ベクトルも、覚悟も、前提も、すべてが違う。わずか80年。生まれた時代が違えば、そこに並んでいたのは私の顔だったかもしれない。無念のまま命を落とした先輩方を前に、気がつくと私は、視界が滲み静かに手を合わせていた。

展示を見終えて、改めて頭に浮かんだ言葉が「百聞は一見にしかず」であった。単に「聴覚より視覚の方が情報量が多い」という話ではない。教科書やネット記事を百回読むよりも、この場へ一度来て、自分の目で見て、肌で感じること。それがどれほど違うものか。

太平洋戦争を直接語ることのできる世代は着実に少なくなっている。誰かが足を運び、目で見て、肌で感じて、それを言葉にしていかなければ完全に失われていく、戦争のリアル。

神戸大学百年記念館という「場」そのものに、積み重なった時間や思いが染み込んでいて、そこに自分の身体ごと入り込むことで、五感でしか感じ取れない何かがある。あの空間には、たしかにそんな気配が宿っていたように感じる。そして、戦争を初めて「自分ごと」として感じられた瞬間だった。

■ 「一人」を深く見つめること

少し話が変わるが、先日、元NHK報道ディレクターで現在はフリーの戦場ジャーナリストとしてウクライナを取材されている、五十嵐哲郎さんにお話を伺う機会があった。NHKスペシャルなどで戦争や平和をテーマとした番組を多く手がけたのち、2022年にNHKを退職され、フリーランスとして現地に何度も足を運び、取材を続けているという。

五十嵐さんは今年3月、ウクライナ軍兵士ヴァシール・グニャテュクさんの人生を追った記事を発表された。ヴァシールさんは、侵攻前はリビウ州の音楽学校で音楽教師として働き、ボタン式アコーディオン「バヤン」や民族楽器「スピルカ」を子どもたちに教えていたという。家族との穏やかな日常を送っていたが、侵攻後彼は自ら志願し、第80独立空中強襲旅団の一員として前線へ向かった。前線では「音楽家(ムゼィカント)」と呼ばれ、バヤンを奏でて自分より年下の仲間の心を支え続けた。

若者が中心の精鋭部隊の中で40代の彼が選んだのは、「前線へ行く若い兵士の枠を、自分が代わりに担う」という決断だった。その背景にあった、「若者たちを守りたい」というヴァシールさんの言葉。だが五十嵐さんによれば、それは抽象的な『若者一般』ではなく、何よりも『自身のひとり息子』を守りたいという切実な思いだったのではないかという。五十嵐さんご自身もお子さんがいる身として、年齢の近いとは思いや考えが通じる部分が多かったと振り返っておられた。

国家や社会を背負う――、戦争ではそう語られがちだ。しかし現実に人を突き動かすものは、自分の子、自分の家族という、極めて個人的で、誰より真剣になれる存在なのだ。

ヴァシールさんは教師として多くの若者たちに向き合いながら、同時に『自分の命より大切なもの』を抱えていた人だった。「岡君も、自分の命より大切なものを抱えると分かるようになると思うよ」。五十嵐さんはそう声をかけてくださった。私自身まだ子どもはいないが、両親からの愛を受けるたびに、そうに違いないと感じることがある。五十嵐さんの言葉は、とても腑に落ちるものだった。

残念ながらその後、ヴァシールさんは戦死された。五十嵐さんは、彼と過ごした時間を手がかりに、家族や戦友、同僚たちを訪ね、「人生の豊かさとは何か」を記事にされた。

記事の中で妻テティアナさんは、ヴァシールさんにとって「人生の豊かさ」とは、やはり子どもたちの存在そのものだったと語っている。その豊かさを支えていた日常は、戦争によって、彼自身の死という形で奪われてしまった。それでも彼は、若い世代が「人生の豊かさ」を味わえる未来を願い、同じ苦しみを誰にも味わってほしくないと最期まで願い続けていた。

4万5千人以上とされるウクライナ軍戦死者の中の、たった一人。その「一人」を深く見つめることで、遠くで起きている戦争が急に自分ごととして迫ってくる。自分なりのリアルを追体験できるのだと、強く感じさせられた。

■ 今の自分は、彼らに胸を張れるだろうか

今回、神戸大学百年記念館の展示で学んだのも、同じ視点である。戦死者を数字で扱うのではなく、顔と名前と背景を持つ「一人」として見つめること。回想した小川武三さん、岩村英雄さん、冨田利和さん、それ以外の方々も皆、神戸商業大学生という肩書きの向こうに、それぞれの青春があり、それぞれの家族・友人がいた。

私は、五十嵐さんのように命の危険を冒して現地に赴いたわけでもなければ、前線の兵士と直接言葉を交わしたわけでもない。もちろん、フィリピンやビルマ、中国大陸といった戦場に立った経験もない。それでも、当時の手記や帽子、短剣、出陣の際に友人たちが寄せ書きした日章旗などに触れ、先輩方の写真や直筆の文字を目の前にすることで、私なりの「リアル」を五感で体験した。

百年記念館を出て、再び六甲の坂道を下る。傾きつつある陽に街の陰影は深まり、自身の感覚が研ぎ澄まされたかのようだった。何気ない光景にふと、違う時間軸が重なる。つい80年前、この坂を行き来していた学生たちの先にあったのは、このような平穏ではなく「戦場」だった。

神戸商業大学、神戸経済大学、そして今の神戸大学。私たちは今、人生を謳歌する自由の許される時代に生きている。戦地に送られることもなく、私は医学部6年生として国家試験を受け、医師として働く未来を自然なこととして思い描いている。しかし、つい80年前まで、その「当たり前」が当たり前ではなかった世代が、ここ六甲台にいた。

今の自分は、彼らに胸を張れるだろうか。先輩たちに顔向けできる生き方ができているだろうか。

リアルを求め、向き合い、触れて、感じとる。

医学生である私が、医師として生きていくべき姿であり、覚悟だ。単に「病気」を診るのではなく、患者さんという「一人」を診る。患者さんの苦しみや不安は、医学書には載っていない。戦地へ赴いた先輩方に恥じぬように、私はいつでも自分の目で見て、肌で感じることから始めたい。そして考え続けていきたい。

 

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