
医療ガバナンス学会 (2026年3月6日 08:00)
「手軽な起業」の幻想
カフェ開業は比較的参入障壁が低い。特別な資格を必要とせず、一定の資本があれば小規模店舗として開始可能である。そのため、早期退職者や若年層にとって「脱サラ」型起業の選択肢として魅力的に映る。
しかし、参入が容易であるということは競争も激しいということだ。韓国紙ハンギョレ新聞の報道によれば、過去10年間で新規カフェ数は約45%増加する一方、廃業数は181%急増したとされる。また2023年時点で、ソウル地域のコーヒー・飲料業種における3年平均生存率は51.9%、5年生存率は34.9%にとどまる (Yoon, 2024)。
これは、典型的な高密度・低差別化市場の特徴を示している。価格競争が激化するなかで、差別化は味や品質よりも、空間演出やブランド構築へと傾斜しやすい。固定費(内装投資・立地コスト)が増大する一方で、調整可能な費用である人件費はコスト削減対象となりやすい。
週15時間の壁
韓国の労働基準法は、労働者保護の強化を目的として週15時間以上勤務する労働者に対して「週休手当」の支払いを義務づけている。例えば週20時間勤務した場合、使用者は20時間分の賃金に加え、4時間分の賃金を追加で支払わなければならない。
カフェ産業は、アルバイト依存度が高い、需要が時間帯によって大きく変動する、人件費比率が高い、という特性を持つ。そのため、労働時間を細分化しやすい構造を有している。経営者が合理的にコスト最小化を図るならば、労働時間を15時間未満に抑制するインセンティブが生じることは理論的に予測可能である。
その結果、即戦力となる経験者の雇用が優先され、未経験の若年層は短時間枠に回りやすくなる。若者は複数のアルバイトを掛け持ちしなければならない状況に置かれる。実際、アルバイトプラットフォームのアルバモン(日本のタウンワークに相当)で行われた調査によれば、20代アルバイトの約23%が二つ以上の職を持ち、七割が新たな仕事探しの困難さを感じているという (Lee, 2024)。もちろん、すべてを週休手当制度のせいにすることはできない。最低賃金の上昇や景気変動も影響しているだろう。それでも、明確な閾値があるとき、人はその線を意識して行動する。
分断される働き方
短時間雇用の増加は、単に収入の問題ではない。勤務時間が安定しなければ、技能形成は進みにくく、将来設計も描きにくい。労働が細切れになれば、「努力すれば安定する」という感覚は弱まる。実際、労働市場への参加を控え、「何もせずに休む」という選択をする若者が近年増加している点も事実だ (Dan, 2025)。その背景は単純ではないが、断片化した就労経験が無関係だとは言い切れない。カフェ産業に見られる現象は、若年労働市場の脆弱性を映す縮図なのかもしれない。
国際比較と制度設計の特質
日本では「106万円の壁」「130万円の壁」が議論されてきた。これらは主として社会保険料負担の発生に関わる制度的閾値であり、雇用主に即時的な追加賃金支払い義務を課す仕組みではない。
多くのOECD諸国でも、閾値は主として超過労働に対して設定される。フランスの週35時間制は代表例だが、制度の中心は時間超過分への割増賃金であり、短時間労働の発生自体を抑制する構造ではない。
一方で韓国の週休手当制度の特質は、「一定時間を超えた時点で即座にコストが跳ね上がる」構造を持つ点にある。この設計は労働者保護を目的としつつも、雇用の細分化という副次的効果を生み出す可能性を内包している。
制度改善への道
週休手当そのものを否定する必要はない。問題は、「15時間を超えた瞬間に負担が一気に増える」という制度の形にある。段階的補助制度への転換や、一定時間以上で比例的に増加する設計、小規模事業者への税制優遇など、急激なコスト跳躍を緩和する方法が改善方法として考えられる。重要なのは、どれだけ守るかだけではなく、「どう守るか」である。明確な境界は回避行動を誘発し、結果として本来守られるべき労働者がその境界の外側に置かれてしまう可能性がある。労働者保護と雇用の安定は対立する概念ではない。制度の設計次第で、両立の余地はある。
一杯のコーヒーの背後に
カフェの増加は都市の活力を象徴する。しかし、その背後には、過密競争、上昇する固定費、そして制度的閾値が交錯する構造がある。一杯のコーヒーの価格は手頃である。だがその価格は、市場競争だけでなく、制度設計のあり方にも左右されている。労働者保護制度は不可欠であるが、その設計が市場行動をどのように再編成しているのかを検証することも同様に重要である。韓国のカフェ産業は、制度的閾値が労働市場に与える影響を考えるうえで、示唆的な事例を提供している。問われているのは、保護か効率かという単純な二択ではない。いかにして保護の理念を維持しながら、雇用の断片化を招かない制度を設計するかという課題である。
街角のカフェは、消費文化の象徴であると同時に、現代の働き方の輪郭を映し出す鏡でもある。
参照
Dan, J. (2025). 何もせずただ”休んだ青年”1年で12%増加した(韓国語)。キョンブク毎日新聞。https://www.kbmaeil.com/article/202501190417249より取得。
Lee, G. (2025). 週休手当とは何か… 「分割アルバイト」が史上最多に···「人件費が負担できない」(韓国語)。ニュースワン。https://www.news1.kr/society/general-society/5709072より取得
Lee, T. (2024)。アルバイト従業員10人中7人、「アルバイト先を見つけるのが難しい」…理由は?(韓国語)。ニューシアン。https://www.newsian.co.kr/news/articleView.html?idxno=68568#:~:text=%EB%98%90%2C%20%EC%95%8C%EB%B0%94%20%EA%B5%AC%EC%A7%81%EC%9E%90%2010%EB%AA%85%20%EC%A4%91%207%EB%AA%85%EC%9D%B4%20%EC%83%88%EB%A1%9C%EC%9A%B4,%EC%96%B4%EB%A0%B5%EB%8B%A4%EA%B3%A0%20%EB%8B%B5%ED%96%88%EA%B3%A0%2C%20%EC%97%B0%EB%A0%B9%EC%9D%B4%20%EB%86%92%EC%9D%84%EC%88%98%EB%A1%9D%20%EA%B7%B8%20%EC%A0%95%EB%8F%84%EA%B0%80%20%EB%86%92%EC%95%98%EB%8B%A4.より取得
Yoon, S. (2024).「大韓民国コーヒー共和国」… 10万個を超えるコンビニエンスストアの2倍(韓国語)。ハンギョレ新聞。https://www.hani.co.kr/arti/economy/economy_general/1147045.htmlより取得