医療ガバナンス学会 (2011年5月30日 15:00)
略歴:細田満和子(ほそだ みわこ)
ハーバード公衆衛生大学院リサーチ・フェロー。博士(社会学)。1992年東京大学文学部社会学科卒業。同大学大学院修士・博士課程を経て、02年から 05年まで日本学術振興会特別研究員。05年から08年までコロンビア大学メイルマン公衆衛生校アソシエイト。08年9月より現職。主著に『「チーム医 療」の理念と現実』(日本看護協会出版会、オンデマンド版)、『脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学』(青海社)。
○311からの子どもたち
・スクール・バスでの通学
屋内退避となっている南相馬市の一部や原町では、小学校から高校まで半数くらいのこどもたちが避難しました。残った半数の子どもたちは、南相馬市の鹿島区 や相馬市の学校などにスクール・バスで通っています。たとえば相馬高校では、全校生徒は600人ですが、相馬農業高校から400人くらい、原町高校から 300人くらいが、県が用意したスクール・バスで通っています。先生たちも一緒に来ていて、理科室や音楽室などの特別教室や、体育館を仕切りで区切った教 室で、原則としてそれぞれの学校が独立して授業を行っています。つまり一つの校舎に、3つの学校が入っているという訳です。
相馬高校では、2週間ほど始業式が遅れましたが、夏休みを削って後れを取り戻すとのことでした。子どもたちを長年見続けてきた武内先生は、これからの子どもたちの心の状況に一抹の不安もあるようでした。
「今は緊張しているから大丈夫かもしれないけれど、今後はメンタルの問題が出てきますね。生死を越えて、食べ物があって、何を失ったとかがだんだん見えてくるんですよね。」
相馬高校ではこれまで、担任が生徒一人一人の話を聴いて、気になる生徒のことは注意深く見守ることにしているとのことでした。親が原発作業員という子どもたちもいるので、簡単に原発事故のことを話題にしたり、まして非難したりすることはできないということでした。
それでも、授業は粛々と行われていました。高村先生の案内で見学させていただいた日本史のクラスでは、グループに分かれ、戦国大名の財力や兵力、立地や周 囲との関係性などを調べ、大名同士の勝敗を競うというユニークな授業が行われ、生徒たちは楽しそうに意欲的に取り組んでいました。
・遺児・孤児
相馬市は地震による被害は少なかったものの、津波の被害は甚大で、避難誘導のために10名の消防士の方が殉職され、遺児は11名に上ります。それ以外にも親御さんを亡くした子どももいて、18歳未満の遺児と孤児と合わせると44人になります。
そこで相馬市では、そうした子どもたちが18歳になるまで毎月3万円ずつ支給することを決め、義援金を募るために基金口座を作りました。目標総額は2億円 で、不足する場合は市の一般財源で賄い、越えるようだったら孤児が大学に行く場合の奨学金にするそうです。相馬市の立谷秀清市長はメール・マガジンでこの ように書いています。
「我われ残された者たちが、親の無念の代わりを果たすことなど、とても出来ないことだが、万分の一でもの償いと思い、生活支援金条例を作ることとした。」
全国から、そして世界から、子どもたちのために募金が集まることを願ってやみません。
○311から未来に向けての構想
・「新しい村」
相馬市では、従来から高齢者が閉じこもりや寝たきり、孤独死になってしまわないように、いろいろな試みをしていました。その一つが「ライフネット相馬」で す。市民である限り、誰からも声をかけられないという状況がないよう、高齢者同士が声をかけ合い、希望者には昼食を届けるというサービがス行われていまし た。この試みをしばらくやっているうちに、声をかけられている人が、自分から声をかける人になるという現象も起こってきました。
まさに軌道に乗ってきた時に、この災害が降ってきたのです。災害直後は合計4400人の方々が避難所で過ごしました。立谷市長はすぐに、孤独死を絶対に出 すまいと心に決めました。直ちに被災者全員の生活状況を調査すると、110人の方が単独世帯になったことが分かりました。最高齢は93歳の男性で、こうし た方々の中には、自分だけが助かったことを悔やんでいる方もいたとのことです。
かねてから、高齢者が互いに支えあえるような共助生活を構想していた市長は、この構想を基に、震災仮設住宅ではなくて、復興永久住宅を提供したいという意 欲を語ってくださいました。プライバシーを尊重した個室が、食事のできる集会所を取り囲む空間。食事は高校生がクラブ活動として作ったらどうか。お互い声 をかけ合える暮らし。介助が必要となった時もずっと暮らせる仕組み。避難してきている他の自治体住民も受け入れる。立谷市長はこれを「新しい村」と呼んで います。この「新しい村」の構想が実現することを願っています。
・これからの子どもたちへ
子どもたちのためには、相馬フォロワーチームというボランティアの組織が立ち上がりました。中心になるのは、相馬市出身で、長年難民を支援してきたパワフルな女性、横山さんです。
彼女はちょうどカンボジアに難民支援に行こうと準備していたところ、震災に遭いました。主な活動は、避難所を回り、子どもたちの様子を見て、どんな問題が あるのかを見つけ出すことですが、その他にも、困っていることを見つけては、それに対処しようと奔走していました。訪ねて行ったその日の横山さんは、1階 は津波の被害に遭いながら、2階は大丈夫だからと元の家で暮らす人たちに、物資が届いておらず孤立化しているという情報を聞き、その場を探し出して、対応 にあたっていました。
横山さんと一緒に活動するのは、警戒区域から避難している臨床心理士や、星槎グループの職員の方々です。星槎グループは、保育園・幼稚園から大学までユ ニークな教育施設を展開しており、会長の宮澤保夫さんは、「自分が求められることをやる。必要としている人に、必要なものを届けるのが自分のためになる」 という考えから、相馬市内に宿舎を借りて、星槎グループの職員や東大医科研の上研究室のボランティアが寝泊まりする場所を提供しています。私も滞在中は、 脇屋さんや大川さんに大変お世話になりました。
これからの未来を担う子供たちが、安心できる環境の中で、のびのびと過ごせることは大人たちの責任です。育った地域に誇りを持ち、しっかりと足場がある状 態で、広い世界に飛び出して行ってもらいたいものです。中村第二小学校の子どもたちとボストンの学校の交流も、菅野校長をはじめとした先生方の協力と生徒 たちの気持ちで進みそうですし、これからの子どもたちに期待したいと思います。
○おわりに
尾形さんは、津波に襲われた地区を案内してくれました。地震から2か月たって、すこしずつ片付けが進み、道路は通れるようになってきましたが、抜けるよう に青く晴れた空のもと、海からかなり遠い田んぼの中に、とつぜん大きな漁船がひっくり返っていたり、壊された家や電柱などがうずたかく積まれたりする光景 が広がっていました。泥だらけのランドセルやぬいぐるみもありました。10メートルから17メートルの、黒い壁のような波に襲われた人々の恐怖はいかほど のものだったのか、本当に胸が痛くなりました。
この地が、これからどのように元の日常を取り戻し、かつてのように愛される町になるのか、それはこの地の人たちだけの問題ではない、と強く思いました。ま た、放射能に対する不安、被曝を避けるために避難すべきか、それまでの生活を守るためとどまるべきか、こんな悩みをこの地の人だけに押し付けてはいけない と思いました。
この地の復興のためには日本中の人々の協力が必要で、逆にこの地が復興できるかどうかで日本中の人々の力が試されていると思います。さらにこれは、もはや 国内の問題ではなく、世界中から理解と英知と支援を集め、協力してやっていく問題だとも思いました。(その意味を込めて、表題では「福島」ではなく「フク シマ」としました。)
今回、様々な不安が重くのしかかる状況でも、被害の最小化、復旧、復興に向けて希望を忘れず対策を講じている地域の人たち、高校生、行政に関わる人々、ボ ランティアに沢山のことを教えられました。ここには、自然災害、放射能事故、行政とボランティア、差別、健康と生活の質、その他にもたくさんのテーマが湧 いて出ています。ここからの学びと教えは、人類の共通の財産にすべきと言っても過言でないと思います。私たちに何ができるかを考え、関わってゆく(コミッ トしてゆく)ことで、私たち自身もたくさんのことを得ることができると思いました。
追記:この原稿の一部は、出張先の大阪空港の待合室で書きましたが、おりしも東日本大震災のチャリティコンサートが行われていました。大阪は東京よりも震 災と遠いと思いこんでいたので、そうではなかったことを嬉しく思い、犠牲者に捧げるG線上のアリアを聴きながら、日本各地で行われているであろうこうした 活動の思いが被災地に届くことを願ってやみません。
<参考ウェブサイト>
相馬市震災孤児等支援金
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/gienkin/tunami_orphan_J.html
English: Donations to the Soma City Earthquake Disaster Orphan Scholarship Fund
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/gienkin/tunami_orphan_E.html