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臨時 vol 8 「メディアが報道しない東京都立墨東病院事件の背景 第5回」

医療ガバナンス学会 (2009年1月20日 09:55)


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過去4回にわたって東京都立墨東病院妊婦受け入れ不能事件の背景について説
明してきました。これまでの配信で、医療訴訟の濫発が産科医の萎縮を招いてい
ると主張してきました。この主張は、医療従事者以外の方々にとっては、医師の
責任逃れのようにも聞こえるでしょう。二階経産大臣ではありませんが、「医療
者は甘えている。たるんでいる」とお感じになる方もおられると思います。確か
に、医療界が自律し、改善しなければならない点は多々あります。

しかしながら実際、医療者と患者のコミュニケーションが乱れ医療訴訟が濫発
されることは、医療を崩壊させる最大の危険因子なのです。この問題を解決する
には、医療者だけの努力では不可能で、医療界と国民の共同歩調が必要です。そ
のためには、医療に関する情報開示を徹底させることが必須です。本来、この仕
事はアカデミズムとジャーナリズムの責務ですが、これまで大学医学部に在籍す
る医師・研究者が、この問題を社会に十分に発信してきませんでした。自戒の念
も込め、これから数回にわたり、医療と訴訟の問題について解説したいと考えま
す。


●医療訴訟数の増加

近年、医療訴訟は急増しています。例えば、1997年から2006年の10年間に、新
たに提起された医療訴訟数は597件から912件へ、1.5倍に増加しています(井上
清成著、『よくわかる医療訴訟』、毎日コミュニケーションズ)。このような変
化を受けて、2001年には東京地裁と大阪地裁に医療訴訟を集中的に担当する医療
集中部が設立され、その後、千葉、名古屋、福岡にも設置されています。

これは医療訴訟の増加に対する裁判所の対応ですが、他の司法専門家、例えば
弁護士や検事にも医療に関係する人が増えてきています。「医師誘発需要学説」
(医者が増えるほど、医療費が増える)ではありませんが、司法関係者、特に医
療に関係する司法関係者が増加することが、医療訴訟の増加に拍車をかけること
を心配する学者もいます。


●産科医の約半数が一生の間に1回は訴訟に巻き込まれる

今回は、産科の医療訴訟を対象に議論しましょう。まず、産科における医療訴
訟の実数は、どの程度でしょうか。最高裁のHPによれば、平成17-19年の産婦人
科における1年間の既済訴訟事件数の平均は139件です。産婦人科医の数は9,500
人程度ですから、100人の産婦人科医が1年間働くあいだに1.5件の訴訟が発生す
ることになります。医師の実働を40年と仮定すれば、約60%の産婦人科医が一生
の間に最低1回は訴訟に巻き込まれる計算です。産婦人科は大きく分けて、お産
を扱う産科と子宮がんや不妊を扱う婦人科に分かれますが、訴訟リスクは産科の
方が高いため、この60%という数字は産科医に関しては過小評価です。

訴訟形態についても、従来はほとんどの医療訴訟の被告は病院となっていまし
たが、最近では被告として病院と連名で担当医が名指しされる(訴状に記載され
る)ことが増えています。皆さんは、同僚の半数以上が被告として訴訟に巻き込
まれる職業というのは想像できるでしょうか? 私の知る限り、過半数が訴えら
れる堅気の職業は聞いたことがありません。このように考えた場合、産科医の訴
訟リスクは高いと言わざるを得ません。


●産科、外科は医療訴訟のハイリスクグループ

では、産婦人科と他の診療科では、どの程度の差があるのでしょうか。前述の
最高裁のHPの資料によれば、医師1000人あたりの年間の訴訟数は高い順に、産婦
人科14.5、形成外科 14.0、 外科 9.5、 整形外科 6.3、 泌尿器科 4.0、 内科
3.6、 耳鼻科 2.5、 精神科2.4、 眼科 2.3、 小児科 2.2、 皮膚科 1.9、麻酔
科 1.5、歯科 1.0となっています。

産婦人科と形成外科が高リスク群、外科系が中リスク群、内科系やマイナー臓
器系(眼科・耳鼻科・皮膚科)を低リスク群に分類できます。最近、外科系に進
む医師が減ったといわれていますが、勤務が厳しいこと以外に訴訟リスクが関係
しているのかもしれません。


●産科と形成・美容外科

ところで、形成外科と産婦人科の訴訟数が同程度であることを、どのようにお
考えでしょうか。形成外科も、産科同様に訴訟が濫発されて、「絶滅危惧種」に
なっているのでしょうか?ところが、形成外科と産科に対する訴訟の影響は全く
違うようなのです。厚労省によれば、産婦人科医は2002年の10,618人から2006年
には9,592人へ10%も減少していますが、形成外科医は2002年の1,650人が2006年
には1,909人へと16%も増加しているのです
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/06/tou9.html
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/04/tou9.html)。何故、このよ
うな違いが生じるのでしょうか。形成外科と産科の比較は、私たちに新しい視点
をもたらしてくれそうです。

まず、形成外科の歴史を簡単に説明しましょう。形成外科とは、身体外形の変
形や異常を、形態的および機能的に修復しようとするもので、第一次世界大戦の
塹壕戦で顔面を損傷した兵隊を治療したことが始まりです。第一次世界大戦では、
機関銃や大砲が普及し、弾幕を避けるために、塹壕を掘り進めながら戦う塹壕戦
が主流になりました。塹壕戦では、兵士は顔面がむき出しになるため、顔面を損
傷する兵隊が続出しました。

西部戦線に配属されてこの状況を目の当たりにしたイギリスの軍医ハロルド・
ギリスは、帰国後に軍病院に専用病棟を創設し、5,000人以上の帰還兵の治療に
あたりました。従来、顔面創傷は他の部位の傷と同様に縫合するだけでしたが、
これでは治癒過程で創部が収縮し、顔面が変形してしまいます。ギリスは顔面を
できるだけ元の形に復元すべく皮膚移植法等様々な方法を開発し、形成外科学を
確立しました。現在、形成外科医は、顔面損傷だけでなく熱傷、口蓋裂、手足の
先天異常などの様々な外傷・疾病を治療しています。このような治療行為は、多
くの患者にとり不可欠なものと認識されるようになり、わが国では健康保険でカ
バーされています。

形成外科が特殊なのは、豊胸術、隆鼻術、脱毛などの美容外科を含むことです。
美容外科は健康保険が効かず、完全な自由診療のため、美容外科にウェイトをお
く形成外科医は高収入になります。例えば、かつて公表されていた長者番付の上
位に位置した医師には美容外科医が多かったと言われています。この状況は、お
産は健康保険が適用されないにも関わらず、様々な方法を通じて、厚労省による
統制を受ける産科領域とは対照的です。また、形成・美容外科では、産科と比較
して急患や当直の回数が少なく、労働条件は良好です。このように、形成・美容
外科は訴訟のリスクは高いのですが、収入や労働環境が良好であるため、志望す
る医師が急増しています。これは、経済的インセンティブによって訴訟リスクが
バランスされているとみることができるかも知れません。

形成外科を参考にすれば、産科や外科の崩壊を食い止めるためには、産科や外
科の勤務医の給料を、形成・美容外科医並みにあげることを考慮しても良いかも
しれません。国民感情で問題は残すものの、もし、この程度の給料で医療崩壊が
食い止められるなら、費用対効果が高いということができるでしょう。

ちなみに昨年、人事院が国立病院に勤める医師の給与を平均11%上げるように
勧告しました。現在のわが国の経済状態を考えると画期的なのですが、その実効
性は焼け石に水と言わざるを得ません。


●医師賠償責任(医賠責)保険

ところで、増加する医療訴訟に対して、医師はどのように対応しているのでしょ
うか。実は、他の分野と同様に、医療事故に対する医師賠償責任保険(医賠責保
険)という保険商品が存在し、リスクをヘッジしています。医賠責保険にご興味
がおありの方は、医業経営コンサルタントの高月清司氏の論文をご一読されるこ
とをお奨めします(http://mric.tanaka.md/2008/07/16/_vol_95.html)。

医賠責保険とは、医療事故に関し医師に過失があり、賠償責任が生じたときに
これを補償するものです。賠償保険ですから、医師・病院に過失がなければ補償
金は支払われません。しかしながら、医療事故では過失認定が困難なことが多い
ため、医療者と患者・家族の主張が真っ向から対立し、長期間の民事裁判に発展
することも稀ではありません。この状況は、患者・家族にとっては医療界の隠蔽
体質に、医療者にとっては医療の不確実性に対する無理解に映ります。いずれの
主張も双方の立場を反映しており、医療事故は患者・家族と医療者には全く異なっ
た姿に見えるのでしょう。その状況は、黒沢明監督の映画『羅生門』で描かれる
世界に似ています。

一方、日本の病院経営者の多くは、紛争が長期化して病院経営に支障が出るこ
とを嫌がります。そのため金銭で決着がつく問題であれば、過失を認めて早期に
示談をしようとする傾向があります。医賠責保険を運営する保険会社の立場に立
てば完全なモラルハザードですが、これまでは医療事故・訴訟の数が少なかった
ため、保険会社も大目に見てきました。

例えば福島県立大野病院事件では、福島県幹部が”慣例通り”医賠責保険を用
いて遺族に補償するため、県の事故調査報告書に、わざわざ過失を認めるような
書き方をしたと言われています。それが仇となって、後日この報告書を閲覧した
家族は医療者への不信感を抱き、このような医療界の慣行を知らない福島県警も、
その調査報告書を参考に逮捕・起訴へと進んだのですから、事態は深刻です(福
島県警は、この点だけ考えると同情の余地がありますが、総合的に考えれば強引
であったと言わざるを得ません)。医療界と保険業界のこのような慣行について
は、早急に改善する必要があります。


●危機に瀕するわが国の医賠責

では、わが国の医賠責の実情はどうなっているのでしょうか。わが国で、医賠
責保険が最初に発売されたのは1970年代で、2009年1月現在、損保ジャパン、東
京海上日動、三井住友、日本興亜、アリコの5社が取り扱っています。どの会社
の医賠責保険も大枠は同じで、日本国内の医療行為によって生じた医療事故を対
象とし、通常は医療事故一件あたり最大1億円、期間中(通常は1年)最大3億円
が補償されます。ただし、繰り返しますが、法律上の賠償事故に限定され、無過
失の場合は補償されません。

一方、医賠責に加入している医師が支払う保険料は定額で、年間5万円程度で
す(2008年現在)。これは後述する米国の医賠責では、加入者の事故リスクに応
じて掛け金が変動し、産科医や救急医の年間の掛け金が1,000万円に上る場合も
あることとは対照的です。また、米国の医賠責保険では、保険加入条件としての
診療の質を満たすため,一年間に診療できる人間の数に上限を設けることが普通
です。特に産科では,1年間の出産数が200人ほどに制限されることが一般的であ
り,日本の400人以上とも言われている平均出産担当数では保険料が釣り合いま
せん。もし、米国の医賠責保険の制度を、そのままの形でわが国に導入したら、
医師不足に拍車がかかったり、そもそも保険に加入できない問題が発生する可能
性があります。

このように、わが国の医賠責は医療事故・訴訟が多発することを念頭に制度設
計されていません。もしも、医療訴訟が増加し、賠償額が高額化すれば、日本の
医賠責は容易に破綻することが予想されます。事実、近年わが国の医賠責保険は
恒常的に赤字であり、保険料の大幅な値上げを考慮していると聞いています。


●米国での懲罰的損害賠償

米国は言わずと知れた訴訟大国です。2008年現在の弁護士数は約120万人で、
1970年初頭の40万人から急速に増加しています。これは、日本の弁護士数(約
2.5万人)の50倍です。訴訟数も多く、米国の民事訴訟は年間2,000万件を超えて
おり、日本の新規受付数が15万件ですから100倍以上です。

米国の民事訴訟の特徴の一つとして、懲罰的損害賠償の存在が挙げられます。
そもそも、民事訴訟における賠償金額は「(所得)X(働ける年数)+慰謝料」
という単純な方程式で計算されるものですから、所得も平均寿命も延びた現在、
賠償額が高額化するのは当たり前です。

これに加えて米国では、加害者の行為が強い非難に値する場合、加害者に制裁
を加えて将来の同様の行為を抑止する目的で、裁判所または陪審の裁量で、実際
の損害の補填としての賠償に上乗せして支払いを命じることが認められています。
これは、1992年、ニューメキシコ州アルバカーキで起こったマクドナルド・コー
ヒー事件での270万ドルの賠償が有名ですが、医療界でもニューヨーク州で、脳
性麻痺の出産に関して帝王切開をしなかった医師のミスを認め、200億円の賠償
金を認める判決が出ています。このように米国では、医療訴訟の賠償は高額化す
ることが多く、1件あたり100万ドルを超えることが少なくありません。

ちなみに日本でも医療訴訟の賠償額は高額化しつつあります。わが国の法律家
は民事訴訟を通じた弱者救済という視点に立っているため、1件あたり1億円を超
える判決が出ることが珍しくなくなりました。慰謝料が高額化しているという点
では全く米国と同じ状況で、欧州、特に北欧とは異なります。


●医賠責の破綻が医療崩壊を招く:2001年ミネソタ州のケース

医賠責保険は、高度医療に従事する医師にとっては不可欠な社会制度です。医
賠責に加入しているから医者は安心して医療を行うことができると言っても過言
ではありません。もし医賠責保険が破綻したら、誰も危険な医療行為は行わなく
なります。ところが、わが国では医賠責保険に対する社会の認知度は低く、その
基盤は極めて脆弱です。

過去にアメリカでは、医賠責保険が破綻したために医療が崩壊したことがあり
ました。この件に関する詳細をお知りになりたい方は、李啓充氏の『市場原理が
医療を亡ぼす』(医学書院)をお奨めします。

簡単に言いますと、2001年ミネソタ州の「セント・ポール・カンパニーズ(SP)
社」が年間10億ドルの損失を被っていると主張して、医賠責保険から全面撤退を
発表しました。SP社の撤退以降、米国では大手保険会社は医賠責保険を手がけな
くなりました。

SP社の医賠責からの撤退には、様々な要因が関与したと言われています。特に
影響があったのは、1970年以来の医療訴訟の増加、および2001年9月の同時多発
テロ事件により保険者が支払う再保険料が暴騰したことと言われています。ちな
みに米国のこのような状況は、医療訴訟の増加、金融危機という昨今のわが国と
類似しています。

2001年当時、SP社は加入医師4.2万人と、医賠責で全米2位の取扱高でしたか
ら、同社の医賠責保険撤退が医療界に与えた影響は甚大でした。まず、SP社の撤
退を契機に、医賠責保険の掛け金が高額化しました。この影響は、産科や救急医
療医に特に顕著で、年間の保険料が数十万ドルにのぼる医師まで出現しました。
このため、医賠責保険料が高いネバダ州を離れ、保険料が安いカリフォルニア州
に転出する医師が続出しました。カリフォルニア州は、1975年に精神的苦痛など
非経済的損失に対する賠償金(慰謝料)の上限を25万ドルに制限する立法措置を
施しているため、医賠責保険の掛け金が低額だったので、多くの医師が安心して
働けると判断したようです。また、全ての診療科を診ることが売りの家庭医のな
かにも、医賠責保険を安くするため産科診療だけを辞める医師が出てきました。
この結果、ミネソタ州では開業医から専門医まで、あらゆるレベルで産科医療を
提供する医師が激減することになりました。

このように、医賠責保険が破綻し、ハイリスク医療を行うことが出来なくなっ
た医師が続発したため、アメリカ国民は医療へアクセスできなくなったり、また
医療へアクセスするための費用が高額化しました。この問題は様々なメディアを
通じて全米に報道され、米国民の中に「医療訴訟の濫発が医療システムを破壊し
かねない」というコンセンサスが形成され始めました。それは、行き過ぎた医療
訴訟に対する反動として、全米に様々な動きをもたらしました。詳細については、
次回の配信でご紹介させていただくつもりですが、この時期の米国での議論、試
行錯誤をレビューすることは、わが国の医療のあり方を考える上で示唆に富みま
す。つまり、私は、現在のような形で医療と社会の軋轢が強まった場合、わが国
でも近い将来に医賠責保険が破綻し、その結果、高度医療の提供者がいなくなる
可能性が極めて高いと考えています。医療を崩壊から救うため、議論する必要が
ありそうです。

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