臨時 vol 4 「各国の非言語情報から見る呼吸器外しの理念」
■ 関連タグ
タブーから目を反らさずに議論が必要
厚生労働省改革推進室
村重直子
昨年10月7日、「呼吸器外しの意思尊重を 倫理委が異例の提言」というニュースが流れた(1)。内容は、亀田総合病院の倫理委員会が、全身の筋肉が動かなくなる難病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の男性患者が提出した「病状が進行して意思疎通ができなくなった時は人工呼吸器を外してほしい」という要望書について、意思を尊重するよう病院長に提言していた、倫理委員会が判断を示したのは異例、というものであり、NHKでは何と患者さんの氏名も報道されている(2)。氏名を公表してまで世の中に議論を呼びかけた、この患者さんの勇気ある行動と、同病院の亀田信介院長の「人工呼吸器を外せば逮捕されるおそれがあり容認できない。しかし、患者みずからが治療を選ぶ権利を奪うこともできない。社会全体で議論してほしい」というコメントに、医療現場の苦悩が凝縮されている。亀田院長は後のインタビューで、呼吸器を外すに当たって踏むべき手続き、プロセスを定める必要があると提案している(3)。このような日本の状況とは極めて対照的な米国の状況が、昨年12月11日の医学誌に掲載され(4)、日本における呼吸器外しの議論が、医療の高度化から取り残されていること、従ってそのギャップに苦しむ人々が増えているであろうこと、米国の議論は日本とは比べ物にならないほど先の段階へと進んでいることを、改めて思い知らされた。●米国医療の非言語情報まで洞察を米国で「当然」「常識」と思われていることや、その「常識」に基づく米国民のニーズは、あえて言語化されないため、情報として日本に入ってくることは滅多にない。一方、米国民のニーズがあるのに存在しない、あるいは失われつつあるものこそ、言語化され、声高に叫ばれるため、情報として日本に入ってくることが多い。その典型例が、”continuity of care(同じ担当医が同じ患者を継続して診療すること)” “primary care(プライマリ・ケア)” “nonprofitorganization(病院の運営主体として)”といったフレーズだ。従って、日本において入手可能な外国の医療に関する情報には、かなりのバイアスがかかっており、その背景にある「常識」という非言語情報まで洞察しなければ、解釈を誤るであろうことは想像に難くない。呼吸器外しについても、そのような背景まで理解する必要があるだろう。●米国で呼吸器外しは日常私がニューヨークで臨床医として勤務していた1999-2002年当時、”medicallyfutile” つまり、治療しても治る見込みはないと判断された患者の呼吸器を外すことは、既に”standard of care(標準的医療)”として日常的に行われていた。”medically futile”という判断は、医学的判断、つまり担当医による診断であり、その診断に従って呼吸器を外す行為は、担当医による医療行為の一環である。当然、担当医以外の第三者医師の判断を仰ぐ必要も、院内の倫理委員会に諮る(担当医以外の複数の第三者意見を聞く)必要もない。まして、刑事司法や行政が介入するなど考えられない。「このような尊厳のない延命を本人は望まないだろう」と考えない家族はなく、呼吸器を外すことに同意しない家族に遭遇したことはない。”medically futile”という診断に従って呼吸器を外すことが標準的医療と認識されているということは、仮に、治る見込みがないと診断されたにもかかわらず家族が呼吸器を外さないという選択をしようとした場合、合理性がないとみなされ、院内の倫理委員会に諮って第三者の意見を聞く必要性が出てくることを意味する。●日本で呼吸器外しは殺人罪一方、日本では、医学的判断や本人・家族との話し合いといったプロセスとは無関係に、呼吸器を外すという行為そのものに刑事司法が介入し、殺人罪に問われているケースが現に存在する。1998年に、川崎協同病院で患者の呼吸器を外した医師が、2002年12月4日、神奈川県警に逮捕され(5)、2007年2月28日、東京高等裁判所で殺人罪を適用した判決が出されている(6~8)。このような背景があるからこそ、必ずしも患者の意思が尊重されているとは言えない状況が生じ、前述の亀田信介院長のコメントや、呼吸器を外すに当たって踏むべき手続き、プロセスを定める必要があるとの提案が出てきている。●日本の家族意識が支える意思決定では、医療現場における意思決定の実態は、どのようなものなのだろうか。日米独の調査報告によると、ホスピスや緩和病棟において、「無駄な延命治療をしない」等の事前指示(Advance Directives)の書類にサインしている患者の割合は、米国79%、ドイツ18%に対し、日本ではわずか9%である(9)。また、西洋人にとっては信じられないことだろうが、自らはサインせず、最も重要な意思決定を家族に任せたと答えた患者が、日本では9%であった。当然ながら、米国とドイツでは、ゼロである。西洋人には当然の個と個の契約(患者本人と担当医)という概念や、契約上のサインの概念が、日本人には馴染まない。さらに驚くべきことに、最も重要な将来の意思決定について、日本では、安心・幸福といったポジティブな感情を抱く患者が多く(日38%、米18%、独12%)、悲しみ・孤独・恐怖・心配といったネガティブな感情を抱く患者が少ない(日45%、米85%、独82%)。このような実態から、日本では患者の意思決定における家族の役割が大きいため、難しい決定を迫られる重荷からある程度患者が解放されており、相互依存の家族意識が終末期の患者に安心感を与えていると考えられる。●アジア初の自然死法が生む矛盾一方、台湾は、アジアで初めて、カリフォルニアの自然死法に似たホスピス法を2000年に導入した。台湾の実態は、日本にとっても参考になるかもしれないが、どうやら医療現場の苦悩は、解消されるどころか拡大している印象さえ受ける。というのも、台湾のホスピス法では、無駄な延命治療をしないための書類にサインするのは、西洋式に、患者本人でなければならないとされているが、実際には、患者がサインしたのはわずか17.9%にとどまり、82.1%において家族のみがサインしているからである(10)。このように、結果として医療現場の大多数に違法行為を強いるとすれば、この法が、たとえ患者の意思決定を尊重する意図で作られたものだとしても、国民の「常識」やニーズに合っているとは言えないだろう。●米国の法が生むマイノリティの矛盾同様に、米国においてもアジア系やヒスパニック系など、異なる「常識」を持つマイノリティが存在するため、「常識」の衝突は起こり得る。患者に不必要な苦痛を与え尊厳のない死につながるという考えから、医師が延命治療を行うべきではないと考える場合でも、家族が延命治療を望むケースが稀に見られ、そのひとつが、2007年春に注目を集めた、テキサス州のケースである(11)。18ヶ月の男の子が5ヶ月に渡って集中治療室で治療を受けた後、担当医も病院の倫理委員会も、治る見込みはないため延命治療を続けるべきではないと判断した。これに対して、母親は民事手続きで期限延長を勝ち得たが、最終判断が下される前に男の子は亡くなった。テキサス州の法(the Texas Advance Directives Act)に従えば、倫理委員会の判断に患者側が同意しない場合でも、最終的には、担当医は倫理委員会の判断に従って、呼吸器外しなどの延命治療中止をすることができる。また、この延命治療中止は民事・刑事上「免責」される。つまり、この法の本質的な意義は、担当医側と患者側が延命治療中止に合意する多くのケースにあるのではなく、担当医側が患者側の意思に反する延命治療中止を行うケースにおいて、倫理委員会等の手続きを踏むことによって、医療者を民事・刑事責任から守ることにある。●日本にはない「医師の権利」という「常識」見落としてはならないことは、このような法が成立し得る米国の背景に、日本では想像もつかないことだが、「医学的に治る見込みのない患者に不必要な苦痛を与えることは、医師としてのモラルに反する」「医師は自らのモラルに反する医療行為を拒否する権利がある」という「常識」が存在することである(11)。「医師の権利」という概念が米国民に浸透しているからこそ、医師という専門家の判断に従う行為について、医療者を民事・刑事上「免責」するという概念が、国民の支持を得たのだろう。●非言語情報から見る呼吸器外しの理念の違い実は、日米の呼吸器外しの理念が、正反対の方向性にあることがお分かりいただけるだろうか。米国の法は、患者・家族の意思に反したとしても、医学的判断に従って呼吸器外しを実行するための法だが、日本で議論が必要なのは、患者・家族の意思を実現するため、多様な選択肢の一つとして呼吸器外しも可能とするための法、と言うことができるだろう。つまり、日米いずれの場合も、それぞれの「常識」に対する例外規定を必要としているのだ。米国では、個と個の契約(患者本人と担当医)に従って診療するという「常識」に対する例外規定、日本では、個々の患者・家族に選択の余地を与えるべきではなく、全国民に対して延命治療を最後まで継続すべきであるという「常識」に対する例外規定、と考えることができる。その根本にある日米の違いは、(1)本人(個)の意思を尊重すること、(2)医師という専門家の判断を尊重することが、「常識」として患者・家族・国民の一人ひとりにまで浸透しているか否かの違いである。米国に比べれば、日本では、(1)本人の意思と(2)医師という専門家の判断に対して、複雑に絡み合った複数の家族メンバーの複数の意思や、刑事司法、行政、マスコミといった社会的第三者介入の要素が大きい。●タブーから目を反らさずに議論が必要誤解のないように付記しておくが、単純に日本も米国のようになるべきだと言っているのではない。個と個の契約(患者本人と担当医)を前提とするため家族が入り込む余地さえほとんどなく、民事訴訟を前提とするため患者のためよりも証拠作りを優先せざるを得ない米国医療よりも、誠心誠意、患者のために尽くしてもらえる医療を受けられる日本社会を美しいと私は感じているし、このような日本に生まれ、住めることを幸せだと思っている。しかし、医療が高度化・複雑化し、国民のニーズも多様化していく時代の流れの中で、呼吸器外しの議論を避けて通るわけにはいかない。医療・社会の進化と、取り残されたタブーとの狭間で、苦しむ人々が増えていく現実から目を反らすことはできない。私たち一人ひとりが、自分や家族の問題として認識し、きちんとタブーと向き合い、全国画一的・硬直的なルールではなく、多様な個々のニーズに対応できる方策について議論していく必要がある。●米国では「積極的に死を早める」議論の段階へ 冒頭で述べた昨年12月11日の医学誌の内容は、米国で既に「常識」となっている呼吸器外しの段階を超えて、さらに積極的に死を早めることへ医師の関与を認めるか否かという議論である(4)。米国においても、長年にわたって住民が喧々諤々の議論を行っていることをお分かりいただくため、簡単に内容を紹介する。・2008年11月、ワシントン州の投票(58%対42%)によって、Physician-AssistedSuicideを認める法案が成立した。2009年3月4日から、医師が致死量の薬を「処方」することが合法となる。・1997年10月からPhysician-Assisted Suicideを認めているオレゴン州に続き2番目である。・他に、死を早めることへ医師の関与を認めている国は、ベルギー、オランダ、スイスである(国ごとに詳細は異なる)。・アンダーグランドでは、どこでも行われている。・ワシントン州医師会(Medical Association)は反対したが、医師たちは多様な意見を持っている。・1991年のワシントン州の投票では、医師が致死量の薬を「投与」する案は認められなかった。・言葉の意味についても様々な意見がある。”death with dignity”“physician-assisted suicide” “physician aid in dying”“physician-assisted death”などの表現がある。・オレゴン州のデータによると、1998年から2007年の間に、541の致死量の薬の処方せんが出された(ほとんど催眠鎮静薬のセコバルビタールかペントバルビタール)。そのうち、341人がその薬を内服して死亡、13人が2007年末時点で生存、その他の人々は原病によって死亡した。致死量の薬を内服して死亡した患者群の年齢中央値は69歳、ほとんど全員が白人で教育水準は比較的高く、女性よりもわずかに男性が多く、約86%がホスピス患者で、81.5%が進行癌であった。・オレゴン州のほとんどの医師は、致死量の薬の処方せんを書いたことがない。2007年には、45人の医師が85枚の処方せんを書いた。・ワシントン州の人口は650万人であり、オレゴン州の人口370万人よりも多いため、今後、より多くの人が、致死量の薬の処方によって死亡するだろう。・オレゴン州では合法化された後、緩和ケアがかなり改善した。医師のトレーニング、延命治療に関する患者の意思についてのコミュニケーション、疼痛管理、ホスピスへの紹介率上昇、在宅死亡率上昇などである。●DNR、代理人、リビングウィルについても議論をさらに、「呼吸器を外すこと」と同時に、「呼吸器を付けないこと」についても議論する必要があるが、この議論に関連するDNR(Do Not Resuscitate;心肺蘇生しない)、Health Care Proxy(代理人)、Living Will(リビングウィル)についても、米国の非言語情報は日本には入ってこないようなので、紹介したい。1.DNR治る見込みがないと医師が判断した場合に、気管挿管や昇圧薬を使わない(延命措置をしない)ことである。担当医が本人と話し合って決めることが多い。次の2つよりも、最も一般的。2.代理人個と個の契約、つまり本人の意思が尊重されることが基本であることに変わりはないが、本人が意識・判断能力を失った場合に、本人の代わりに医師と話し合って方針を決定する代理人を一人決める。代理人は血縁や姻戚関係にない場合も多く、本人の意思によって決める。入退院を繰り返すなど、長期療養している患者に多く、DNRの次に多い。DNRと併せて代理人を決めている場合もある。3.リビングウィル「こういう場合はこれをしないでほしい」といった内容が、2~3ページから10ページ近くにわたって自由に記載されている。内容は人それぞれであるが、「挿管しないでほしい」「鼻から栄養を入れないでほしい」「胃から栄養を入れないでほしい」「静脈から栄養を入れないでほしい」「点滴(輸液)しないでほしい」「抗生剤を使わないでほしい」などと詳細に記載されている。ナーシングホームからER(Emergency Room;救急室)に運ばれてくる患者に多く、自筆の手紙のようなものが多い。DNRと代理人については、延命措置をしないのは医学的に治る見込みがない場合に限られ、状況の変化に応じて、もし治る見込みがあると医師が判断すれば積極的治療を行うこともできるので安心だが、リビングウィルについては、たとえ治る見込みがある状況であっても、本人の意識がなければ、医師の判断でリビングウィルに反することはできず、医師が相談できる代理人もいないため、何の医療行為もできないまま死を迎える危険性がある。人間が未来を予測することは不可能であるため、「こういう場合はこれをしないでほしい」という仮定や場合分けそのものが、現実の出来事とは異なるからである。ニューヨークの医師たちは、「リビングウィルだけは絶対に書いてはいけない」と戒め合っていた。以上、私の経験も交えて各国の状況を紹介したが、異なる経験、異なる考え方をお持ちの方も多いだろう。一人でも多くの方に、意見を出していただきたいと願う。日本においても、議論百出となれば望外の喜びである。※上記は、厚生労働省の公式見解ではなく、個人の見解です。(2008年12月15日ソネットM3に掲載された『呼吸器外しと「Physician-Assisted Suicide」』http://www.m3.com/tools/IryoIshin/081215_2.html を加筆修正したものです。)引用文献(1)共同通信 「呼吸器外しの意思尊重を 倫理委が異例の提言」 2007年10月7日http://www.47news.jp/CN/200810/CN2008100601000906.html(2)NHK 2007年10月7日http://www.nhk.or.jp/news/k10014571921000.html (3)ソネットM3 「亀田総合病院院長・亀田信介氏に聞く「人工呼吸器外し」の社会的議論が必要」 2008年12月11日 http://www.m3.com/tools/IryoIshin/081211_1.html(4)Steinbrook R. Physician-Assisted Death – From Oregon to WashingtonState. N Engl J Med 2008;359:2513-15.(5)共同通信 「殺人容疑で主治医逮捕 川崎協同病院の筋弛緩剤事件」2002年12月4日 http://www.47news.jp/CN/200212/CN2002120401000403.html(6)MRIC 「川崎協同病院 東京高裁判決 その1」2007年8月6日http://mric.tanaka.md/2007/08/06/_vol_32_1.html(7)MRIC 「川崎協同病院 東京高裁判決 その2」2007年8月8日http://mric.tanaka.md/2007/08/07/vol_33_1.html(8)MRIC 「川崎協同病院 東京高裁判決 その3」2007年8月8日http://mric.tanaka.md/2007/08/08/vo_34.html(9)Voltz R, Akabayashi A, Reese C, et al. End-of-life decisions andadvance directives in palliative care: a cross-cultural survey ofpatients and health-care professionals. J Pain Symptom Manage.1998;16:153-62.(10)Huang CH, Hu WY, Chiu TY, et al. The practicalities of terminallyill patients signing their own DNR orders–a study in Taiwan. J MedEthics. 2008;34:336-40.(11)Truog RD. Tackling medical futility in Texas. N Engl J Med.2007;357:1-3.プロフィール村重 直子(むらしげ なおこ)1998年東京大学医学部卒業、横須賀米海軍病院を経て、1999-2002年米国・ベス・イスラエル・メディカルセンター、2002年国立がんセンター中央病院 造血幹細胞移植科、2005年医系技官として厚生労働省入省、2008年3月から現職。
▲ページトップへ