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Vol.313 「ボランティア精神」の虚構と発展

医療ガバナンス学会 (2011年11月11日 06:00)


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小さな避難所と集落をまわるボランティア
引地達也
2011年11月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


岩手県一関市に住むカズ(仮名)は中学卒業以来、漁船の乗組員として約20年を過ごしてきた。若い頃はマグロ船で1年の大半を遠洋で過ごし、国籍も人種も 違う乗組員とともに世界中の海を渡り、海上で拿捕されたことも、上陸したアフリカでは強盗にあったこともある。このキャリアの中でカズは一貫して雑務を任 せられる「下っ端」として生きてきて、カズが乗る船には必ずや威勢のよい乗組員からの「こらあ、カズ!」の怒号が飛び交ってしまう。

それでも漁船の上でのカズは素人の私から見ると、網のたたみ方や綱の巻き方、すべての所作はプロフェッショナル。しかし弁当を買いに行かせると数が足らな かったり、はしがなかったりと、何かが不完全で「こらあ」となる。そのたびにカズは神妙な顔でシュンとするが、数秒後には乗組員の笑い話に混ざり、前歯の ほとんどなくなった口を開けて大笑いするから憎めない。

そのカズは東日本大震災直後、宮城県気仙沼市の避難所からあがる物不足の声を聞き、なけなしのお金で物資を買い、運転免許証のない彼にとって唯一の足である自転車で避難所をまわり、配布していた。
「おしめがないってよ。みんな車もねえ、って言うから、ほれ買ってもっていって、自転車だからいくらも積めねえがら、まだほら、行って、買ってだもの」

今の漁業はお金にならない、とは経営視点で語られるが、彼ら末端の乗組員はなおさらで、体を張って海で過ごしても生活はぎりぎりだ。漁を引退した父と弟の 3人暮らしを支える一家の大黒柱のカズだが、自宅から自転車で約1時間かかる気仙沼で、自転車を疾駆し、内陸のスーパーで物資を調達し、危機にある人へ注 力し続けたという。

この話をカズから聞いて私は高貴なボランティア精神を見る気がした。自分の生活や時間やお金や大事なものを犠牲にして、困難にある人のために身を挺そうと いう姿勢は、本来の言語が意味するところの「ボランティア」=「義勇兵」であり、そこに本能的な自己犠牲の精神があっても、感傷的な感情の押し付けは見ら れない。さらに言えば、ドイツで若い時期の一定期間に社会奉仕活動をするいわゆる「チビー」や韓国の徴兵にも似て、ある種の体の芯から出た覚悟のようなも のも垣間見られる。

カズとはまったく別の例を挙げる。九州地方から来たボランティアに駆け付けたリョウ(仮名)の場合、彼は誰から見ても「ボランティア野郎」だった。震災直 後、自家用車に生活用品を詰め込み、宮城県石巻市に入った。彼はつなぎ服に粉塵マスクを付け、安全靴を履き、さながら兵士のような格好だが、それは勇敢と いうよりも、何か敵味方の区別がつかない危険な香りが漂っていた。ボランティア仲間から「変わった奴でやる気はあるんだけど、5000円しか手持ちのお金 がなくなったっていうから、ちょっと面倒見てよ」と引き受けたが、彼は私が仲間と管理・運営していたボランティア用の宿舎で半ばアルコール中毒となり、暴 力沙汰も起こし、強制的に退去させられた。その後も被災地のボランティア団体を転々としている噂を聞くたびに、トラブルの心配で胸が締め付けられる思いが する。

被災者という弱者を相手に「優位」に立った立場で物事を進める人がいる。ボランティアという言葉に酔いしれて、その言葉に属することで何かを成し遂げられ たと錯覚する人がいる。そして、人に何かを施すことで、新しい自分を発見しようとする人がいる。それぞれが真剣に人生の道程において自分の出来ることを考 えようとしているかもしれない。しかし、使い方を間違えばそれは凶器となる。被災者という非日常的な状態に置かれている方々を前にすれば、ましてやボラン ティアとは縁遠かった地方での「ボランティアの波」の中で麻痺した感覚で事にあたると始末におえなくなってしまう。

ボランティアとはどうあるべきか、この命題は今回の震災で強く揉まれはしたが、言葉の持つ大義的な雰囲気は変わらない。高貴なる精神も自分探しの旅も、 「ボランティア」の言葉の前にかき消されているのが実態である。かく言う私も「小さな避難所と集落をまわるボランティア」と題して、活動を分かりやすく表 明しているし、被災民家を訪れる際には、極力ボランティアという言葉を言わないように心掛けてはいるが、相手が「どんな立場で支援してくれるの」という疑 問の表情が崩れない時にはボランティアを口にしなければいけないのを肌身で感じている。「ボランティア」。やはりいまだに水戸黄門の印籠にも似た効果絶大 の地位は揺るぎそうもないのである。

そうかといって前述のカズは「ボランティア」という言葉には無頓着だった。一方の後者のリョウはボランティア組織にいることにこだわり続けている。これは 言葉が喚起する幻想に敏感に反応するか否かによるが、自発的なボランティア精神によるボランティア活動並びに行動が定着することは、「支え合う」社会の発 展となり、この場合、おのずとボランティアの言葉は不必要になる。その無償の活動に「支えられる」「支える」双方の人がかけがえのない感謝のやりとりに終 始することだろう。この実現に向けては、オーソリティーの手ほどきは必要なく、かけがえのない思いの連鎖によって成し得るはずである。ボランティアの姿が 少なくなってきた今、一人一人にまずは継続することを呼びかけたい。そうすることによってのみ、私たちの可能性は広がるのだと思う。

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