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Vol.314 最高裁判決を受けて~人権後進国・日本(その1/3)

医療ガバナンス学会 (2011年11月14日 06:00)


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保険受給権確認訴訟原告がん患者
清郷 伸人
2011年11月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


1. 判決の評価
2011年10月25日、私は最高裁判所にて私の上告を棄却するとの判決を受けた。私の提訴の内容は、保険外診療である活性化自己リンパ球移入療法 (LAK療法)を受けても保険診療であるインターフェロン療法の保険は給付されるはずだというもので、地位確認の行政訴訟といわれる。
1審は保険給付を定めた健康保険法に、保険診療と保険外診療の併用(いわゆる混合診療)において給付を一切停止する規定はなく、国の法解釈は誤りとして私 の請求を認めた。しかし2審は健康保険法の保険外併用療養費規定に該当するもの以外は保険給付を受けられないと解釈すべきで、混合診療は禁止と解するのが 妥当として憲法判断も含めて私の請求を退けた。そして最高裁は2審判決を維持し、私の敗訴は決まった。

私は判決後の記者会見で「最高裁を含む日本の上級裁判所に対し、深い絶望を覚える」と述べた。私の訴訟の本質は、既述のように混合診療の解禁そのものでは なく、私の治療に必要な混合診療を行った場合に健康保険受給権を奪われることの法的根拠の有無であり、仮に法的根拠が認められるなら、その法律の違憲性 (生存権、幸福追求権、平等権、財産権の侵害)を問うことである。最高裁における上告審で、私は保険受給権が公的医療を受けることと同義で社会保障の根幹 であり、これを奪われることは憲法に謳われた基本的人権を侵害するものだと強く主張したが、最高裁判事は5人全員がこれを認めなかった。
裁判所が私の保険受給権はあるはずだという訴えに対し、法的根拠があるから却下するという判断は認めたくはないが理解できる。混合診療禁止が財政面からも 医療安全面からも必要で合理的な政策とし、健康保険法の保険外併用療養費規定の反対解釈によってその法的根拠とするのは理解できる。しかし、この保険受給 権取り消しを定めた法律とその行政執行が憲法に違反していないという判断はまったく理解できない。私の絶望の淵源はここにある。

一つでも保険外診療を受けたら保険診療も含めてすべての医療が自費になるというこの医療制度を白紙の状態で普通の市民に聞いたら100%そんなバカなという。

これが法規範よりもっと普遍的な社会規範、いわば世間の常識というものである。常識からすると、あり得ないような国民の権利の侵害なのである。それは患者 にとっては命をつなぐかもしれない保険外診療を受けると家計破綻、あきらめると斃死という究極のペナルティなのであり、いわば「財産没収か死刑か」に等し い刑罰である。世間の常識はこのペナルティ、刑罰に対して、とてもまともではないと感じているのである。司法は混合診療に対するこのペナルティをあまりに も理不尽な人権侵害とは思わないのだろうか。政策にとって必要だから合憲と判断した最高裁は基本的人権を侵害している国家から国民を守る司法の最後の砦、 違憲立法審査権を自ら放棄したといわざるを得ない。それは国家の暴走を正すべき独立した司法が日本に存在していないことを示している。そしてこれほどに行 政に擦り寄った司法の姿は、日本が法治国家でなく官治国家であることを表している。

2審も上告審も判決の要点は、財政の制約や医療の平等性、安全性のためには混合診療の禁止という政策は合理的で、それに違反した場合は健康保険の受給権が 取り消されても、裁量権の逸脱というほどではないというものである。この判決の本質的な欠陥は、財政や平等性、安全性が患者の生存権や平等権、財産権と いった憲法に定められた基本的人権を奪わなければ確保できないと断定していること、すなわちそれらが基本的人権を奪うに値するほどの価値と宣言しているこ とである。

有名な朝日訴訟は、生活の維持という生存権を伴う基本的人権は貧弱な生活扶助政策の口実とされた財政より優位にあると判決した。また医療の平等性や安全性 は重要な政策課題だが、基本的人権を奪わなくても法改正や制度設計で確保できる。この国の司法ひいては国家の宿命的問題点は、混合診療の禁止というような 政策要請が憲法の基幹理念である基本的人権より優位にあるという権力側の価値観である。かれらの思考には悲しいほどに基本的人権は軽く、人権意識は低いの である。この宿痾が今回の判決で露呈したといえる。

私たちはそういう国で生まれ、生きる運命である。民主主義や基本的人権の思想を外から持ち込まれて半世紀あまり、それらの価値が血肉と化すにはまだまだ時間がかかるのであろう。嘆くのではなく、闘いつづけなければそれらが根付くことはない。

2. 判決についた意見
最高裁の判決に至るまでにある出来事があった。6月1日、最高裁から国に突然質問が出され(http://www.kongoshinryo.net /pdf/q-saikousai01.pdf)、1週間後、国は回答した(http://www.kongoshinryo.net/pdf/a- saikousai01.pdf)。最高裁はさらに詳細な回答を求め、10日2回目の質問を行った (http://www.kongoshinryo.net/pdf/q_saikousai2.pdf)。1週間後、国は答えた(http: //www.kongoshinryo.net/pdf/a_saikousai2.pdf)。判決文を読むと、判事が判決を書くために質問したようだ が、2回目の質問は、政策を達成するには差額徴収を禁ずるだけで十分なのに患者の保険給付を除外する詳細な合理的理由は何かという本訴訟の根源的なもので あった。この質問に私は良い結果を期待した。なぜなら国の回答の内容はそれまでと変わらず、新しい主張はなかったからである。しかし期待は裏切られた。判 事は全員が以前と変わらぬその回答に満足したのである。何のための質問だったのか。
原告にとって判事の全員が上告棄却という判決は絶望的な結果だが、判決には5人中4人の裁判官の意見がついた。これは異例のことらしい。原告の私にとっては不可解な言い訳としか思えない意見の内容を吟味してみる。

(1)混合診療において保険受給権を取り消す法規定(保険外併用療養費)の不明確性
大谷判事は、法は評価療養以外の先進医療をどのように扱うか、正面から規定を置いていない、診療を提供する側についての規範のいわば裏返しとして、診療を 受ける患者側の権利、義務が導かれることになり、患者にとって甚だ分かりにくい法構造となっていると指摘し(27頁)、法規定の反対解釈の問題性を突いて いる。すなわち保険医が提供できる医療の範囲という規範が、患者の保険受給権の適否に直結するという構造を持つこの法規定は、明確であるべき法規定として 不完全だということである。

田原判事は、保険受給権適否の問題は健康保険の給付という高度な政策判断が求められるため、開かれた場で多くの利害関係者によって掘り下げた議論が行われ て法に明確な明文規定が設けられるべきであったにもかかわらず、厚労省も国会もこれまでの法改正の過程で正面から議論してこなかった、そのため現行法は保 険受給権適否について1審と2審のように異なった解釈の余地のあるものとなっている、この法規制のように対象者が広範囲に及ぶ場合は異なった解釈の余地の ない明確な規定が定められるべきである、またどのような場合が保険給付の受けられない混合診療かという基準も明確な表示がないため萎縮医療につながる可能 性があると指摘している(20~21頁)。核心を突いた指摘である。しかし厚労省は審理の場で、最後までその基準、混合診療の実例をあげた定義の提示要請 に答えなかった。当然である。かれらにとって法律は不明確であるほど良い。実際、ほとんどが行政立法の日本では法律はそのようになっている。そして曖昧な 霞が関用語に満ちた法律に対する第一位の解釈権を持つことが行政の強さの源泉であり、わかりにくい法律は官僚の専断である趣旨解釈で運用するに限るのであ る。立法府の議員は選挙対策ばかりで不作為、司法の裁判官は行政追認の判例集、それが国民不在の官僚主導国家を作り上げた。

(2)評価療養の迅速で柔軟な運用を望むという行政への要請
田原、大谷判事は、医療技術、新薬の開発は目覚しく、海外で承認されたそれらの早期使用は既存の治療から見放された患者の切望するところで、迅速に評価療 養の対象となるよう柔軟な制度運営が期待されると述べている(23頁、30頁)。また岡部判事は、しかるべき医療技術の有効性の検証が適正、迅速に行わ れ、評価療養として取り入れられることが肝要としている(26頁)。これらの意見はもっともに思えるが、患者から見るとこの政策の実態を知らない者の気休 めに過ぎない。次々に開発される医療技術や新薬を一握りの集団が事前に検証している日本では、使用できるまで日進月歩の欧米に遅れること数年や十数年とい うのはザラで多くの患者は待ちくたびれて亡くなってしまう。

その背景について寺田判事は鋭い指摘をしている。「公的医療平等論は、もともと昭和59年改正前から国の制度論を支えていた哲学とでもいうべき基本的な考 え方とみられ、この考え方の下では、自由診療を保険制度と関連付けて公認することを極力避けようとする傾向がみてとれるだけに、この考え方がなお制度の根 底に据えられているとするならば、評価医療の認定対象はきわめて限定的となることも十分考えられる」(35頁)。寺田判事だけが例外的な混合診療をできる だけ増やしたくない厚労省の編み出した保険外併用療養費制度のまやかしを見破った。この哲学は厚労省と医師会一体の護送船団のマニフェストである。国会も 国民の命を人質にした大票田の医師会が怖くて医療制度改革の立法など言い出せない。こうしてアンシャン・レジームにしがみついている間に、世界から取り残 された日本の医療は崩壊していくのだろう。

黒岩神奈川県知事も次のように述べている。「厚労省の予防接種部会のメンバーとして過ごした1年半は私にとって大きな収穫だった。日本のワクチン行政のお 粗末さ、政治の貧困、スピード感のない意思決定システム、患者不在の政策決定過程など、…医療界の現実を生々しく感じることができたからであった。 2009年秋、予防接種法の抜本改革のためにと開かれた厚生労働省の検討会であったが、2年の歳月を経た今も未だに検討ばかり続けている。私のスピード感 からすれば、想像を絶する遅さであった。要するに、抜本的に変えるつもりは端からなかったのではないかと思わざるをえない。…考えてみれば、全員が役所に 指名されたメンバーなのだから私が期待することそのものが間違っていたかもしれない。…私は民主党政権の政治主導に期待していたが、現場ではツユのかけら も感じることはできなかった」。(2011年現場からの医療改革シンポジウム)この指摘は会議の名称が先進医療でも未承認薬・適応外薬でも医療制度でも大 同小異であろう。

このような行政の実態、政策の停滞を見れば、3人の判事の意見がいかに能天気なものかがわかる。見過ごせないのはこの楽天的な意見が判決に重要な意味を 持っていることである。田原判事は平成16年の厚労大臣と特命大臣の「いわゆる『混合診療』問題に係る基本的合意」に則って先進医療の評価療養への採用が 十分に活かされていると述べ(23頁)、岡部判事も評価療養によって混合診療保険給付除外の原則はすでに緩和されているとし(26頁)、大谷判事も評価療 養、保険外療養制度が医療ニーズの多様化、医療の高度化の問題への穏当な解決へのレールが敷かれてきていると述べている(30頁)。そしていずれも患者に 重大な影響を及ぼし、過剰な規制と映ることはわかるとしながらも、混合診療保険給付除外原則が平成18年改正法以後も適用されることによる弊害は現時点で は窺えないと断言している(23頁)。がん患者の治療選択肢を狭め、多くの理不尽ながん死を招いている混合診療保険除外原則は違憲だという私の訴えに対す る答えは、このように政策により保険除外の問題は解決されつつあるという現実論であり、今も混合診療行政処分の武器となっている健康保険受給権除外原則は 妥当と判断され、温存された。

繰り返すが、保険外併用療養費制度で混合診療は実質解禁になっているというこの判決では、広範で日進月歩の医療技術や新薬をカバーしきれない現行のポジティブリスト方式が固定化され、患者にとっては死活問題となるのである。

(3)保険外併用療養費制度の合理性の問題
大谷判事は、かつて差額徴収を認める自由診療方式において患者の不当な費用負担が社会問題化したため一部の自由診療と保険診療の併用を認める特定療養費制 度が創設された経緯をふまえ、保険受給権除外を罰則として一切の混合診療を禁ずることは立法政策として合理的だったとして合憲の根拠の一部としている (28~29頁)。日本では大きな社会問題が生じると必ず過大な反作用が起動する。熱しやすく付和雷同する国民性であろうか。差額徴収問題は特定療養費制 度すなわち混合診療原則禁止という過剰な規制を起動した。児童の予防接種による死亡問題から厚労省はワクチン離反という過剰な不作為政策へと走り、現在の ワクチン後進国を招来した。世論が沸騰している時は合理的でも冷静になったら過剰だったという制度、政策は数多くある。見直すべきだが、この国のリーダー たちは時代が変わり、世界が変化しても頑迷固陋であり続けるようだ。今回の判決が示すように。

一方、2審判決維持の結論は妥当としながらも多数意見に与することはできないとする判事もいた。保険外併用療養費制度の合理性に疑問を呈した寺田判事であ る。判事はこの制度の仕組み自体の合理性も議論のあるところだが、仕組みの中で「併用すると本来の給付をも否定する対象」の決め方、権利を阻害する要件の 決め方が問題だという。評価療養は厚労大臣に相当の裁量があっても不合理ではないが、併用に保険給付を認めない自由診療は権利を否定する範疇に入るので、 より厳格な指針で範囲を決めるべきとする。厚労大臣の裁量をできる限り排除し、併用する保険診療を保険給付除外とする自由診療の基準を明確に定めた仕組み が求められる、現行のポジティブリスト方式は基準がわかりにくく厚労大臣の大幅な裁量に委ねられていることが問題だとしている(32~34頁)。

また寺田判事は本訴訟の本質に係わる指摘を行っている。私がインターフェロン療法だけ受けていれば保険は給付されるのにLAK療法を併用したばかりに保険 給付されないのは不平等で不当ではないかと問うていることに対し、これは混合診療保険給付除外原則がどのような目的を達成するための手段としてどのように 合理的であるかという問題提起であり、まさにこの仕組みの「手段と目的の合理的な関連性」について相応の検討が求められていると述べている(36頁)。法 律用語は難解なので例を挙げる。公立校の中学生が学力の向上のために私塾に通ったら、生徒の平等性確保や塾の悪影響防止、親の過大な負担防止という目的の ためペナルティとして公立校から追い出されることは合理的か、あるいは定年後の生活費のために個人年金を契約したら、年金者の平等性確保や年金財政悪化防 止の目的から公的年金を剥ぎ取られることは合理的か、また本訴訟のように混合診療を行ったら財政健全化や医療の平等性、安全性確保という目的のために財産 没収か死刑を課されること(本質的にはそうである)は合理的かという疑問である。政策目的が正しいとしても、それらの目的と手段の関連は合理的といえるか という問題である。

寺田判事はさらに本訴訟がそのような本質的な問題についての議論が深まらず、保険外併用療養費制度を定める法の解釈論議に終始したといえると述べ、争点に 疑問を呈している(35~36頁)。たしかに1審から論点、争点は次第に法の文言解釈、制度解釈に分け入った感はぬぐえない。そのことで結論が変わること はないであろうが、少なくとも次のことは今後の参考になると思う。もともと異なった解釈ができるように作られた日本の法律では、解釈論という土俵に上がれ ば、裁判所は国の解釈を採るといってよい。市民は法律解釈などに左右されない強い動機と問題の本質的な論拠こそが最大の武器である。

(その2/3に続く)

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