医療ガバナンス学会 (2012年1月4日 06:00)
これまで、本疾患の概念に関しては、教科書的に知り得ていたが、本格的に罹患している患者を見るのは初めてであった。患者は、「社会から孤立してしまうこ とが何より怖い」ということをおっしゃっていた。病気のために外出もままならないどころか、一度でも階段を上り下りしてしまうと、その日は一日動けなくな るとのことであった。訪ねてくる人がいなければ、一日中誰とも話をしないこともあり、一週間くらい風呂に入れないこともある。全身の痛みと疲れ、不眠や不 安、思考力の低下や羞明などで、普通の状態がどういうものなのか、次第に分からなくなると訴えた。
病因云々の前に、「これは大変な症状だろうな」と思った。この疾患の何がシビアかというと、「努力や気合いが、却って病気を悪化させる」ということであ る。がんばって動こうとする意志が、逆に病気の進行を助長させる。闘おうとする姿勢が逆効果に働くという病気は、あまりないのではないか。安静にしている 以外に本人の体調をコントロールする術がないことが、患者をさらに苦しめている。
難病や慢性疾患を抱える患者たちが身体障害者手帳を取得するためには、当然のことだが、医学的判断が必要である。しかし、疾患概念の確立されていない難病に対して、医師の診断は慎重となる。自己の判断だけでは、彼らの病気のすべてを背負いきれないと思うからである。
結果的に手帳が交付されなければ、どんなに生活のうえで障害があっても、公的なサービスや支援は受けられない。法律や行政で障害を定義することは、それに対応する施策や対策、サービスの提供範囲を定めるということを意味する。
命がかかっていれば、患者の要求には際限がない。当たり前である。当たり前だが、医療に限界がある以上、日本の資産が有限である以上、世の中の考えに優先 順位がある以上、医師の仕事は、「そうした要求をすべて本質的に解決することはできないということを、あらゆる知恵とレトリックとを絞って理解させること である」と、かつての私は、不遜にもそう思っていた。そして、「難病患者をどうにかしなければならない」と思ったきっかけも、当時、病棟医長という職務を 任されていたことによる、病院の機能維持のためであった。
大学病院には患者が溢れている。私にとっての難病支援の実態は、「患者自身のため」というよりは、「うまく患者を回転させるため」であった。”支援”と言えば耳当たりはいいが、要は、早く退院していただくための療養環境の整備だったのである。
私は、自分で言うのも気が引けるが、医師になってよく働いてきたと思う。24時間365日医師でありたいと願い、およそ20時間360日働いていた(時期 もあった)。しかし、今から考えると、それは単に”診療をこなす”というスタイルで、与えられた業務を遮二(しゃに)無二(むに)消化していく姿勢であっ たような気がする。
私が本当に自分の診療に”待った”をかけたのは、”慢性炎症性脱髄性多発神経炎(CIDP)”という病気の患者会(全国CIDPサポートグループ)とのコ ミットがきっかけだった。大学院から続けている研究の対象疾患が、たまたま”ギラン・バレー症候群”という免疫性の末梢神経疾患であったことから、その類 縁疾患であるCIDPの講演を、ある大学病院教授から依頼された。
私は、難治性CIDPを初めて受け持ったときの苦労や、その患者で経験した私のなりの治療のノウハウを、医師向けの講話として語った。それは、副腎皮質ス テロイド薬に反応しない病態に対する免疫抑制薬を用いた、習学的な治療法であった。若いということもあったかもしれないが、私の講演は、ある意味自慢で あった。「こんなに複雑で難解な疾患に対して、私は世界中の文献を調べ上げ、患者との絆を構築し、危険を省みずに治療してきた」という美談に溢れるサクセ スストーリーであった。
もちろん、今でも患者は元気に通院しているし、”運命を分けた一か八かの治療”という、モラルを逸脱するような乱暴な治療というわけではなかった。だから私は、「難しい病気だとしても、がんばって闘病すれば必ず救われる」かのように、話を蝶々しく仕立て上げてしまった。
失礼な言い方になってしまうが、あえて正直に明かすならば、「迂闊にもその会場には、CIDPの患者会の方々がいた」。講演のあと、早速、その方たちは私 のもとを訪れた。当たり前であろう。私の話に彼らが興味を持たないはずがない。講演内容に、もちろん偽りはなかったが、私は「饒舌に喋り過ぎた」と思っ た。私は、私の正当性の担保と、面子の維持と、期待への応答とで、このときから彼らと交わることになった。
この病気には、効果を有する薬剤がある。免疫グロブリンという血液製剤なのだが、再燃を繰り返す患者は、そのたびに投与を受けなければならない。きわめて 医療費のかかる疾患であり、患者にとっての負担は莫大なものがある。彼らは生活実態を把握するために、患者会活動として独自のアンケート調査を行ってい た。私は、「そのデータ集計を、患者会だけで回し読みして慰め合っているだけでは意味がない」と言い、論文としてまとめて医学雑誌に投稿することを提案し た。データを再解析し、整理し、物語を組み立て、メンバーたちと協同で一気に書き上げた。
この時期は、私においても研究に対するモチベーションの絶頂期であった。有益なデータが得られれば、論文執筆に酔狂していた。私は、”CIDP”という稀 な疾患を、全国に広く認知させることに躍起となった。免疫グロブリンを販売している製薬メーカーとタイアップして、啓蒙用のパンフレットやリーフレットを 作成し、本疾患に関する講演を重ねた。
われわれはさらに勢いに乗って、そうした論文や偶然にもその年の「24時間テレビ」(日本テレビ)で放映された本疾患を扱ったドラマ(みゅうの足(あん よ)パパにあげる:私が医療監修を行った)のVTRなどを携えて、厚生労働省に出向いた。政権交代前夜であることや信頼のおける国会議員が動いてくれたこ となど、いくつかの幸運が重なったこともあり、われわれの悲願は達成された。本疾患を難病指定疾患に組み入れることで、公費負担を実現させたのである。
私は、患者会の方々から、幾度となくお礼を述べられた。しかし、感謝されればされるほど、私は深く自問自答するようになった。目的は叶ったが、私のしたい ことは何だったのか、私は難病をどうしたかったのかと。純粋に、「患者の経済的負担の軽減につながるようなことをしたのだから、それでいいではないか」と 思われる人がいたとしたら、もちろん、そういう答えもあるであろう。
私の支援の目的は、CIDPのサポートを通じて本疾患のスペシャリストとしての地位を、単に得たかっただけなのではないか。”使命感”や”正義感”という よりは、いい格好をしたかっただけで、目立ちたかっただけなのではないか。もちろん、私のそんな心情など関係なく、サポートグループの方たちは、それ以降 も定期的に連絡をくれるし、何かあれば相談もしてくるし、会報誌も送ってきてくれる。ここへきて、再度、講演会にもお招きいただいている。
そうした自己矛盾への葛藤があったものだから、私はCIDPの支援を契機に、闘ったり、訴えたり、申し出たりすることに抵抗を覚えるようになった。そうい う場所には出て行きたくないし、なるべくなら関わりたくないと思うようになった。診療は医師の仕事だが、それ以外のボランティア的な支援行為は偽善だし、 欺瞞だし、取り澄ましだし、どうにも自分が高みから手を差し伸べて、「してあげる」という感覚に居心地の悪さを感じるようになった。
『多くの医療者は、既存の制度の枠組みに、ただ患者を当てはめようとする。たとえそれが、患者のQOLを結果的に低下させると分かっていても、現状の制度を是認するしかないという態度を取る。福祉の不備の問いに対しては、「それは行政の仕事」、「それは範疇外」と言う。』
少し前に難病患者から指摘された言葉である。
医師というものは、団結できず統制の取りにくい集団である。だから団結し、叫んでいる人を見るとたじろいでしまう。医師は、ジレンマを感じつつも、制度的 な欠陥を自ら掘り起こすようなこともしない。たとえば、多発性硬化症で車椅子を余儀なくされている40歳代の女性に、「あなたまだ若いから介護保険も使え ず、福祉的なサポートを受けられないでいるのだよ。ほら、応援するから市や役所と闘ってきなさい」とは、けっして言わない。はっきり言って、面倒だし、鬱 陶しいし、煩わしいからである。患者は、それでも最後に言う。「でも、医者にしか頼れないのだ」と。
難病患者とどう向き合っていけばいいのだろうか?障害や病気を抱えて生きることが、人間にとってどれほど思慮深く、意味深いことなのか。どれほど健康で、 どれほど活発で、どれほど美しい人でも、やがて何かをしてもらう人になる。施しを受ける人になる。与える人ではなく、与えてもらう人になる。
そのようなことは皆、分かっている。だから、人間は生きているのではなく、生かされている。忘れてしまいがちだが、人間は自然の中で、運命の中で、今、この場で奇跡的に生かされているのである。
慢性疲労症候群の患者は、生きるために生きているようだった。私は、慢性疲労症候群がウイルス感染を引き金とする回復不能な器質的疾患であるのか、または 身体表現性障害に近い、どちらかといえば精神疾患に近い病態なのか、あまりに見識に乏しく、その差異を論じることはできない。だが、彼らは公の場で何を言 うのか、何を問うのか、何を訴え、何を求めるのか。私は、そういうことに関心があった。
難病患者は何を見ているのだろうか? 将来の不安をどのようにイメージしているのであろうか? それらをクリアするためには、何を持って生きなければならないのだろうか? そういう人間の生き方に私は興味があった。
本疾患は悲しいことだが、”慢性疲労”というスペクタキュラーな病名ゆえに、疾患名だけが一人歩きし、気が付けば時代から取り残されてしまったような気が する。この病気を教科書で学んでから随分年月が経ったような気がするが、その間に学問が進んでいるのか、いないのか、それさえも伝わってこなかった。「関 心がないからだ」と言われれば返す言葉はないが、正直、それがこの疾患における一般医の認識である。
慢性疲労症候群には、それぞれの患者たちのそれぞれの時間が流れてきた。長い長い年月が経過してきた。しかし、私はその時間の部外者であった。どれほどき れい事を並べようと、私たちには「医療者と患者とは対等ではない」という意識がある。所詮、医師は患者の悲惨に至ることはできないし、寄り添うこともでき ない。異論もあるかもしれないが、私はできないと思っている。医師という仕事は、命を張ってやっている人を相手にする仕事ではあるが、命を張ってやるよう な仕事ではない。どう解釈しても、患者とは立場が違う。
診断の根拠もない、治療方法もない、疾患の概念すらわからない。そういう患者たちに、医師は何をしたらいいのだろうか? 何ができるのだろうか?
正解はない。ただ私は、「人は人の思い通りには、なかなかいかない」ということを自覚しているし、「世の中や、ましてや病気や自然などというものを、人の 手で何とかできる」とも思っていない。弱者の言うことに耳を傾ける人は少ないし、いかなる権力を持っていても、病に倒れれば基本的に人間は無力に戻る。そ の無力に皆が気付き、「支え合うことでしか世の中は成り立たない」と認識できれば、医療はせめて少し変わるかもしれない。
私は、意見交換後の記者会見の席で、「慢性疲労症候群は疾患名だけが有名で、実態を知らない医師が多く、なるべくなら関わり合いたくないと思っている」と いうようなことを、正直に、勢いで、つい口が滑って、しかも記者席から発言してしまった。記者の患者に対する「なぜ、この病気が器質的な疾患として認知さ れないのか」という質問への、私のコメントである。
それが、難病と向き合うための私なりの回答だったのかもしれない。まずは、事実を伝える。病気の現実を説き、良いも悪いも、在るも無いも、不定も未定も、 他の医療関係者や多くの学者や世間に広く知ってもらうことである。そして、できるだけ、それらをこれからに活かすことである。
慢性疲労症候群を、”学術”でなく”思想”で語った。だから、医学的真実とは、圧倒的にかけ離れた内容だったかもしれない。”慢性疲労症候群をともに考え る会”の方や支援者は、「2009年のScience誌では、67%の患者にXMRV(異種指向性マウス白血病関連ウィルス)が発見され、2010の PNAS誌においても、87%にマウス白血病関連ウイルスが発見され、病名も”筋痛性脳脊髄炎”と改められる議論が活発化されているのだから、器質的疾患 であることに疑いの余地はない」と言いたいであろう。
私はそれらをすべて認めたうえで、でも、だからこそ研究や調査や検討をさらに続け、誤解の是正に丁寧に取り組み、ひとつひとつ新しい認識を積み上げていく必要があると思っている。多くの課題を抱えてはいるものの、CIDPの患者支援以来、氷結していた私の難病に対する想いが、今、改めて融解したような気が した。