医療ガバナンス学会 (2011年12月28日 13:00)
福島県南相馬市原町区在住
わかば塾・番場塾・番場ゼミナール塾長 番場さち子(ばんばさちこ)
2011年12月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
3.11の夜、私は自宅近くの南相馬市立総合病院に逃げ込んでいた。午後2:46、私は教室のコピー機の前で、その日に行う単語テストの印刷を始める矢先だった。スリッパのまま、外へ飛び出し、隣に住む大家さんご夫妻と地震がおさまるのを待った。
長い地震だったが、教室周辺の民家は、さほどの被害も見当たらないので、これがまた来ると噂されていた宮城県沖地震かと、その程度の認識だった。自宅の様 子も見てきたら?という大家さんの言葉で我に返り、自宅周辺の様子を見に車を走らせた。後々知ったことだが、あのまま真っすぐ車を走らせていたら、私も津 波に巻き込まれていた。たまたま偶然、右に曲がったことで、私は生かされた。
大学生の元生徒達が、大震災直後「先生、大丈夫か?」とすぐさま駆けつけてくれ、壊滅的だった我が家の片付けを手伝ってくれていたが、夜は一人ぼっちに なった。子ども達の気持ちが有難かった分、孤独感が募る。 余震が頻繁に襲い、家に居るのが怖い。運悪く、母親は松島に旅行中で、父親は実家の伯父家族が行方不明となり、わずかな望みを託して、避難所を捜し回って 帰って来ない。消防団の車が「津波警報が出ました!避難してくださーーい!」と巡回して叫んでいる。津波で家もなくなり、防風林もなくなり、遮るものがな くなって、波の音が我が家まで聞こえる。
市立病院の薬局前のソファーを陣取って、私はテレビの映像に見入っていた。診察室前の長椅子は撤去され、ブルーシートやマットが一面に敷かれていた。津波 に遭遇し、泥の中から救助された患者が、次々に運び込まれてくる。目を覆いたくなるようなドロドロの患者が運び込まれる毎に、(これは大変なことになっ た…)と、私の体は恐怖で震えた。テレビに映る映像が、目の前に起こっている。本物を見ているのか、夢を見ているのか…次々に起こる想像を絶するシーンの 続出に、私の頭の中は冷静ではいられなくなった。
行方不明者を捜して、病院を訪ねてくる親戚縁者もあとをたたない。市立病院内はごった返していた。会う人、会う人、お互いに「生きてたーー!?」と肩を抱き合い涙をこぼしていた。
市立病院で働く看護師の中に、生徒の母親がいた。私の姿を見つけて駆け寄り「子供たちが心配です。」と涙を浮かべた。あの時間で良かった…きっとアヤカと ユウトは学校で保護されているだろう…と私は子どもたちの無事を祈った。「母親なのに、そばにいてやれない。不安でたまらないと思う…母親失格です。」と こぼされた。いやいや、あなたがこうして気丈に働く姿を、子どもたちは誇りに思うでしょう。私が見届けたことを話してきかせましょう…私はそうつぶやい て、彼女の手際の良い働きぶりに感動さえ覚えて見届けていた。
お手洗いに行こうと席を立った時、廊下の端にうずくまって泣いている女性の姿が目に入った。あまりにも小さく、消え入りそうな姿に、最初は誰なのかわから なかった。その女性は、私を見つけると、私にしがみついて泣きじゃくった。ユウヤとカイトとリュウトの母親だった。嗚咽を漏らしながら切れ切れに話す内容 は、おばあちゃんを含めた4人が津波にあい、長男のユウヤの遺体が発見された。原町高校の体育館が遺体安置所となり、そこに運ばれたということだった。
すべてを失い、「子供たちを追いかけて、私も死にたい…」と慟哭する お母さんを抱きしめながら、私は言葉を失っていた。返す言葉が見つからない。安易な言葉では慰めてあげることなどできない。一度に3人の子どもと母親を 失ったと言うのだ。しかし私は涙も出なかった。あまりに唐突過ぎて、実感にならない。ユウヤが死んだ?
3人はその日、3時半に教室に来る約束になっていたのである。地震のあと、ユウヤは弟二人を学校に迎えに行き、一度自宅に戻ってしまったために津波にあっ た。そのまま教室に来ていれば、3人とも助かったのに…と考えると、今も悔やまれる。待ち合わせを3時にしておけば…と今でも後悔する。
3.11は、福島県の中学校の卒業式であった。たくさん通っていた中学三年生たちに「卒業式、絶対見に来てね!」と望まれて、午前中は卒業式に参加してい た。私のデジカメは、卒業式の子どもたちの誇らしげな笑顔から、いきなり悲惨な震災で破壊された現場写真へと変わる。卒業式に、おめでとうと握手して別れ た子が、2時間後には津波で帰らぬ人となった。
翌日の3.12から、私の携帯には様々な生徒や保護者からメールや電話が入った。「先生、さようならーー!!!また会いましょう。お元気でね。」「先生も 早く逃げてください!!」「東京に行くことになりました。またいつか会いたいです。」 涙でさよならを言う生徒や保護者たち。私には一体何が起こっているのかさっぱり理解できていなかった。3.13の夜中に「うちはもう帰って来ないつもりで 南相馬を出るよ。先生は居ていいのか?」と生徒から電話をもらっても、津波を避けて小学校の避難所にいた私には、なにがそんなに大変なの?と、状況がわ かっていなかった。
近所のご主人が深夜遅くに慌てて訪ねて来た。慌てふためいている。「原発に勤務している友人から聞いた。危険らしい。逃げよう。」「大熊町の住民は、茨城 交通のバスが迎えに来て、着の身着のまま避難させられたんだって。」「メルトダウンが起こってるかも…」めるとだうんってなに???
一度に聞かされても、混乱した私の頭ではすぐに理解できない。
地元に住む我々は、原発は安全だと言われてきたのである。心配ないと聞かされてきたのである。それが突然、危険だ!逃げろ!と言われても、なにを優先させ ればいいのかわからない。しかもあの原発は、関東へ送るための電気を作っているのである。我々地元民には関係ない。なぜ逃げねばならぬのだ?
不安におののきながらも、まさか国が、政府が、住民を見捨てることはあるまい。避難命令がでるまで様子を静観しようと覚悟した。
ところが30キロで線引きされたことで、南相馬には誰も近づこうとしなくなった。壊れたパソコンの修理を頼んでも、社員を30キロ圏内に入れるわけにはい きません、と断られた。 物資も入って来ない。宅配便も郵便も配達されなくなった。そして町は人の気配もなくなってしまった。
我々海沿いの住民は、津波が恐かったのである。 泥沼化した海や田畑で、腰まで泥にはまると身動きがとれない。泥の中で立ったまま救助を待って、生き延びた人も、その状態で力尽きていた人もいた・・・と消防団の若者から聞かされた。
どんなにもがいて救出を待ったのか…どれだけ苦痛の中で救助を待ち望んだのか…放置された数日間の例えようのない恐怖…想像するだけで、胸が張り裂けそう な恐れにも似た思いが募る。放射能の騒ぎがなかったら、30キロの線引きが違う形で公表され、SPEEDIが速やかに発表されていたら、救助が間に合い助 かった命もあったかもしれない。そう思うと心が痛い。この痛みを、この怒りを、どこにぶつけたら良いのかわからぬまま、9ヶ月が過ぎた。