医療ガバナンス学会 (2012年2月16日 06:00)
私は、震災時ときわ会グループのいわき泌尿器科病院に所属しており、震災時の透析移送では東京都に避難したスタッフとして動きました。ときわ会グループ は、いわき市を中心に、透析と泌尿器疾患を中心に診療するグループで、いわき泌尿器科、常磐病院、泉中央クリニック、富岡クリニック(富岡町、福島第一原 発から約10km)、北茨城中央クリニック(北茨城市)からなり、震災前は透析患者は全体で約900名いました。
○2011年3月11日(金)14時46分 地震発生
気象庁の発表によると、最大震度6弱を観測したいわき市では、震度4以上が約190秒続いた中で、震度5強に相当する揺れの部分が40秒、震度5弱以上が 70秒あったそうです。これは各観測地点のなかでは最長であったそうです。震災発生時、いわき泌尿器科では、人的被害はなかったものの、透析機器の故障と 断水のため透析患者約50名の緊急回収を行っています。幸いなことに停電はおこりませんでした。
○2011年3月12日(土) 福島第一原発1号機水素爆発
透析機器の故障は直ちに修理させ、断水に関しては、粘り強く市水道局と交渉し、何とか給水車で補給を行っていただき、透析再開することができました。水不 足のため短時間で透析を行い、多くの患者が透析できるように工夫いたしました。この市水道局との交渉の詳細は、中日新聞の記事「命の水、確保に壁 透析が できない」 http://www.chunichi.co.jp/article/earthquake/sonae/20120206/CK2012020602000097.html を参照してみてください。
午後3時36分、福島第一原発1号機が水素爆発を起こしました。あの黒煙が噴き上げる映像をみて、当院の職員も含めいわき市民の多くはパニック状態となり ました。避難や避難準備のため市民がガソリンスタンドや商店に行列を作り、その日のうちに商品がなくなり、休業するお店もでてきました。
○20011年3月13日(日) 食料、ガソリン、スタッフ不足
日曜日でしたがいつ透析できなくなる時が来るかわからなかったため、月曜の患者を繰り上げて透析を行いました。前日同様、水の確保に苦労し、市がだめなら と自衛隊に連絡を入れたり、自前で給水車を確保できないか工事用レンタル会社に交渉したりもしました。市内は、食料やガソリンの確保が困難になり、患者送 迎や職員の通勤にも支障が出始めました。またこのころより職員のうち小さな子供がいるような世帯は自主避難をしてしまったため、透析を行う最低限のスタッ フしか確保できなくなりました。
○2011年3月14日(月) 福島第一原発3号機水素爆発
いわき泌尿器科の周辺は、市立病院や労災病院など大病院があるエリアであるためか、いわき市内の他の地域よりも最も早く水道復旧しました。いわき泌尿器科 は、いわき市内の唯一水道が復旧した透析施設であったため、他の透析クリニックからの透析患者を受け入れました。ほぼガソリンの確保が不可能になり、診療 に理解のあるガソリンスタンドから必要最低限のガソリンを分けていただき、患者送迎を行いました。職員も通勤不能となり、送迎車での通勤となりました。
午前11時、福島第一原発3号機が水素爆発。これをきっかけに多くの市民はパニックとなり、市外へと列を作って避難し始めました。主要幹線道路は大渋滞と り、この異様な光景を目にした市民はさらにパニックとなり我さきにといわき市外へと避難しました。この爆発後は、市内の商店や飲食店は全く営業しておら ず、走っている車は自衛隊車両のみで、いわゆるゴーストタウンと化しました。
いわき泌尿器科では、震災による建物の被害は一部の損壊のみで、断水もすぐ復旧し、また停電もなかったため、透析は継続可能でした。しかしながら、医療物 資(ダイアライザー、透析液、薬品、、、)や食料、ガソリン、医療スタッフ(自主避難したため)の不足により、透析継続が非常に厳しい状況になってしまい ました。いわき市の他の透析クリニックでは断水が続いており、一部では透析医が避難したため透析を中断した施設も出現し、透析難民が出現する事態となりま した。いわき市の透析難民を全ていわき泌尿器科で受け入れる方法も検討しましたが、広大ないわき市の透析患者を送迎するだけのガソリンを確保できないため 断念せざるをえませんでした。
いわき市内で透析を継続することはもはや困難という判断をし、いわき市の透析施設10施設で協議し、他県で透析をお願いするしかないとの結論に至りまし た。受け入れ透析施設は、透析関連の先生方にお願いし、東京、新潟、千葉亀田グループの透析関連の先生方から受け入れ可能とのお返事をいただくことができ ました。それとは逆に、患者の移送の手段、宿泊先の手配には大変難渋いたしました。嫌というほど厚い行政の壁の存在を思い知らされることになりました。
○2011年3月15日(水)~2011年3月16日(木) 透析患者移送準備 行政の壁
いわき市内の各透析施設に問い合わせたところ、移送する透析患者の概数は約750名と判明しました。各施設とも食料やガソリンが備蓄が危機的で、3月17 日が移送のタイムリミットと考えられました。全くつてのない輸送手段、宿泊場所を、しかも700名以上という規模で確保しなければならなかったため、行政 をはじめとして政治家、民間など、ありとあらゆるチャンネルを使って調整を図りました。移送手段の確保をいわき市や福島県に陳情しましたが、いわゆる前例 主義の地元行政は最初から聞く耳を持たず、しまいには勝手なことをしているグループがいわき市にいる、ときわ会は原発パニックを起こして透析を放棄して逃 げ出すとまでいわれる始末でした。
このような地元行政の協力が得られない中で、受け入れる側の東京都、千葉鴨川市は非常に好意的で、かつ協力的に対応していただいきました。新潟県は受け入 れは可能だが、受け入れるには福島県からの正式な要請がないと受け入れられないとの返事が届きました。今となっては手続きに重きを置くのが行政であると冷 静に受け止められますが、移送まで時間がない中で、既に様々な陳情で福島県に断られ続けていた一民間グループのわれわれとしては、誰にどのような方法で陳 情すれば福島県が動いてくれるのか全く分からず、途方に暮れてしまうような事態でした。しかし差し迫る移送の日に間に合わせるべく、福島県に一度ならずと も何度も陳情し、それも通じないためいろいろな政治家を通して陳情し、何とか福島県より正式な新潟県への透析患者受け入れ要請を出していただくことができ ました。この福島県との交渉の間、一時ある担当者は理解を示し善処すると返事をいただけましたが、どのような横やりが入ったのか不明ですが、この方は数時 間後に連絡を入れると、担当部署の変更で連絡がつかなくなったことも経験しました。
○2011年3月17日(水) 透析患者移送当日
前日より出発直前まで不眠不休で移送患者の名簿作りに追われました。被災されたり原発事故のため避難された場合、多くの透析患者は高齢で携帯電話も持って いなかったため連絡が取れず、正確な移送患者名簿が出発するぎりぎりになっても作成できていませんでした。結果としては想定より大幅に少ない人数で、午前 10時にいわき市保健センター横の空き地に集合し、各地へと出発しました。
<移動した患者とスタッフ数>
東京 バス20台 (患者:385名、staff:49名)
千葉 バス2台 (患者:45名、staff:4名)
新潟 バス7台 (患者:154名、staff:22名)
移送患者総数584名と当初の想定していた人数より大幅に少なくなったのは、やはり連絡網の不備につきました。本来であれば、移送すべき患者に連絡が取れ ず、最終確認が取れなかったため多めの人数を想定せざるをえませんでした。これら連絡が洩れて移送に間に合わなかった患者は、いわき泌尿器科で透析を行っ たり、後日移動できる方はご自身で東京に移動していただき先発組と合流いたしました。
以上、東日本大震災時の透析患者移送までの経過の概略を簡単にまとめました。今回の移送で得られた教訓として以下のことが挙げられました。
1) 大震災時では、患者のみならずスタッフとも連絡が取れなくなることを想定しなければいけない。また連絡が取れたとしても、患者のみならずスタッフとも病医院に向かう交通手段がないことを想定しなければいけない。
2) 大災害時では、被災地以外の自治体や民間団体は大変協力的であるが、その間に入り調整役となるべく地元自治体が機能せず、様々な支援(人、物資、情 報など)が現場に届かない場合があること想定をしなければいけない。(その象徴すべき事象として、いわき市では大量の行き場のない支援物資が、しばらく市 内競輪場に山積みにされていた)
3) 医療機関にとっては患者情報がすべて。電子カルテであれば、サーバーを多重にするなりクラウド化するなりして、どんな場合でも患者情報にアクセスで きるように努めるべき。紙カルテであれば、最低限の患者リスト(連絡先や透析患者であれば透析条件など)だけでも日常業務で作成しておき、緊急時に持ち出 せるようにしておくべきである。
4) いわき市は、温暖な気候で全くといっていいほど災害を経験したことのない地域であったため油断しており、ときわ会グループでは大災害時に対応したマ ニュアルを持っておらず、かつ災害を想定した訓練も全く行っていなかった。一医療施設はもちろんのこと、広域医療圏全体に対応した災害マニュアルの策定が 急がれる。
5) 移送に際し多くの方々に助けていただいた。どんな場面でも、最後は人と人とのネットワーク助けていただき、仲間の重要性をいまさらながら再認識し た。医療機関は人の命を預かる以上、その中心にいるメンバーは常にいろいろな人的ネットワークを構築する必要があると感じられた。