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Vol.405 福島の医療現場へ

医療ガバナンス学会 (2012年2月17日 06:00)


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内科医 小鷹昌明
2012年2月17日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


そろそろはっきりさせてもいい頃であろうから、言ってしまう。
今年の3月末日を以てして、私は19年間勤め上げた大学病院を辞すことにした。すなわち、「退職する」ということである。大学病院を退職すること自体は少 しも珍しいことではないが、新規の勤務先として、「南相馬市立総合病院」を選択した。そこは東日本大震災の被災地であると同時に、福島第一原発の被爆地区 で、私にとっては縁もゆかりもない土地である。
MRICでは、福島県の医療状況が発信し続けられているので、あえて多くの説明はいらないであろうが、医師としての後半の人生をそこで過ごすことに決め た。これまでMRICと日経メディカルオンラインの連載ブログとにおいて、何回か震災時の感想や福島県浜通りでの見聞を綴ってきた。「被災地を支援したい という一念で大学病院・准教授という肩書きを棄てた」と言えば美談に聞こえるかもしれないが、理由はそう単純なものではない。
では、どうしてか?4月の赴任を前に想いを整理しておくことにする。それは、私の医師人生を少し振り返るところから始めなければならない。

私は、人に言えるような明確な動機で医師になったわけではなかった。両親は医師ではなく、私自身も健康だったし、親族たちの病を身近で体験したこともな かった。単純に、純粋な興味だけで医師を志した。私の大学時代はバブルまっただ中ではあったが、都会を謳歌することもなく淡々と暮らしていた。「医師国家 試験などは所詮、資格試験だ」と早々に解釈し、さりとて自慢できる成績ではなかったが、そつなく勉強をこなし、堅実に大学生活を過ごした。要するに、どこ にでもいるようなキャラの立たない、平凡で、諦観を漂わせるような学生であった。
教職員に恩義を感じたので、卒後は迷うことなく、そのまま大学病院に残った。はっきりとした目標はなかったが(むしろ”なかったからこそ”かもしれない が)、大した度胸とマイペースだけが取り柄の私は、軽妙に診療をこなし、他大学の基礎研究室に席をおいて免疫性神経疾患に関する研究にも取り組んだ。大学 院の卒後は国内研究に飽き足らず、英国に留学して研鑽を続けた。

疑問も不安もなくやってきた。救えた患者も少なからずいたであろうし、医学の発展にも多少は寄与できたかもしれない。普通と言えば普通だが、年代を重ねる ごとに業績も増え、院内での役職も増えた。社会的な使命を背負い、前途に対して明るい希望を抱いていた。その甲斐あってか、2011年3月に入ってすぐの 時点で、次年度からの准教授への内定をいただいた。自分で言うのも気が引けるが、私は大学人として人生を順調に歩んできたほうだと思う。
が、敷かれたレールはここまでであった。
この2~3年間、私は何となく釈然としない毎日を過ごしていた。悩める患者や改善されない医療環境を見るにつけ、私は、「これまでの研究がいったい何の役 に立ってきたのか」ということを自問自答し始めていたし、「もっと、医師として他にすべきことがあるのではないか」という思いを日増しに強くしていた。

「お前が無能だからだ」と言われれば返す言葉はないが、基礎研究と臨床とを高いレベルで両立させることが徐々に不可能となった。こんなことを言うと、臨床 の傍ら日夜研究に励んでいる先生方からきついお叱りを受けることは必至だが、臨床医として働くなかで、一流の研究成果を出し続けることなど到底できなかっ たし、二流以下の研究にはほとんど価値はなかった。私にとっての大学人生は、それが悪いということではないが、思ったよりも地味であった。訴訟を恐れるあ まりに、チャレンジ精神も枯渇していった。仕事はルーチン化し、その度に士気を下方修正するしかなかった。「専門ではない」と言ってしまえばそれまでであ り、医師不足とは裏腹に仕事のテリトリーを制限していくしかなかった。
私は立ち止まっていた。そして、迷っていた。「何が?」と問われても明確な返答はできないのだが、外に目が向けば向くほど、自分の能力と医療のシステムとの限界を感じずにはいられなくなっていた。
「どういう医師になりたいか」ということは、医師を続けることでしか達成できないが、医師をやっているうちにどんどん医師でなくなるような気がしていた。医師(石)頭でいると、ますます世間から離れていくようであった。

そんな矢先の春に、日本の観測史上最大のマグニチュード9.0を記録する東日本大震災が起こった。津波は東北地方太平洋沿岸をすべて飲み込み、死者と行方 不明者とを合わせて2万人に及ぶ大災害となった。福島県浜通りにある福島第一原発では、津波によって外部電源を失った原子炉が炉心溶解を起こし、水素爆発 が発生した。大量の放射性物質が国土に降り注ぎ、多くの人たちが避難を余儀なくされた。
震災によって人生を大きく狂わされた人はたくさんいる。家や家族や仕事を失った人たちから比べれば、私の葛藤などゴマ粒程度にも満たないであろう。私は、医師としての生き方を考察し、人間としての生き残りを模索した。
やがて出したひとつの結論は、「より必要とされる現場に赴く」ということであった。義侠心や正義感という程の覚悟はない。かといって、虚栄心や自己満足という軽さでもない。あえて言うなら、私は心の叫びとして、「確かにそれを聞いた」というだけであった。

医療界には、多くの逆風が吹き荒れている。”医師不足”、”たらい回し”、”モンスター・ペイシェント”、”コンビニ受診”など、たくさんの問題が噴出し てきている。同一の論点で、これだけ多くの問題が同時多発的に起きているということは、個別的なエラーや手違いではなく、いわば地殻変動的な巨大な制度劣 化が私たちの足元で起きているということである。医師たちが医療の惨状を訴えることで、多くの国民に、その実態が少しずつ認知されたかのように見える。し かし、今回の東京電力の対応を見ると、やはり人々はプロ意識を求めている。一般の人から見れば、「どんなに医療が苛酷か知らないが、それが解っていて医者 になったわけであろうし、仮に問題があるならどうして医者同士で団結して改善に向けた運動をしないのだ。医師増員に賛成するものもいれば、反対するものも いる。医師会と勤務医との対立も甚だしい。医者の間でさえ意見が分かれているのだから、実際のところどちらでもいいのではないか」と思われているのではな いか。
そういう状況にも関わらず、医療者は皆一様に下を向き、口を閉ざしている。制度改革など所詮夢物語であると認識しているし、それ以前に現場の医師に”余 力”などというものは微塵もない。私とて、「一人で医療再生を成し遂げられる」などと思い上がったことを考えているわけではない。しかし、それは「何もし なくてもいい」ということを意味するものではない。

確かに、「医師として逞しく生きろ」なんてことが平然と言われている世の中は、鬱陶しくて生き苦しかった。「大学病院勤務医として忠誠を誓え」という狭い 世界は、閉塞していて息苦しかった。だから、「いざとなれば大学を辞めてもいい」という選択肢を作って、先行き不透明な将来に風穴を開けて、少しは生き (息)やすくしたかっただけなのかもしれない。
かつての私は、状況を省みずに好き勝手に行動し、周りを振り回し、周りから翻弄されてきた。得たものも多くあったが、逆に失ったものもたくさんあった。医療的技術や学術的知識と引き替えに、人間の優しさや労りといった部分を見失ってきた。
共感とは、同情ではない。「つらそうだ、かわいそうだ」という気持ちだけでは、人の感慨は長続きしない。涙を流すほどせつない思いをしたとしても、他人で ある私は、翌日にはそれを忘れて生きていくことができる。他人の体験には至れない。残念だが、それが”私”という人間の宿命であった。

そういう意味でさらに気付いたことは、個性というのは誰にでもあると思うのだが、多くの医療者の個性は表に出ないで埋もれていく。どの施設でも同じように 診断し、標準治療と言われるように、どこでも同一治療のできることが求められている。医師のすべきこととして医療技術を磨くことに異論はないが、それは個 性を引き出すこととは少し違う。人間の個性がもっとも現れるのは思考においてである。
個性がないという人はおそらくいない。しかし、個性の現れない人は多い。その理由は、おそらく考えていないからであろう。考えなくても生きていけるので、 ほとんど機械的に毎日を送っている。規則に従って言われたことだけをやり、常識的な範囲で楽しみ、「これは美しい、これは正しい」と評判なものだけを観て 聴いて感じて、”美しい”、”正しい”と、少しだけ感動する。素晴らしい言葉を聞いても、それを自分なりに咀嚼し、その考えを行動に移さなければ自分自身 を活かすことはできない。ただ、一時「いい話を聞いたな」と思うだけである。そうしているうちに、徐々に個性は埋もれていく。

私の人生もそうだったのかもしれない。「一時期の感動をつなぎ合わせていくことが人生だ」という考えでしか行動しようとしなかったし、「成り行き任せ」と 揶揄されたとしても、「医療は、場当たり的な対応でしか実践できない」という気持ちでいた。医師としての成長期はそれで良かったかもしれない。しかし、 「持続」や「保持」というものが、行動の大部分になったときには、もう少し工夫が必要であった。何よりも思考の切り替えが必要であった。私はそれを見誤っ ていた。
だから、これからは、ひたむきに自分というものを手がかりにして思索し、自分の感じる違和を大切にして他者と向き合っていくしかないと思っている。

転職に話を戻す。
小松秀樹先生のMRIC記事において、「医局に馴染めない医師のために、医局と異なる性質の人事システムを紹介して、医局を離れてもきちんとした卒後教育 が受けられるようにすること、能力次第で立派なキャリア形成が可能であること、被災地で活躍することがキャリア形成のための勲章になること、が示せれば、 医師を被災地に集めることができる」と述べられていた。その通りだと思う。しかし、それにはまず、われわれの世代が行くことである。若い連中に「被災地に 行って活躍してこい」とは無責任に言えない。すでに相応のスキルを身に付けた医療者ならいいが、きちんとした教育システムが存在するかもわからないような 場所に、むやみに「行け」とは言えない。まずは自分が行くしかない。

最終的な結論を述べる。
「いつか大学を辞めるときが来る」と思って、登山とジョギングで体を作り替えるよう努力していた。苛酷な状況に再度、身を置くことを想定し、一時期の体重 から5キロ絞り込んだ。体調は万全を期している。私の中にも、まだまだチャレンジグでエキサイティングな部分が残されているのか、大学では味わえない人た ちとのネットワークとはどういうものなのか、医療を中心とした街の復興には何が必要なのか、感動や生きがいを味わうことができて、それを持続させられるの か、そして、そのためにはどのように個性の引き出せばよいのか、そういうことを体験していきたい。

ここへきて私は、「自分は何をしたいのか」、「何ができるのか」の自問自答に対するひとつの答えを見出した。それは、自身にとって正解でもなければ、正当でもないであろう。言ってみれば、”さし当たっての一歩前進”である。
大学病院は、私を成長させてくれた紛れもない現場であった。人生の大半をそこで過ごしてきたし、私にとっては、いつでも帰還できる安らぎの港であった。だ が今、私はそこから新たな船出を果たし、壊滅的な打撃によって港を失った、どうなるか分からない新天地で、医師としての行動を再開する予定である。
続きは、また機会があれば報告する。

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