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Vol.419 南相馬市立総合病院からときわ会常磐病院、そして再び南相馬市立総合病院へ

医療ガバナンス学会 (2012年2月29日 06:00)


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財団法人ときわ会常磐病院 看護部手術室
大井 啓子
2012年2月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


東日本大震災の発生から、もうすぐ1年になります。震災発生時、私は南相馬市立総合病院手術室に勤務していました。その後、現在勤務している財団法人とき わ会常磐病院に理由あって転職し、本年4月より再び南相馬市立総合病院で勤務させていただくことになっています。私にとっての激動の1年を振り返ることによって、皆様になにがしかの災害対策や復興のヒントになればとまとめてみました。

私は、震災発生時、南相馬市小高区に祖父母、父母とともに暮らしながら、南相馬市立総合病院の手術室に勤務する看護師でした。当時、看護師3年目で、まだまだ手術部看護師として学ぶことが多く、多忙な手術室で大変充実した仕事を行っていました。

●3月11日 東日本大震災発生
震災発生の日は、通常通り手術室勤務をしていました。ちょうどペースメーカ埋め込みの手術が終了し、その患者様をストレッチャーに乗せ、手術室前のエレ ベータまでお見送りしたところで、震災が発生しました。その地震の大きさと揺れの時間の長さは、これまで経験したことのないもので、必死に患者様に危険が ないようにお守りした事を覚えています。震災発生によりエレベータは停止してしまい、この患者様は病室にお連れすることができなくなり、そのまま手術室に 戻り看護を続けました。
その後、近所のスーパーで倒壊があったらしく、建物の下敷きになった方が救急車3台で搬送され、その手伝いに救急外来に下りました。救急外来を手伝っている 間に、津波の犠牲者が次から次へと搬送され、それはそれは言葉に表せない光景でした。もうすでに亡くなっている方、息をしていても泥混じりの海水を飲みこみ瀕死の状態の方、骨折している方などが搬送され、救急外来はさながら戦場のようでした。3年目の看護師として、できることを必死になってお手伝いしまし た。
もちろん自分の家族も心配でした。しかし手があいた合間に連絡を試みましたが、電話連絡はとれず、家族のことより目の前の患者の手当てをすることが自分の使命と歯を食いしばって看護にあたりました。23時まで勤務したところで交代の看護師が来てくださり、ようやく自宅に帰ることができました、帰宅後、家族の無事が確認できたときは本当に涙を流して喜びあいました。

●3月12日 福島第一原発1号機爆発
震災発生翌日も、通常通り朝より出勤し、手術室で勤務しました。怪我をされた方の手術を中心に仕事をしました。そのうち、その時点では理由は分からなったのですが、南相馬市立小高病院の患者様を南相馬市立総合病院に全員搬送されることとなり、その準備が大急ぎで始まりました。軽症の方は退院していただき、 ベッドを空けました。そのうち第一原発が爆発したとうわさが流れ、原発事故のため市立小高病院の患者様が転院することが分かりました。

●3月13日 南相馬市立小高病院患者様受け入れ
現在ある病室だけでは市立小高病院の患者様の受け入れには全然足りず、講堂にベッドを並べて受け入れました。朝から救急車による搬送が開始され、ピストン輸送による搬送であったため、最後の患者様の搬送が終わるまでに夜遅くまでかかったのを覚えています。

●3月14日 福島第一原発3号機爆発
午前11時に福島第一原発3号機が爆発しました。この情報が院内に流れると、ここで医療を続けて大丈夫なのか、家族は大丈夫なのかと職員皆騒然となりまし た。この後、院長から職員全員に、市の方針が説明されました。これから避難するも残って仕事するも自己判断で行ってくださいといった内容でした。入院患者 を多数抱えた状況でのあまりの無責任な説明に、パニックになり泣き出す職員もありました。しかし、原発の恐怖のため、これを機にほとんどの職員が避難してしまうことになりました。
私も逃げようか残って仕事を続けようか迷っていましたが、とりあえず手術室に戻りました。この日は2件の帝王切開が予定されていましたが、お一人はすでに 他院へ紹介となっていました。残りの方を今から転院先を探しては、母児ともに危険と担当医は判断され、帝王切開を当院で行うことになりました。ここで私の迷いは吹っ切れました。やはり看護師として目の前の患者様を見捨てて避難することはできないと気付きました。残った少ないスタッフで帝王切開を無事行い、 その後安全な転院先を探し、母児を搬送するまで手術室で看護を続けました。この一つの本当に小さな命を救うことができたことが、私の看護師として、また一人の人間として大きな転機となりました。看護師の使命は、一人でも多くの命を救うことだと自分の胸に刻み込まれました。

●3月15日から3月31日
私の家族は、福島のアパートを見つけることが出来たのでそちらに避難させ、私は通常通り出勤しました。前日の病院の方針によりスタッフは激減したため、通常の診療を継続することができなくなりました。そのためこの日から手術は中止となり、入院患者の転院先を探し、転院させることが主な仕事となりました。3 月20日までかかり、入院患者全員を転院させました。この間、厨房スタッフも避難したため、入院患者の食事は看護師が3食すべて調理しました。
私の自宅は警戒区域に入っていたため帰ることができず、病院で寝泊まりして勤務しました。食事は皆で調理して困ることはなかったのですが、お風呂が院内で は利用できず、たまたま営業していた近くの銭湯に4日に一度のペースでしか入浴できなかったことが一番つらかった思い出です。3月16日からは入院患者がいなくなったため、3月31日まで外来勤務を行っていました。

●4月
4月になり原発事故も少し落ち着いたためか、避難していた職員が少しずつ戻ってきました。入院がなく手術も行っていない職場で、今度は逆に人手が余るよう になり、震災発生以降、休みなく勤務していた私に休息をいただくことができました。そのため家族のいる福島市に滞在し、しばし休息させていただきました。
4月11日より再び出勤したところ、やはり看護師が余っている状況でした。ほとんど仕事のない状態で、勤務を続けていました。私としては、被災者のため働きたかったのですが、その当時の南相馬市立総合病院では入院や手術を停止しており、その思いが果たせず暗い気持ちでいました。
さらに、市から雇用の説明があり、3月と4月の勤務は自主勤務(サービス勤務)であり、また5月以降は半年間のみを保証とする基本給だけでの雇用であると 聞き、この病院で働く気力がなくなりそうになりました。実際、1年たつ現在まで3月と4月分の報酬は受け取っていません。これでは何のために看護師をして いるのか分からなくなり、被災者のために頑張ろうと思った心が折れそうになりました。そこで南相馬市立総合病院での勤務はあきらめ、自分が看護師として能 力を発揮できる職場を探しました。それが現在働いている常磐病院です。

●5月~現在まで
財団法人ときわ会常磐病院は、いわき市に本部をおく診療グループで、泌尿器科や透析を中心に診療を行っているグループです。震災発生時には、いわき市では 水やガソリンなどが不足し、透析ができなかったため、透析患者を東京、新潟、千葉に搬送し透析を継続したことを聞いて、ずいぶん活動的な病院なんだなと印象を持っていました。この常磐病院に、ある知り合いのご縁からとんとん拍子に勤務することが決まりました。私は住むところがなかったので寮がある病院を希 望したため、少し転職先選びに制限がありましたが、常磐病院では独身寮に入居できたので大変助かりました。
私が配属された先は、手術室でした。5月は震災間もないこともあり、手術件数は少なく、初めての職場に慣れるには最適でした。しかし、6月、7月と経過す るにつれて、手術件数がどんどん増加し、南相馬では経験できない症例もたくさん経験でき有意義な勤務をさせていただくことになりました。
特に常磐病院泌尿器科では、東京女子医大泌尿器科と東邦大学泌尿器科から応援医師が毎日来ていただいており、手術に関しては腹腔鏡手術(前立腺癌、腎臓癌)、経尿道的手術(前立腺肥大、尿路結石、膀胱癌)などが、連日多くの症例を行っており大変勉強になりました。

●南相馬市立総合病院への復職
このように常磐病院での仕事は大変充実したものでしたが、家族と離れて一人で暮らすことには少し寂しいものもありました。いわき市と南相馬市は、震災前で あれば国道6号を北上すれば行けましたが、現在は原発事故のため大きく迂回していかなければいけません。そのため大変時間がかかり気軽に南相馬に帰ることができません。また、昔の看護師仲間から連絡を取り合っていると、南相馬市立総合病院も入院や手術を再開し、看護師が不足していることを聞きました。
12月になると、南相馬市立総合病院で来年度の募集が行われました。常磐病院で知り合った先生方や看護師の皆様と別れることは大変つらかったのですが、や はり自分は生まれ育った故郷で看護師として震災復興の役に立ちたいとの思いが強まりました。常磐病院の看護部長にその旨をお話ししたところ、快諾していただき、南相馬市立総合病院に戻るお許しをいただくことができました。常磐病院も決して看護師が充足しているわけではないので、大変申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
常磐病院では4月よりホールボディカウンターが導入されることになっています。先にホールボディカウンターが導入されている南相馬市立総合病院との交流が 現在、始まっていると聞き、ご縁は本当にひょんなことから始まるのだなあと実感しています。私も、いわきで働いた人間として、浜通りの医療の復興のために 何かのお役にたてればと考えています。
震災で自分が経験したことは、宮城や岩手のような大被害のあった現場で看護にあたられた看護師さんたちからすると、本当にちっぽけなことかもしれません。 しかし自分にとっては、人生観が変わるぐらいの、大きな大きな経験をさせていただきました。この経験を糧に、これから少しでも南相馬の医療の復興のためお 役にたてればと思っています。

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