医療ガバナンス学会 (2012年3月9日 06:00)
もう40年も前になるが、アメリカのNCIに留学していたときに、珍しくPh.D.の学位をもったレジデントがいた。サウスカロライナ大学の医学部を出て、当時発展時期にあったペルオキシダーゼ標識抗体を用いた免疫組織化学の方法を用いて何かの研究をし、どこかの大学でもらったのである。
病理部のセミナーでも講演をした。アメリカでは医学部を卒業すると医師資格が与えられ、勤務・開業する場合はその州の免許が必要となる。また専門医制度が発達していて、病理医にも全国試験があるし、その亜領域にも専門制がある。
医師は卒業により、M.D.となる。これは資格であり、同時に称号である。別に卒業論文や博士論文は書かなくてよい。このためわざわざPh.D.の称号な ど、ほとんどのM.D.はとろうとしない。意地の悪い私は、ハーヴィといったそのレジデントに聞いた。「ハーヴィ、ハーヴァードのM.D.と例えばマリー ランド大学のM.D.とPh.D.のふたつ持っている医者の、どっちが偉いのかね?」その時のハーヴィの困った顔はいまもはっきり覚えている。しばらくためらった後、彼はこういった。「それはやはり、ハーヴァードだな…」。アメリカは学歴社会であり、学閥もある。しかし実力や勤勉さがないと、その地位を保 つことができない。私は病理部の無能で怠惰なある室長が、クリスマスのパーティで、レジデントたちによる寸劇でみなにはっきり分かるように、さんざ笑いものにされ、結局辞職して中西部の田舎町の病院に去るのを見た。
その当時から、日本人のポスドクはNCIだけでなくNIHに多くいた。これは将来大問題になるなと思っていたら、大学院重点化に大学設立の自由化が重なり、さらに雇用形態の変化による就職難が追い打ちして、はたして大問題になった。
基礎医学分野では、医師の大学院進学者が足りないので、修士課程を設けたり、非医師の博士課程への入学を認めたりしている。大阪大学が基礎医学の修士課程 を設けたとき、「これは将来に禍根を残すな」と思ったが、やはりそうなった。要するに非医学畑の大学院生を無給の(それどころか授業料を払ってくれる)助手として使いたいのである。医師免許のある医者なら、当直のアルバイトで生活費を稼げるが、医師免許のない大学院生はそうはいかない。無理のある制度なの である。
日本の医師養成制度は、明治時代は漢方医と西洋医を一本化するのに苦労した。その後は開業医の徒弟制度、医学校、医学専門学校、大学医学部といろいろあっ た医師への道を、そろえるのに苦労した。それでも敗戦までは、朝鮮や満州や台湾にも医学校があり、戦争中に軍医の即席養成のため医学専門校を多く作ったので、医師への道を一本化できなかった。当時は国家試験がなく、卒業すれば医師免許がもらえた。いまの教員免許と同じだ。
戦後、GHQの改革により、6年生の大学教育と卒業後の1年間のインターンと終了後の医師国家試験という、新制度が導入された。新制度への移行期に、旧医 師免許から新医師免許に切り換えた医師も多い。日本の医師水準が上がり、その質が、いまはやりの言葉でいえば、「均てん化」されたのは、実にこの制度のお かげである。
しかし、このシステムには盲点があった。「インターン指定病院」がインターンをただ同然の賃金で酷使するという弊害を生んだのである。こうしてインターン制度は廃止され、卒業時に医師国家試験をうけ、その後2年間の臨床研修が「努力目標」として定められるという現行につながる制度に移行した。基礎医学を専 攻する学生は、臨床研修をしないで、そのまま基礎系の大学院に行けるようになった。
実はこれが失敗だったのである。臨床経験がないと、当直のアルバイトができない。奨学金では食うだけで精一杯である。高い洋医学書には手が出ない。さりと て、2年も臨床研修をすると、その間に臨床医の先輩の生活を見てしまい、基礎医学などあほらしくてやる気になれない。結局、基礎医学には医師の大学院生が寄りつかず、法医学教室などは教授だけが医師で、あとは全員Ph.D.ということになってしまった。
これに輪をかけたのが、「臨床研修指定病院」の枠の拡大である。これ自体は別に悪い制度ではない。総合病院が互いに研修プログラムと待遇の内容で競い、より魅力のある研修指定病院に研修医が流れる。ごく自然である。
問題はそれに対抗するだけの魅力が、大学の臨床教室(医局)にないことである。サイテーション・インデックスだのインパクト・ファクターだのという点数で、書いた論文の点数と本数とで人事をしているから、臨床の腕はおろそかになっている。
将来、臨床医として身を立てたいと思っている多くの研修医は、「医学博士」では飯が食えないことを知っている。学位などなくても、腕がよければ臨床医は成り立つのである。
基礎医学だってそうで、肥満細胞が局所の結合組織細胞に由来するのではなく、骨髄細胞に由来することを発見した大阪大学の北村幸彦は「学位無用」を宣言して、医学博士の学位はないまま阪大病理学講座の教授になった。
現在の医師不足は、1) 大学医局に魅力がなく若い医師が集まらず、2) 「臨床研修指定病院」が大都市に集中し、田舎の町立病院には指導者もおらず、医師が集まらないという、二つの要因による医師分布の偏りにある。伝統的に医 局は「医師派遣業」を担ってきたが、人員不足により、それができなくなっている。
さて標題に返る。「医学博士」は称号である。英語のM.D.は資格と称号の両方を兼ねている。論文で医学博士になれば、英語でもそれはPh.D.である。 医師資格があり、医学博士の称号をもっていれば、名刺にM.D., Ph.D.と書けることは、ハーヴィと同様である。ついでにいえば、当時の私の同僚はみなM.D.しかもたなかったが、ジョンズ・ホプキンス大学、フロリ ダ大学、南カリフォルニア大学の病理学教授になった。もうひとりはNCIに残ったが、ここは全米のがん研究費の査定と配分をするところだから、実力と権限 は彼女の方が上である。
米国の医学教育は、最初の4年間は他学部で学ぶ。つまり法学部とか文学部とか神学部とか、ともかく「教養課程」が4年ある。医学部に進もうとする学生は休 暇中に、病院とか医学研究室でボランティアの体験をしなければならない。その実績が入学資格として評価される。だから日本と違って、人体解剖で卒倒して、 退学する学生などいない。また社会で活躍して、それから医学部に進む学生もいる。かつて広島カープにホプキンスという確かピッチャーがいたが、帰国して医学部に進み医者になった。医学部では4年間基礎医学と臨床医学をみっちり学ぶ。つまり「医学教育」は8年制であり、日本の6年制より2年長いのである。そ のあと、厳しい24時間勤務のインターンがある。その代わり、一人前の医者になってからの見返りは大きい。日本の医者は修業期間が2年短い分だけ、アメリ カより社会的評価が低い。
GHQがアメリカとまったく同じ制度を導入しなかったのは、当時の日本の衛生・医療事情では「質よりも量」が求められていたからである。いまは事情が変わったのに、相変わらず6年制で、それも「教養課程」を圧縮して専門教育を重視しているが、長期的にみるとそれは視野狭窄である。なぜなら医学部で教える 知識は10年後には時代遅れになるが、文学や語学や歴史や地理などの一般教養は、古くならないし、患者を診る医師の基本教養として欠かすことができないからである。私は医学生として英語、ドイツ語、ラテン語を必須としてならった。フランス語、スペイン語は夏期講習で受けた。もちろん世界文学全集とか世界思 想全集も読んだ。それらの教養が、留学中や各種の国際会議でどれだけ役だったかしれない。パーティの話題に事欠いたことはなかった。
世の中には名刺に「医学博士」とあると、医師だと勘違いする人がいる。また、それを知っていてうまく利用する人もいる。私の家内などは理学部の動物学の卒業だが、解剖学教室の助手になって「医学博士」をもらったので、私立大学で長く解剖生理学を教えていた。もっとも彼女の論文は、すべて英文でレフェリーのある国際誌に発表されているので、私の学位論文よりはるかに優秀である。
だが、博士が称号であることは、「学士」が称号であるのと変わらない。称号を盾に「医師」という資格を要求するのは、司法書士が、弁護士不足を理由に、弁護士資格を要求するよりももっとおかしい。「司法書士」は資格だからだ。
ではポスドク問題は、どうすればよいのか。対案が必要だろう。私の昵懇にしている医師に、理学部を出て、学士入学で医学部に入り直し、医師になった人がいる。こういう人は決してまれではない。作家の帚木蓬生は、文学部を出て医学部に入り直して、精神科の医者になった。前にあげたプロ野球のホプキンス選手の 例もある。
本当に医学に関心があり、医者になりたいという熱意があるのなら、まずそういう努力をするべきだろう。日本の医師法は、医師という資格を「医師国家試験合 格者」に限定し、「自由標榜科」制度を採用している。医師であれば何科を標榜してもよい、というものだ。この根底には「医行為」があり、「医師でなければ 医行為をしてはならない」という規定がある。ところが勤務の労働時間の多くの部分が医行為以外の作業にとられている。例えば電子カルテの入力とか治療と直 接関係のない文書の作成などである。院内の委員会がやたら増えたのも「医行為」のための時間を医師から奪っている。
かつて日本医師会の武見太郎会長は医師を本務に専念させるために、「医療秘書」の導入を真剣に考えたが、日本の医療に欠けているのはそういう医療クラークで、そういう有能なヘルパーがいれば、医師不足は解消可能なのである。