医療ガバナンス学会 (2012年4月17日 13:00)
3月12日夕方、疲れはてて帰宅したが、午後7時頃、電話が通じないため病院職員が直接車で迎えにきて、また病院に戻った。情報が取れていなかったが3月 12日、午後3時36分、福島第一原発、1号機建屋の水素爆発が起こったとのことで、病院内は混乱していた。当院は原発より23kmであるが、20km圏 内には避難指示が出ていた。主に小児、産婦人科、整形外科で若くて、退院可能な患者さんは退院の方針として、その他転院を希望する患者さんは急ぎ転院先を 探すこととした。この結果、63名が退院し、入院総数は148名となった。午後8時より病院の内、外の放射線濃度の測定を開始した。救急入り口前が 12μSv/h、1階エレベーターホール前が2.3μSv/hであったが、このときがピークで徐々に低下し、3月末には病院外で1μSv/hを切った。副 院長及川先生の発案で、情報の一元化を図るため午後11時40分に1階エレベーターホール近くに院内防災センターを設置した。
3月13日、20km圏内に位置する南相馬市立小高病院に対しては避難指示が出ており、当院への転院の希望が伝えられた。68名の入院患者さんがおり、多くは車椅子、もしくは寝たきりであった。午前10時頃よりマイクロバス、救急車で搬送開始し、終了したのは午後7時27分であった。入院患者総数は197 名。
3月14日、午前8時30分、リハビリ室で職員の意志統一のため、第1回目の全体会議を行った。午前11時1分、3号機建屋水素爆発の報道があり、11時15分、緊急の全体会議を行い、避難するか、病院に残るかは自己判断するように告げた。院内防災センターは、放射線濃度が最も低く、コンクリートで遮蔽さ れた2階エレベーター前に移した。避難指示がでるまでは病院機能を維持して、ここで籠城の気持ちだった。正面玄関を閉じ、窓も閉じ、出入りは救急入り口のみとし、病院に入る人はすべてガイガーカウンタにより放射性物質汚染の有無を調べた。3月12日~14日までで、10人以上の人が10万CPMを超えてい た。
3月15日には正職員、嘱託職員、臨時職員、契約職員の約2/3が避難しており、職員数が激減した。医事、給食、清掃、守衛の業務にあたる契約職員は全員 避難した。当然、これらの仕事は残った職員の仕事になった。この日、原発より20~30km圏内には、屋内退避指示が出た。この指示で人は入れず、物資は入らなくなった。食料、ガソリンが底をつき、医療に関しては液体酸素が少なくなり確保に奔走した。3月16日、自衛隊による食料、医薬品の搬入が始まり、 3月17日には液体酸素を何とか確保できた。
3月18日、防災大臣が来院、その日に入院患者の避難指示が出た。この日より自衛隊による入院患者の新潟県への転送が始まり、3月20日、午前9時30分に最後の患者が搬送され、入院患者は零になった。新潟県の32の病院に92名が転院した。
以後、入院患者は置けず、一次救急と薬の処方が業務であった。市内の病院、クリニック、院外薬局はほぼすべて閉鎖されており、薬の処方を希望する患者さんの対応に追われた。この頃、南相馬市の人口は県内外への避難のため7万1千人から、約1万人に減っており、車もほとんど通らない状態になっていた。野良犬が増え、犬に噛まれる患者さんが多かった。3月21日、諏訪中央病院より医師、看護師が診療応援のため来院した。職員は皆、疲れており、感謝、感謝であっ た。
4月4日より救急室で内科、外科に分けた外来診療を開始、当直も置き夜間救急にも対応した。入院患者をおけず余剰となった職員は、市と協力し主に県内外の 避難所に派遣となった。群馬、茨城、宮城、山形、新潟県の19箇所、福島県の7箇所に82名(看護師76名、その他の職種6名)が出向し、南相馬市民の健 康管理、市との連絡に携わった。その他、食料の配布、物品の整理などにあたった。外来業務以外に、4箇所の避難所の訪問診療、保健センターでの在宅患者の訪問診療への参加、医療ボランティアのコーディネイトなどが病院の業務となった。
4月11日、原発事故から1ヶ月が過ぎ枝野官房長官が記者会見、その後内閣総理大臣による文書による指示が出て、南相馬市は4つの区域に分かれた。原発よ り20km圏内が警戒区域、20~30km圏内が緊急時避難区域、30km圏外でしばりのない区域、20km圏外で放射線濃度が高い計画的避難区域である。当院は緊急時避難準備区域に存在した。緊急時避難準備区域に対しては、緊急時に避難できる準備をしておくこと、引き続き自主的避難をしておき、特に子供、妊婦、要介護者、入院患者等は引き続きこの区域に入らないようにすること、幼稚園、学校は開かないことが指示され、やはり入院は置けなかった。震災か ら4月30日までの間に、医師数は14名から4名に減少した。小さなお子さんがいて避難が必要、入院治療ができない、もともと3月までで交替になる予定 だったなどがその理由である。
徐々に救急車で搬入される患者が増えたが入院患者は置けず、入院が必要と判断した後、30km圏外へ搬送するしかなかった。震災前、18.5万人の医療圏だった相双地区で脳外科があるのは、当院のみで、県に要望し5月16日より脳外科に限り5床、72時間の入院が認められた。しかし、この入院期間を過ぎると30km圏外に患者を搬送しなくてはならず、患者にとって不利益であった。その後、県に要望し会合を重ねた結果、6月20日付けで短期入院、70床が認められた。診療科は特定されず、入院期間は医師の判断に委ねられ、70床は医師、看護師の数により決められたものであった。入院を要する患者は徐々に増え、8月1日より100床、11月1日より120床入院が可能な体制にした。2012年4月1日からは産婦人科を含め150床入院が可能な体制にしたいと考えている。医師も徐々に増え、8月には7名、11月には8名、2012年1月16日から常勤10名となっている。今後は看護師の確保が問題となりそうである。
当院の業務量は徐々に増加してきている。2012年1月現在、外来数は1日200名(震災前350名)、入院患者数は120名を超えた。救急搬入は月70名を超え、年に換算すると840名で震災前に戻っている。
2011年9月30日に緊急時避難準備区域(原町区)は解除されたが、この区域にあった5病院の状態をみると、2011年9月13日の時点で許可病床 1046床中、受け入れ可能病床数は245床で入院患者は150名、医師数は48から26名へ、看護師数は464から185人へ減少しており、医療崩壊が起こり現在も続いている。
6月初旬、ホールボディカウンター(WBC)による内部被曝の検診を行い、市民に安心してこの地で暮らせることを示すため、WBCを当院に設置できないかと模索し始めた。
文部科学省が把握しているWBCは27台と少なく、多くは固定式で、移動式のものは原発事故周辺に置かれ、原発職員の検査に使用されていた。6月25日、 WBCを実際に見たことがなく、副院長及川先生とともに女川原発に見学に向かった。WBCの説明を受け、実際に測定していただいたが、二人とも原発職員と比べ明らかにCPM値が高く、内部被曝していることを確信した。その後、鳥取県より安西メディカル社製の移動式椅子型WBCを借用し7月11日より検診開 始、更に福島県より借用した富士電機社製の屋内設置椅子型WBCを用い8月1日より検診開始、更に9月26日よりキャンベラ社製立位型WBCを用いた検診 を開始し、2012年1月27日まで1万人の検診を行った。8月1日より9月22日まで富士電機社製WBC(検出限界1410Bq)で検診を受けた小中生2357名中Cs137が検出されたのは6名(0.35%)であった。9月26日からキャンベラ社製の立位型WBC(検出限界250Bq)で検診を受けた 小中生では527名中268名(51%)で検出された。検出限界が低値のWBCで検出者は多くなったが20Bq/kg以上は4名で、多くは10Bq/kg 以下であった。チェルノブイリ周囲で事故後5~10年のWBC検診結果と比較し、極めて微量であることが分かった。
その後、キャンベラ社製WBCで測定した成人4745名でも同様であった。今後は食物による慢性摂取が危惧され、食品の放射能検査、WBCによる内部被曝 のないことの確認を何十年にもわたり行う必要がある。小児の内部被曝で問題となるのはI-131であるが、半減期が短く検出されなかった。I-131の被 曝の有無ついては不明であり、今後、小児の甲状腺については長期にわたる経過観察が必要である。2012年1月10日より東京の伊藤病院へ検査技師を派遣 し検診体制を整えつつある。
2011年8月15日、南相馬市の人口は3,9576人であった。緊急時避難準備区域解除前で種々の問題があった。小中学生約6,000人の1/3は避難 せず南相馬市に住んでいるが、20~30km圏内ではまだ小中学校、高校は開けず、この地区の生徒は30km圏外にマイクロバスで通いすし詰めで教育を受 けていた。また20~30km圏内では介護施設が開けず、入院治療後の受け皿がなかった。
2011年9月30日、緊急時避難準備区域が解除され、10月17日より小中学校が一部の高線量地区を除き再開され、市内の特養も10月中旬より再開された。しかし、緊急時避難準備区域が解除になっても、避難を続ける市民が多く2011年11月1日の南相馬市の人口は42,989人で、まだ約3万人は避難 したままになっている。避難者の多くは若い年齢層の人で、65歳以上の占める割合が32.1%を占め超高齢社会となっている。また、市内の仮設に 4,205人、借り上げ住宅に4,211人が暮らしている。今後、南相馬市民、とくに次世代を担う子供から青年層が戻るためには、除染などによる放射線被 曝の低減は当然ながら、市民が安心して生活できる雇用の確保、生活インフラの整備、そして教育、医療、福祉の充実などすべてが必要で、どの一項目が欠けて も地域の復興はならないと考える。
このような状況下で当院がはたすべきことは、1)2次救急までの救急医療、2)産婦人科、小児科診療の整備、3)仮設、借り上げ住宅に住む市民の健康管理、4)放射能汚染による内部被曝検診と考える。