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Vol.507 福島の医療現場から見えてきたもの

医療ガバナンス学会 (2012年6月2日 06:00)


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南相馬市立総合病院 神経内科
小鷹 昌明
2012年6月2日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


2012年3月5日の福島県は、朝から雪だった。震災から1年が経とうとするこの日は、私が大学病院・准教授を退職してから初めて勤務する、市立病院への挨拶の日であった。
私は郡山市のホテルから、浜通りまでの足をどう確保したらいいかを考えあぐねていた。病院事務に電話で尋ねたところ、「福島駅までは新幹線で行き、そこからタクシーを利用すればいい」との返答であった。
関東の人間から見れば、「まさか」と思うような積雪量であったが、指示された方法は当たり前の交通手段だった。飯舘村を横切る阿武隈山中の県道は除雪されており、事務職員の言うように簡単に往訪を果たした。
雪は小雨に変わり、降りしきる南相馬市の街並みは寒々しく、寂しかった。タクシー運転手と昼食を求めてレストランを探したが、オープンしている店はココスだけであった。
のっけから不安を感じたが、病院の復興を願う院長・副院長の言葉は熱く、帰り際には事務職員一同が、立ってお辞儀をしてくれた。

南相馬市の医療現場に行くことを打ち明けた数少ない知人の中で、私が福島県人からいただいた言葉は、『大学の現場の第一線で活躍されてきた先生が、被災地 の医療機関にやって来てくれるということ、そのこと自体が”復興”であると感じました。今の福島には、先生のような明るさと勢い(すみません!)がとっても必要です。私は、「決意して来ました」と熱く語られる人の言うことよりも、「いや~、勢いだけで来ちゃって、やっちゃたかなぁ」と、笑って理由を話してくださった先生がとても好きになりました』という内容だった。
正直、虚勢を張った部分もあるにはあったが、自分は期待され、注目され、勇気づけられた。これまでも何度か述べてきたように、私は、「より必要とされる現場に赴く」というシンプルな考察結果を得たので、この地を訪れたのだが、その一言がとても嬉しくて、嬉しくて、自分はこの土地でやっていけると思った。

4月から本格的な勤務が始まった。
そこには、一般診療科に混じって総合診療科や在宅診療科などが立ち上がっていた。14人いた常勤医は震災直後に一時期4人に減ったが、産婦人科医や小児科医が戻り、外科医も新たに加わり、現在15人に増えていた。
いろいろなキャリアを積んだ医師が、いろいろな立場と役割とで、いろいろな働き方で働いていた。自分のやりたい理想の地域医療の実践を求めて、文字通り奮闘していた。それが実に快活というか、風通しが良いというか、気兼ねのない伸び伸びした雰囲気を感じた。
意外にも、先輩医師の配慮からか、私の技術がすぐに求められるという状態ではなかった。すでに、非常勤にしろ、ボランティアにしろ、多くの医療者の支援が入っていた。私の診療すべき患者が外来に溢れているという状態では、けっしてなかった。
ただ、半数近くの医師は、月単位、あるいは1年程度で移動していく派遣医師であった。もちろん、そうした応援はありがたいことではあったであろうが、短期 的な支援しかできない医師では、患者の、延いては市民の信頼も定着していかないのではないか。慣れてきた頃に撤退しなければならないという、とても効率の悪い、綱渡り的な診療体制が続いていた。
「今度新しく来た先生ですね。でも、また半年くらいで交代ですか」というような質問を、数人の患者から受けた。この病院で完結するような標準医療を提供するには、人の手はまだまだ足りなかった。
隠さずに言うならば、医局でもっとも忙しそうで目立っている人は、それらの応援医師を束ね、もてなすとともに管理しなければならない、元気な”医局秘書” であった(秘書は仮設住宅にお住まいだった)。就任して1ヵ月、私は秘書より早く出勤することも、遅く帰宅することもなかった。

南相馬市では、7万1千人いた人口が震災後に1万人にまで減少したが、現在4万6千人(3月末)に回復している。しかし、65歳以上の高齢者がそのうちの3割強を占め、仮設や借り上げ住宅での生活者は、合わせて2割にのぼる。
被災地の中でも、原発問題を抱えるこの浜通りの疎外感は、おそらく特異的なものなのではないか。とにかく子供がいない。日曜日なのに公園に人がいない。だから、非常に静かであり、老人も、孫の”おもり”をする必要がない。
高齢者は家に閉じ籠もりがちになり、支援の手が届かなければ、やがて”孤立死”が多発することは目に見えている。高齢化が加速度的に進行するこの地域の医療をどうしていけばいいのか。
きれい事を言うならば、放射線被曝の低減は当たり前で、それに加えて雇用の確保、生活インフラの整備、教育、医療、福祉の充実、そして、文化的な暮らしを 推進していかなければならない。経済や産業の停滞と、生活や文化の低下したこの土地に人が流入しないとしたら、市民は市民の力で支え合っていくしかない。
現地でヘルパーを養成するとか、ケア・マネや介護士資格のある人に復帰してもらうとか、保健師にもっと権限を持たせるとか、サービス付き高齢者向け住宅 (サ高住)をどんどん推進するとか、治療食をデリバリーするとか、NPOに業務を委託するとか、診療のサポートをすることはもちろんだが、職種を越えた “地域連携医療ネットワーク”の構築が急務だと感じた。

南相馬市には、離散してどこでどうしているか分からない人たちが、まだまだたくさんいる。
医療の提供側においても、子供を持つ母親の多くがこの土地を離れ、今では、医師よりも看護師や介護士不足の方が深刻である。このため市立病院では、4病棟のうち1病棟が稼働できないでいる。

原発事故を契機に転院を余儀なくされた難病患者の多くも、病床不足で市内に戻れない。
市に残った神経難病患者に、「もっとも厳しい状況は何か?」を尋ねてみた。
「震災前は、デイ・ケアやショート・ステイを利用することができたが、他の土地でも働けるような健康な人たちがバラバラになってしまったので、福祉や介護 を支える人が減ってしまった。これまでのサービスを受けられないので、家にいるしかない。しかし、その分、妻に大きな負担を強いてしまっていることが何よ り辛い」と話されていた。
原発に対してストレートな怒りをぶつけるような人は、もうあまりいないし、津波被害の落胆を語る人も、それほど多くはない。そういう意味では、震災後のことを尋ねても、住人の気持ちはさまざまである。
「もう、悲惨な過去ばかりを強調するのではなく、復興と再生なのではないか」という風潮と、「まだまだ多くの爪痕を残し、暗く沈んだ空気のままだ」という 雰囲気とが交錯している。「復興に向けてがんばろう」と思っている人と、「なるようにしかならない」と思っている人とで、二分されているような気がする。
つまり、「結構熱いが、肩の力は完全に抜けている」、そんな印象である。

浜通りの人々にとっての海や大地というのは、単なる労働用地でも、物的資源でも、固定資産でもない。自分たちとは分離することのできない恵みや悦びの場であり、いわば共同のエリアである。そんな拠り所を奪われた人々の気持ちとは、一体どういうものなのか。
自分の人生の再建に対して逡巡し、思案し、葛藤しているのが、今のこの土地における偽りのない、人々の姿なのではないか。
「仮設は3年くらいしか住めない。土台作りもいい加減だからいつまでも住めるはずがない。東電の補償もいつまで続くか分からない。帰れるのか、それともこ こに新しい街を作るのか。それにしても、一体何が新しい生活なのだろうか?」という自問や、「飲んで食って寝るだけだから、楽と言えば楽だ」、「ここに居るしかないのだから諦めているというか、他に行くところもないから家に閉じ籠もっている」、「パチンコと散歩くらいしかやることないな」と打ち明けている 住民に対して、何を届けていったらいいのか。
「一夜にして解決できる」と凄んでいる説明や、「被災地に行ったら逆に励まされた」というような紋切り型の感動は、もう薄っぺらな言説にしか思えない。

現状を目の当たりして、私は考えを是正せざるを得なかった。「何かを始めたい」と意気込んでは来たものの、”医療復興”というのは、システムを創造したり、パラダイムを変換したりすることではなかった。
むしろ丁寧に修繕するとか、再度緻密化するとか、改めて体系化するとか、有機的に規模を拡大するとか、人を集めてそれらを繋ぐとか、そういうことが医療の復興であった。
震災から1年が経過したこれからの時期は、言ってみれば救急処置を済ませた後の長い長いリハビリ期間である。”丸ごと刷新”とか、”そっくり改正”いうのではなく、手厚く手直しをしていくことである。復元とか修正とか補正とか綻びを繕うとか、そういうことである。
だから私は、そういう場面を捉えたいと思っているし、データで示されないような事実を文章にして伝えたいのだが、そういうことは学術と一線を画する作業で あり、学者からは一蹴されるに決まっている。医療の相手は一般の人々であるはずなのに、日本の医学界の中枢にいる人たちの対象は、やはり医師仲間であり、 そんな仕事は間違ってもしない。
であるからして、私のような医療の周辺にいる人間が言葉を置き換えて、分かりやすい事例を添えて”別の角度から見た医療”を、一般の方に説明しなければならない。
そのためにも、直向(ひたむき)に自分というものを手がかりに思索し、自身の感じる違和を大切に、他者と向き合っていくつもりである。市立病院で展開されるであろう医療の現実を伝えていきたい。これが、私が福島に来たもうひとつの理由なのかもしれない。

人が人に冷たくなれるのは、その土地に対して人間の出入りが多いときである。流動的な世界では、じっくり人間関係を組み立てることができない。「若い無知な人をじっくり育てる」とか、「老いた非力な人をゆっくり見守る」とか、あるいはまた、「傾いた商店を長い付き合いだから応援する」とか、「地元の特産品や伝統工芸を守ろう」とかいう気にならない。
他人のために何かをするということは、想像するほど簡単なことではない。「人間は、自分で体験したことでないと分からない」と、つぶやいていた患者の言葉が引っ掛かる。支援者というのは、時として、当事者を置いてきぼりにして、自分が主役になろうとすることがある。
だから、こういう状勢のときは、駆け回って何かをするのもいいが、本当はゆっくり話しを聞くところから始めなければならない。兎にも角にもゆっくり訴えを 聞く。聞いて、見て、感じることである。そうした診療はとても地味な作業であり、根気が要る。あまりにも地味なので、「何もしていない」と思われるかもしれないが、新参者の私にできることは、結局、当面、取り敢えずは、人を好きになることぐらいしかなかった。

『from FUKUSHIMA to our future』というようなニュアンスの言葉を、どこかしこで聞く。新しい生活に対して、「だいぶ落ち着いてきた」という声も確かに聞く。しかし、それは、やむを得ない選択肢の中での落ち着きであって、低位水準での安定であった。現実には、その土地に居るものにしか分からない、さまざまな葛藤が繰り広げ られるであろう。
昨年の夏に来たときよりも街の灯りは増えた。ココス以外にも、たくさん飲食店はあった。初めて暮らす潮風の街にも慣れつつある。そして、何よりも小雨の日でも寂しくなくなってきた。生活を立ち上げたばかりではあるが、何とかがんばれそうだ。
この市立病院は、市民にとっての最後の砦であり、終着駅でもあった。そして、復興の拠点であり、シンボルであった。かろうじて津波の難を逃れた、市内で もっとも高い7階建てのこの巨塔は、医師4人、患者0人から奇跡的にも再建を果たしつつある。医療者たちの孤軍奮闘により、充分とはけっして言えないが、 紛れもなく機能は保持されている。
筋萎縮性側索硬化症やパーキンソン病など、進行するだけの疾患を扱う私のような神経内科医は、日々のメンテナンスの仕方を知っている。私は、己のそういう知識を応用して、この街の復興に役立てていくつもりである。

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