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Vol.542 「心臓手術のリスク2%以下」は本当か

医療ガバナンス学会 (2012年7月17日 06:00)


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日本記者クラブ会員
石岡 荘十
2012年7月17日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


「日本外科学会雑誌」が最新号(第113巻 第3号)で、「日本の冠動脈外科は世界標準を超えているか?」という特集記事を掲載している。論文の執筆は、 日本医科大学心臓血管外科部長の落雅美教授。この中で落教授は<わが国の手術成績は欧米と比較してもまったく遜色ない。世界をリードするまでに至ってい る>と高く評価している。が、果たしてそうだろうか。

一般の人にはあまりよく知られていないが、日本胸部外科学会(理事長 坂田隆造京都大学心臓血管外科教授)は1986年から毎年、「年次学術調査」を行っ ている。この調査は、国内で心臓手術の看板を掲げている施設(病院)に対して手術実績について毎年報告を求め、これを集計したものだ。
結果が出ている最新のデータは、2009年のもので、それによると年間の待機的冠動脈バイパス手術数は16,536例だった。「待機的冠動脈バイパス手 術」というのは、患者を診断する中で、充分な検査を行った上で、治療に適したタイミングを見計らって行うバイパス手術のことを指す専門用語で、一刻を争う 緊急心臓手術とは異なり、時間的に比較的余裕のある手術のことをいう。天皇陛下のバイパス心臓手術もこのケースに当たる。
この手術の場合、手術で亡くなった患者は0.8%、術後30日以内に亡くなった患者は1.2%だったとされている。これが緊急の心臓手術ではないバイパス手術の患者の死亡率は2.0%(=0.8+1.2)以下だとする根拠になっている。
落教授は、このデータは<調査対象となった心臓外科を行っている施設の98%を網羅しており、わが国全体の成績と考えてよい>と胸を張っているのだが、このデータの採り方にはいくつかの疑義がある。

まず、日本胸部外科学会によるとこの年、調査対象となった施設は国内の全手術施設912ヵ所(厚生労働省統計)のうち601施設(65%)に過ぎず、この うち回答を寄せたところは586ヵ所だった。つまり、調査対象に対しての回答率は、落教授がいうように98%にのぼっているが、国内の全施設(912ヵ 所)からいうと、回答した施設586ヵ所は、64%に過ぎなかったことになる。調査の対象にもならず、回答を拒否した施設を合わせると4割近い手術実績は 調査データに反映されていないことになる。これではとても、<わが国全体の成績>とはいえないのではないか。これが第1の疑問である。
第2の疑問は、調査対象になった施設の名前が明らかにされていないという問題だ。
この調査は施設の「任意の自己申告による」結果であり、外部に対しては1万数千例の基礎数字である施設ごとの数字は公表されていない。
「施設の名前を出さないという条件でないと、データを改ざんして報告する施設があることを考えたからではないのか。白紙解答を寄せたところの手術数はゼロ の施設がほとんどです」(宇都宮記念病院・木曽一誠医師)という見方もある。施設の名前が隠されているため、一つひとつの施設の手術の実態は不明である。
施設名を明らかにしない理由について、同学会は、「半数以上の施設が名前の公表に賛同しなかったため」だという。しかし、無回答、または施設名の公表に賛 同しなかった施設には、実名が明らかにできない何か”不都合な真実”、例えば、死亡率が異常に高くてとても公表できないところだと勘ぐられても仕方ないだ ろう。だとすれば、同学会の調査結果はとても信頼性の高いデータだとはいえないのではないか。

では落教授が比較の対象としている欧米での手術実績調査はどのように行われているのか。
例えば、アメリカではほとんどの州ですべての手術について、病院名、執刀医一人ひとりの成績を含めて詳細なデータを公開している。
「ニューヨーク州では第三者機関が手術実績の登録を求め、術後は抜き打ち追跡を行いますので嘘のつきようもありません。術者(執刀医)ごとの成績も出ます から(成績の)悪い先生のところには誰も行かず結局田舎に追いやられることになります。田舎では日本と同じ、施設自己申告の成績開示が行われている州があ りますが米国外科医はそれを信じてはいません。外科医自身が信じないのですから患者さんは勿論信じません」(金沢大学・渡邊剛教授)。渡邊教授は「胸部外 科学会が施設後との成績を開示したのは大英断でしょうが、施設名がないのであれば全く意味のない公表です。患者さんにとってどこに行けばいいのか分からな いからです」と私に感想メールを寄せている。
日米の手術実績調査を較べると、アメリカが患者に必要な情報を提供することを第一の狙いとしているのに対して、日本では、施設名の公表で多くの施設が立ち行かなくなるかもしれないリスクを回避する、つまり身内の利益を最優先に考えているのではないかという印象を与える。
調査内容では、アメリカの冠動脈バイパス手術(2009年 人工心肺を使った場合)の死亡率は2.31%となっている。確かに、これだけを見れば、手術成 績は日本の方がいいように見えるが、データの信頼性からいうと、アメリカの調査は杜撰な日本調査方法とは比べものにならない精密な調査であり、この両者を 比較すること自体、意味がない。

日本胸部外科学会は、何のために永年に亘って調査を行っているのか。
同学会の定款では「胸部外科学の学術研究に関する事業を通して、国民の医療福祉に寄与することを目的とする」(第3条)としている。さらに坂田隆造理事長は昨年、理事長就任の挨拶の中でこう述べている。
「胸部外科学と医療技術の発展の美名のもとに、医療安全・倫理が置きざりにされてはなりません。医学は学問としての、あるいは技術としての(中略)成果が国民の健康と福祉に寄与するかどうかを不断に検証すべき宿命をおっています」と。
ならば、調査データを業界が私物化することは許されない。国民と共有すべきだ。現在の調査方法は日本の胸部外科の外科に実態について、業界にとって都合の悪い情報は隠す。”いいとこどり”のデータといわれても仕方ないだろう。
こんなあやふやなデータを根拠に、権威のある「日本外科学会雑誌」で、まるで日本の外科手術水準が世界をリードするかのような論文を掲載することは、国 民、特に心臓病の予備軍ともいえる人びとをミスリードすることになるのではないか、と私は怖れる。落論文が”患者予備軍”の方々の眼に触れないことを願う ばかりである。

日本胸部外科学会は、近い将来、手術実績の報告を「任意」ではなく、「義務付ける」といっているが、一つひとつの施設名前や症例数は、相変わらず明らかにしない方針だという。これでは、日本の心臓手術成績を正しく評価する根拠とはなりえない。
医療の世界では、近年、EBMという考え方が強く求められている。EBMとはEvidence Based Medicine、つまり、「医療は医学的に根拠のあるものでなければならない」という考え方だ。科学者でもある医師は当然、医療現場でだけでなく、研究 論文の中でも根拠のあるデータに基づいて主張が展開されなければならない。

日本胸部外科学会の会員は7,800人、また「日本外科学会雑誌」を出している日本外科学会の会員は39,500人(医師100%)。それだけにその動向や会員の論文は、医学界に影響を与えるだけでなく、同時にその存在は社会的にも大きな責任を負う。
このところ、例えば電力各社が批判されているのは、充分な情報開示と責任を果たさず、国とグルになって安全神話に国民を巻き込んだことだと厳しく批判され ている。同じように日本胸部外科学会が一般社会の信頼を回復するためには、充分な情報の開示と説明責任を果たすことが必須だ。
1986年、「学術調査」が始まって四半世紀になるが、このままでは100年待っても社会的な責任を果たすことは出来ないだろう。

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