紹介:ボストンはアメリカ東北部マサチューセッツ州の州都で、建国の地とし
ての伝統を感じさせるとともに、革新的でラディカルな側面を持ち合わせている
独特な街です。また、近郊も含めると単科・総合大学が100校くらいあり、世界
中から研究者が集まってきています。そんなボストンから、保健医療や生活に関
する話題をお届けします。
全米初・マサチューセッツの州民皆保険
1回目 ヘルスケア改革法の登場
○無保険という問題
現在アメリカには4600万人もの無保険者がいるといわれています。そしてたと
え民間保険に入っていたとしても、保険会社が治療の適用を認めなければ保険が
下りないため、充分な治療を受けられない人、高額治療費の返済に苦しむ人も沢
山います。マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』(2007年公開)では、そのよ
うな人々の悲惨な姿が描かれていました。
アメリカでは連邦(国)として、人々に健康保険を持つよう義務付けてはおら
ず、原則として公的健康保険はありません。そのため人々は、部分的に保険料を
負担してくれる一部の企業に属していない限り、保険料が高いのに支払いが限ら
れている民間保険に加入するか、無保険者でいるしかありません。65歳以上の高
齢者にはメディケア、低所得者にはメディケイドという公的保健サービスがあり
ます。しかし、年齢が65歳に達していない人や、低所得者と認定されないまでも
保険料を払うほど金銭的に余裕のない人も多く、深刻な問題となっています。
近年アメリカでは、所得や人種・民族や社会的階層によって生じる健康状態の
格差が、「健康格差Health Disparity」として社会問題化しています。白人と比
較して、アフリカ系アメリカ人、ネイティブのアメリカ人、ラテン系アメリカ人
などマイノリティは、乳児死亡率が高く、がんの発生率が高く、糖尿病の進行が
早く、平均余命が短いといったことが、疫学的研究から次々と明らかになってき
たのです。
マイノリティの人々は概して所得が低く、無保険者である率が高く、たとえ体
に不調を感じていたとしても、よほどひどくなるまで医療機関にかかることがで
きません。また早期に診断が付いたとしても、費用が高額なため十分な治療や投
薬が受けられないこともあります。
アメリカではこうした無保険に関わる諸問題を解消するため、公的健康保険の
創設を望む声が高まっています。2008年の大統領選で民主党のバラク・オバマが
快勝し、医療へのアクセスを高めるために連邦レベルでの施策に取り組むことが
表明されました。このことは、公的健康保険の実現に弾みをつけたといわれてい
ます。
○ヘルスケア改革法の成立
こうしたアメリカの状況の中で州レベルに目を向けてみると、マサチューセッ
ツ州では2006年4月12日に、「マサチューセッツ・ヘルスケア改革法
Massachusetts Health Care Reform Law」(以下、改革法)の「チャプター 58
手ごろな料金で、質が高く、納得のいく医療ケアへのアクセスを提供する法An
Act Providing Access to Affordable, Quality, Accountable Health Care」を
成立させています。これは全州民に健康保険を持つことを義務付けた法律です。
すなわちマサチューセッツ州内は、日本と同じように原則として皆保険制度なの
です。この法律の成立は20年に及ぶ関係者の働きかけの賜物であり、全米で初の
試みとして歴史的快挙と評価されています。
改革法では、皆保険を義務とするのと同時に、メディケイド(マサチューセッ
ツ州では、メディケイドにマスヘルスMassHealthという独特の名を与えています)
には該当しないものの、保険料を払えるほどではない低所得者に対する州の助成
についても定めています。具体的には連邦貧困レベル(FPL:Federal Poverty
Level。年間で個人では約100万円、4人家族では約200万円)以下の州民には、保
険料の全額が補助されます。そして、連邦貧困レベルの3倍(約600万円)までの
人々には収入に応じて部分的な助成がされます。その他にも改革法では、子ども
を持つ親に対するメディケイドの拡充と整備、質の高い医療ケアが適正な価格で
行われることなどが定められています。
改革法の施行は2007年7月1日からでしたが、2005年に約55万人いた州内の無保
険者は、2008年には11万人にまで減りました。現在も無保険者が新たに保険を持
つようにさまざまな働きかけが続けられています。
○改革法成立の背景
それでは、この改革法が議会を通過した背景はどういうものだったのでしょう
か。さまざまな要因が挙げられていますが、決め手のひとつは州の予算に関わる
経済的理由だったといわれています。前に、健康保険を持っていない人々は、体
調が悪くなったとしても、よほど重症化しないと医療機関に行くことはないと書
きましたが、逆にそうした人々は重症化してからER(緊急救命室)に駆け込ん
でいるのです。
アメリカでは医療機関が患者の診療を拒否することはできません。従って、た
とえ無保険で支払い能力のない患者でも、医療機関を訪ねてきたら受け入れざる
を得ません。そしてかかった費用は医療機関の負担となってしまいます。マサチュー
セッツの場合は、無保険者ケア基金(またの名を「無料ケア基金」)というのが
あり、医療機関の負担の一部を弁済しています。この基金の年間予算は年々増え
続けており、近年では約7億円に上っています。
そこで考えられたのが、すべての州民には健康保険を持つ義務があるという法
律を定めれば、無保険者に対する州の支出が抑えられるという解決案なのです。
MITの経済学者の推計でも、「無料ケア基金」として計上されている予算を使
えば、別の財源を投入したり増税したりすることなしに、すべての州民が健康保
険を持てるようになることが示されました。
当時のマサチューセッツ知事であるミット・ロムニーは、改革法が成立する前
日のウォールストリート・ジャーナルに、以下のような旨の感想を寄せています。
州知事になってまだ数週間しかたっていないころ、友人の大手小売店COEに、
「もし本当に人々の助けとなるようなことがしたいなら、みんなが健康保険を持
てるような方法を考えたまえ」と言われ、できるという信念を持って取り組んで
きた、と。改革法成立の背景には、州知事の強力なリーダーシップもあったこと
は間違いないでしょう。
○コネクターの働き
改革法の施行で、全州民皆保険制度がスタートした訳ですが、無保険者の新規
保険加入を推進してきたのは「コモンウェルス健康保険コネクター局
Commonwealth Health Insurance Connector Authority」(コネクターと称され
る)という独立公共機関です。コネクターが対象としているのは、1) メディケ
イドが適用されない連邦貧困レベル3倍までの低所得者、2) 無職者、パートタイ
ム労働者、複数の事業所で働く者、個人事業者、50人以下の小規模事業所の労働
者などです。
1) に該当する人々に対してコネクターは、「コモンウェルス・ケア」といわ
れる健康保険を持つための助成をしています。連邦貧困レベル150%(年間収入
が150万円以下)までの人々は、保険料無料で「コモンウェルス・ケア」に加入
することができます。そして医療機関が必要となったときは、ディダクタブル
(保険が適応されず、自費で払わなくてはならない治療ケア。範囲は契約する保
険プランによって異なります)なしで、わずかな支払いをするだけで利用できま
す。この保険は、薬に関しても適用され、連邦貧困レベル100%以下の場合には歯
科も適用となります。
連邦貧困レベルが150-300%の人たちは、収入に応じて1カ月で4千円から1万
円くらいの保険料を払います。やはりディダクタブルなしで、手頃な料金で医療
を受けられます。ただし、歯科治療はカバーされていません。
2) に該当する人々に対してコネクターは、「コモンウェルス・チョイス」と
いわれる、家族構成や業務形態、必要と思われる医療サービスなど、それぞれの
人が自分にあった健康保険を選択できるようなプランを提示しています。「コモ
ンウェルス・チョイス」の保険は、ブルークロス・ブルーシールド、ハーバード
・ピルグリム・ヘルスケア、タフツ・ヘルスプランといった「ブランド・ネーム」
のものばかりです。コネクターは、保険プランが適正な価格で標準的な質の医療
ケアを提供できるかどうかをチェックした上で、お墨付きを与えているのです。
コネクターのエクゼクティブ・ディレクターのジョン・キングズデールは、
2009年7月からスタートする新年度会計から保険料が下がると報告しています。
アメリカ全体で急上昇を続けている保険料のことを鑑みれば、コネクターの監視
の下で、保険料とプランが適正に提供されていることがうかがえます。
次回は、マサチューセッツ・ヘルスケア改革法がどのように適用され、どのよ
うな影響をもたらしたか、ということについてご紹介します。
<参考文献>
・健康格差について
Kawachi, Ichiro and Kennedy, Bruce, 2002, The Health of Nations, The New Press, New York.
・マサチューセッツ・ヘルスケア改革法の概要について
http://www.mass.gov/legis/summary.pdf
・2005年までの無保険者ケア基金の利用・財政状況について
http://www.mass.gov/Eeohhs2/docs/dhcfp/p/ucp/pfy05_utilization.doc
・コモンウェルス健康保険コネクター局について
http://www.mahealthconnector.org/portal/site/connector/menuitem.a6bd9ea72595da2ea87b5f57c6398041/?fiShown=default
略歴:細田満和子(ほそだ みわこ)
ハーバード公衆衛生大学院リサーチ・フェロー。博士(社会学)。1992年東京
大学文学部社会学科卒業。同大学大学院修士・博士課程を経て、02年から05年ま
で日本学術振興会特別研究員。05年から08年までコロンビア大学メイルマン公衆
衛生校アソシエイト。08年9月より現職。主著に『「チーム医療」の理念と現実』
(日本看護協会出版会)、『脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学』(青海
社)。