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Vol.661 倫敦通信(第3回)~医療格差とリスク・コミュニケーション

医療ガバナンス学会 (2012年11月23日 06:00)


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星槎大学客員研究員
インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院客員研究員
越智 小枝(おち さえ)
2012年11月23日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


先日、インペリアル・カレッジの公衆衛生大学院に拠点を置くSmall Area Health Statistics Unit (SAHSU)(1) の25周年記念カンファレンスに出席させていただきました。

SAHSUとは、小エリア内での暴露因子や健康アウトカムの分布を細かく地図上にプロットする疫学で、例えば土壌汚染と健康被害、今の日本でいえば原子力 発電所からの距離と放射線被害などの研究(もし行われていれば、ですが)もこれに当たります。英国では国民の健康データを匿名化し、住所コード別に分類し た上で研究者が共有する、というシステムが確立しているため、多くの研究者がこのデータを利用して研究を行う事ができるのです。今回のポスター発表でも、 「地域の緑地面積と自殺率は相関するか」「ロンドン市内のA地点からB地点に自転車で行くために、最短距離を取る場合と、一番クリーンな道を行く場合、所 要時間と公害の暴露量にどのくらい差があるか」など、若手研究者によるユニークな報告が多々なされていました。

このSAHSUが発展するきっかけとなったのは1980年に当時の保健省の役人、サー・ダグラス・ブラックが記した「ブラック・レポート」(2)という書 簡です。この中でブラックは、「健康格差の一番の要因は経済格差であるのではないか」ことを、疫学データを元に述べています。

このレポートに基づき、ある原子力発電所の周囲で小児・若年者の白血病に差が出るのか、という研究を始めたのが、SAHSUが設立されるきっかけのようで す。当初のトップはジェフリー・ローズ教授。社会疫学の祖ともいえる方で、日本でも「予防医学のストラテジー:生活習慣病対策と健康増進(1998年)」 という訳本が出版されています。(余談ですがこのジェフリー・ローズの本は、現在ハーバード大学公衆衛生大学院の教授であるイチロー・カワチ先生の座右の 書でもあるそうで、多くの疫学研究者に影響を与えています。)その後SAHSUの活動はヨーロッパ中に広がり、今回のカンファランスでも計28か国からの 参加者が集まりました。

もちろんSAHSUだけではないのですが、英国での健康の地域格差と経済格差への取り組みは、20年以上の歴史があります。このような歴史ある疫学調査の 成果の一部を、「Health Inequality  Indicator」というウェブサイト(3)で見ることができます。このサイトでは、地域ごと(ロンドンでは更に小地区ごと)の平均寿命・貧困率・およ び貧困層と富裕層における平均寿命の格差が地図上にプロットされ、簡単な操作で各地地域のデータを見ることができます。ちょっと偏執的にすらみえるデータ です。

例えば、2010年の女性の平均寿命の最低はマンチェスターの79歳、最高はロンドン・チェルシー地域の89.3歳と、地域格差は10.3歳です。しかし これを「同じ地域内」の「経済格差による」格差で見ると、一番格差の大きい所はダーリントンの11.6歳となります。すなわち、地域格差よりも経済格差が 平均寿命に与える影響の方がより大きい、ともいえます。このデータに基づき、現在の政策や研究は貧富による医療格差をなくすこと、特に貧困層における喫 煙・飲酒などの生活因子の改善を優先させている様子です。

このように、詳細なデータの蓄積は政策へも着実に影響を及ぼしています。(念のため色々な人に聞いてみたのですが、政府主導の当て込み研究の可能性はあり 得ない、と言われてしまいました。)今回のカンファランスでも最後のセッションは「疫学データが政策や大衆に与える影響とその役割」で締めくくられてお り、演者は皆、アカデミアの力で政治を変えるという自信と、データが誤った政策に利用されないための責任とを強く感じているようでした。
この中で印象的だったのは、「Evidence-based policy(科学的根拠に基づいた政治)」ではなく「Evidence-informed policy(科学的根拠に裏付けされた政治)」なのだ、と、科学と政治の性質の違いを研究者が把握していることでした。
1987年、SAHSU設立時の文書にも既に
・正しい調査を行い、報告についての助言も行うこと
・疫学調査の方法論だけでなく、分析・解釈の方法論も発展させること
と、リスク・コミュニケーションの重要性が織り込まれていることからも、彼らの政治に対する責任感が分かります。

英国を徒にほめたたえる気は有りませんが、日本ではブラック・レポートの3年後に「医療亡国論」が発表されます。現在著者を槍玉に挙げ批判する方も多いの ですが、当時これに対した専門家集団の反応と責任感にも、英国とは大きな差があったのではないか、と思わざるをえません。

しかし昨年の震災以降、これまで看過されてきた東北地方の医療格差・福祉格差の問題が明るみに出、これをデータ化しようという動きが活発化したのではない かと感じます。東大医科研の児玉有子氏のまとめた看護師数の格差や、東大国際保健政策学教室の杉本亜美奈氏の理学療法士の格差のデータなどはこのような時 流のはしりかもしれません。

日本は元々、結核対策・公害対策などの分野で疫学研究者が大きな成功を収めた歴史があります。現在の長寿国という地位も、当時の努力なくしては成り立たな かったでしょう。今回の震災を機に、日本の研究者の間でも情報の共有を前提とした透明性の高い研究や、報道機関とも協力し合った信頼性の高いリスク・コ ミュニケーションの方法が見直されれば良いな、と考えています。

参考文献
(1)SAHSU http://www.sahsu.org/
(2)Black Report http://www.sochealth.co.uk/public-health-and-wellbeing/poverty-and-inequality/the-black-report-1980/
(3)Health Inequalities Indicator http://www.apho.org.uk/resource/view.aspx?RID=110504

略歴:越智小枝(おち さえ)
星槎大学客員研究員、インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院客員研究員。1999年東京医科歯科大学医学部医学科卒業。国保旭中央病院で研修後、 2002年東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科入局。医学博士を取得後、2007年より東京都立墨東病院リウマチ膠原病科医院・医長を経て、2011年 10月インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に入学、2012年9月卒業・MPH取得後、現職。リウマチ専門医、日本体育協会認定スポーツ医。剣 道6段、元・剣道世界大会強化合宿帯同医・三菱武道大会救護医。留学の決まった直後に東日本大震災に遭い、現在は日本の被災地を度々訪問しつつ英国の災害 研究部門との橋渡しを目指し活動を行っている。

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