医療ガバナンス学会 (2012年12月22日 06:00)
●刑法211条業務上過失致死傷罪
刑法は、個人、社会、国家にとって有用な価値を守るために、あるいは応報のために、個人を、その責任ゆえに罰する体系である。1908年に施行された古めかしいもので、本格的な改正は行われていない。
医療など専門領域の安全を守るために、刑法は211条の業務上過失致死傷罪で対処してきた。「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者」を罰する 規定である。「業務上必要な注意」を怠ったことを証明するには、予見義務違反、結果回避義務違反を証明すればそれでよい。医療は人間を扱うので、過誤は時 として傷害や死に結びつく。医療の結果が悪い時に、予見義務違反、結果回避義務違反を言い立てることはたやすい。
かつて、世界中で、医療過誤はあってはならないことで、処罰すべき対象だった。忌み嫌うべきものであり、ことさら明らかにすべきものではなかった。このた め、科学的に研究されてこなかった。1999年にアメリカで出版された『人は誰でも間違える』が、世界の流れを変えた。人間は間違いやすい動物である。注 意喚起や罰則の強化では、エラーは防げない。システムを改善することで対応しようとする動きが大きくなった。エラーの頻度を下げる、エラーの連鎖を断ち切 る、さらに、エラーが起きても被害が最小になるようにする。
刑法211条は、医療のみならず、航空、運輸、工業など社会の広汎な分野で問題になっている。私は、「社会と医療の軋轢」で大野病院事件の一審判決を取り上げ、刑法211条を批判した(1)。
大野病院事件の判決では、注意義務違反(過失)がなかったと判断されたが、実際に、過失があったときに、刑罰を科すことに正当な理由があるのであろうか。
司法は医療に関する刑事事件について、医療全体の過失の分布状況からの検討をしていない。法曹は、刑法の論理と過去の判例しか研究しない。刑事事件になっ た医療裁判の資料がすべて公表されているわけではない。最高裁の事務総局が重要と判断した判決文だけを公表している。公表された判決文のみを材料にして、 法律の解釈の研究をしてきた。
医療全体の中で、有害事象がどのようなものか、有害事象のなかった医療にどの程度過失があるのかを検討する必要がある。実際、日本医療機能評価機構の医療 事故防止事業部にはヒヤリハット事例(過失はあったが身体的被害にはつながらなかった事例)が、1病院、1カ月あたり60~80件報告されている。医療現 場には、多数の過失があり、多くは身体的被害が生じていない。たまたま身体的被害が生じたか否かが犯罪の成否を画することになれば、「悪い者」ではなく 「運の悪い者」を罰することになり、刑法は権威と社会的効用を失う。せめて、過失を類型化して、医師や看護師が前もって犯罪に相当すると判断できるもの に、刑罰の適用を限定する必要がある。日本の刑事司法は、伝統的に、被疑者を監禁して、精神的拷問ともいえるような長時間の取り調べで自白を強要してき た。世界では人権侵害と思われている方法で得られた自白を、法廷における正当な証拠としている。刑法211条の命ずるままに、安易に医師や看護師を刑事処 罰すると、医療を破壊することになる。
21世紀に入って以後、現実の認識を重視するヒューマンファクター工学の考え方に、あるべき論で刑罰を科そうとする刑事司法が対抗できず、医療者の過失犯 罪に対して及び腰になっている。裁判官も、刑法211条がある以上、裁判所に持ち込まれると有罪にせざるを得ない。刑法211条は明らかに現代社会の実情 から乖離している。刑事司法は、刑法35条の「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」という規定を活用すべきではないか。
●医療と法
医療と法の間の矛盾は原理的であり解消できるようなものではない(1、2)。医療を含めて、経済、学術、テクノロジーなどの専門分野は、社会システムとし て、それぞれ世界的に発展して部分社会を形成し、その内部で独自の正しさを体系として提示し、それを日々更新している(3)。社会システムの作動は閉鎖的 であり、その内部と外部を峻別する(4)。それぞれのシステムは、作動の閉鎖性によって自由を得て独自に発展する。
社会システムはコミュニケーションで作動する。ルーマンはコミュニケーションを支える予期に注目し、社会システムを、規範的予期類型(法、政治、行政、メ ディアなど)と認知的予期類型(経済、学術、テクノロジー、医療など)に大別した(3)。規範的予期類型は、道徳を掲げて徳目を定め、内的確信・制裁手 段・合意によって支えられる。違背に対し、あらかじめ持っている規範にあわせて相手を変えようとする。違背にあって自ら学習しない。これに対し、認知的予 期類型では知識・技術を増やし続ける。ものごとがうまく運ばないときに、学習して自らを変えようとする。
政治における権力、経済における金銭、学問における業績、高速鉄道の正確な運営の獲得や喪失は、それぞれのシステムの作動の中で決められていく。システム間の齟齬はシステムそのものの成り立ちに起因するのである。
法社会学者トイブナーは、2005年日本におけるドイツ年記念法学集会での基調講演で、国家間の政策をめぐる衝突よりも、社会分野ごとの合理性の衝突の解 決が世界にとって大きな意味をもつようになってきたと主張した(5)。もはや、国民国家で形成されたような裁判所の審級制度による規範の序列や、精緻な規 範の整合性は望めない。さまざまな国際的な局面で、人権、環境、経済はしばしば対立するが、全体を統一的な概念で秩序付けることは不可能である。法がすべ ての部分社会を統括するような大体系を提示できるはずはない。衝突したときには、破壊的影響を避け、相互観察で共存を図らざるをえない。法が医療の活動と 進歩に対し破壊的影響を及ぼさないようにするには、法が関わる部分を医療の外縁に限定して、その判断が医療全体を覆わないようにする必要がある。
●法的解決は対立を深め、病院の自律的努力を阻害する
2009年、私と井上は以下のような院内事故調査委員会の理念を提案した(6)。
「当該医療機関及びその医療従事者の医療事故や有害事象についての科学的認識をめぐる自律性の確立と機能の向上」
医療をより良くするには、病院の自律的努力が優先されるべきである。個々の病院が真摯に事故を振り返ったり、患者に向き合ったりしなければ、到底、病院の 機能が向上することはないし、患者の信頼は得られない。この努力は、院内事故調査委員会という名称にこだわる必要はない。院内事故調査委員会機能、すなわ ち、病院の機能を向上させるための自律的努力が重要なのである。報告書は必ずしも作成する必要はない。かえって邪魔になる可能性がある。院内事故調査委員 会で報告書を確定することは、事故への柔軟な対応と、継続的な検討による安全対策の進歩を阻害しがちである。
法的考え方による事故調査委員会と報告書の作成は、かえって対立を深める。報告書の作成作業そのものが争いになる。例えば、先に述べた三井記念病院事件の 2学会合同特別調査委員会について、利害をめぐる争いの場でもあったとする見方を否定するのは難しい。利害が絡むとすれば、弁護士は利益相反に注意しなけ ればならない。争いならば、争いとして、公正を担保するために、法廷で扱うべきだろう。
病院としての事故への考え方や安全対策は、時間と共に進化する。ルーマンによれば、規範的予期類型である法や行政は、合意の得やすい正義を声高に唱えるこ とで制度を作る。声高に唱えられる規範を基準に、違背に対して自ら学習することなく相手に変われと命ずるための制度である。このような制度は、現実から乖 離したり、柔軟性を欠いたりするため、ときとして、問題を解決することなく、事態を悪化させ、対立を深める。一方、認知的予期類型である医療は、自ら学習 し自らの問題解決能力を高める。認知的予期類型は、将来像が見えにくいため合意を得にくいが、非規範的で適応的であるため、価値が錯綜する大きく複雑な世 界での問題解決に優れる。
院内事故調査委員会機能は、個々の病院システムの中核部分であり、意思決定は経営そのものである。決定は熟慮と覚悟を必要とし、結果には責任を伴う。外部が支配すべきものではない。
ただし、調査に慣れていない病院が気軽に利用できる事故調査援助業者はあっても良い。コンサルタントとして金銭を支払って雇えばよい。行政が判断や認識に 権威を付与し、「正しい安全対策」を個別病院に強要してはならない。多様な業者が並立することが望ましい。その中から適切な業者を選択すればよい。
病院は極めて多様であり、それぞれの病院の状況で、優先されるべき安全対策は異なる。現場の実情からのフィードバックで安全対策を持続的に修正しないと、安全対策が適切なものにならない。
実情からのフィードバックによる制度の柔軟な運用は、規範的予期類型の最も苦手とするところである。千葉県では医療提供体制が混迷を深めつつあるが、これ は、地域医療計画をはじめ厚労省の政策の破綻に起因する(7、8)。厚労省は「都道府県に対し、PDCAサイクル(Plan-Do-Check-Act 計画-実行-評価-改善)を動かすことで、地域ごとに改善努力を重ねるよう、繰り返し推奨している。しかし、厚労省自身について、病床規制の弊害を含め て、PDCAサイクルのCとA、すなわち、これまでの施策の評価とそれに基づく改善は記載されていない。これは無理からぬことで、厚労省、都道府県を含め て、行政は、法に基づいて行動しなければならない。しかも、無謬を前提とする。事実の認識に基づいて、安易に改善を図ることは許されていない。」(9)
●安全対策に振り向けられる労力は有限
行政にもできることはある。医療安全のための、全国的な医療事故の報告制度は有用である。ただし匿名化が必須条件である。責任追及と完全に切り離されると、情報が集まり易くなり、議論の様相が一変する。多様な可能性が議論される。
似た事故が多数収集されると、全体の中での事故の様相が見えてくる。無理に結論を出すことなく、課題が未来に向かって維持され、議論が継続する。こうした 活動は、日本医療機能評価機構の医療事故防止事業部で2004年以来行われてきた。多数の事例が収集され、一部については調査されている。年報、3カ月ご との報告書、月に一度のペースの安全情報が発出されている。日本医療機能評価機構は、現場の判断のバックグラウンドとなるデータの収集と提示、すなわち、 認知に徹している限りでは有益である。
安全対策は全体のバランスを見ながら優先順位に従って実施すべきものである。個別事例の検討で安全対策を論ずると、感情の影響を排除し切れず、安全対策全 体が歪む。人間の活動能力には限界がある。労力をどう振り分けると、全体としての安全性が最も高まるのか考える必要がある。「医療事故をゼロにするために あらゆる努力をする」というのは規範的言辞であり、非現実的である。事故をゼロにはできないし、コストが大きく効果が小さい対策は、現場を疲弊させて有効 な安全対策の邪魔になり、逆に安全を損ねる。
行政主導の機関が医療事故を網羅的に調査して、個別事例について権威を付与された判断を下すようになれば、病院は患者ではなく行政を見るようになる。行政 への服従を見えるようにすることが、病院を改善することと混同されかねない。規範を基本とする法システムである行政が、認知を基本とする医療全体を支配す ると、医療の機能が損なわれる。
行政主導の医療事故調が創設されたとしても、刑法、刑事訴訟法、民法、民事訴訟法の変更は想定されていない。医療に対する警察・検察の捜査、刑事裁判、民 事裁判は法律上何ら変更されない。生老病死を運命づけられた人間が永遠の健康を望む限り、医療について全ての人が満足できる状況になることはない。医学を 含む科学は、認識・技術であり規範ではない。争いを無理やり結着させたり、罪を宣告できたりするような性質のものではない。医療事故調という危うい中央組 織を作るのではなく、個々の医療機関で対応できない問題だけを、従来通り、刑事裁判、民事裁判で扱えばよい。
【文献】
1.小松秀樹:第6章 社会と医療の軋轢.宇沢弘文,鴨下重彦編「社会的共通資本としての医療」pp169-197 , 東大出版会, 2010.
2. 小松秀樹:司法と医療 言語論理体系の齟齬. ジュリスト, 1346, 2-6, 2007.12.
3.ニクラス・ルーマン: 世界社会 Soziologische Aufklärung 2, Opladen, 1975. (村上淳一訳・桐蔭横浜大学法科大学院平成16年度教材
4.ニクラス・ルーマン: 社会の教育システム. 東大出版会, 東京, 2004.(村上淳一訳)
5.グンター・トイブナー(村上淳一訳):グローバル化時代における法の役割変化 各種のグローバルな法レジームの分立化・民間憲法化・ネット化. ハンス・ペーター・マルチュケ. 村上淳一(編):グローバル化と法, 3pp, 信山社, 東京, 2006.
6.小松秀樹, 井上清成:「院内事故調査委員会」についての論点と考え方. 医学のあゆみ, 230, 313-320, 2009.
7.小松秀樹:病床規制の問題1:千葉県の病床配分と医療危機. MRIC by 医療ガバナンス学会. メールマガジン; Vol.539, 2012年7月11日. http://medg.jp/mt/2012/07/vol5391.html#more
8.小松秀樹:病床規制の問題3:誘発された看護師引き抜き合戦. MRIC by 医療ガバナンス学会. メールマガジン; Vol.566, 2012年8月9日. http://medg.jp/mt/2012/08/vol5663.html#more
9.小松秀樹:病床規制の問題2:厚労省の矛盾. MRIC by 医療ガバナンス学会. メールマガジン; Vol.540, 2012年7月12日. http://medg.jp/mt/2012/07/vol5402.html