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Vol.25  『のぼうの城』に思う

医療ガバナンス学会 (2013年1月26日 06:00)


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この原稿は「医療タイムス 2012年11月12日」に加筆したものです

東京大学医科学研究所
先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門
特任教授 上 昌広
2013年1月26日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


昨年11月2日、『のぼうの城』という映画が封切られた。戦国時代末期、忍城(現在の埼玉県行田市)に対する水攻めを描いた作品である。攻めての総大将は 石田三成。一方、籠城する城主は北条配下の成田長親。領民からは「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼び慕われていた。この「のぼう様」が石田三成に一 杯食わせる。
主人公を演じるのは、今をときめく能楽師の野村萬齋。大いに話題になっている。テレビ、新聞、雑誌でご覧になったかたも多いだろう。

実は、筆者は6年前から週に1回、行田市内の中核医療機関である行田総合病院で外来診療を担当している。行田市には思い入れがある。
埼玉県の医師不足は深刻は、今や知らない人はいない。人口1000人当たりの医師数は1.4人。全国最下位で、南米チリと同レベルである。行田市が属する利根・二次医療圏に限れば1.1人。紛争が相次ぐ、中東と変わらない。

現地で診察をしていても、医師不足を痛感する。筆者が専門とする血液悪性腫瘍の場合、常勤の専門医がいないため、抗がん治療を要する患者は他院に紹介する ことが多い。深谷赤十字病院、埼玉医大、自治医大さいたま医療センター、さいたま赤十字病院などが紹介先の候補となるが、満床のことが多く、東京の専門病 院にお願いするのも珍しくない。
都内と行田市で診療していると、「これが同じ国か」と思うことがある。厚労省は「国民皆保険堅持」をうたうが、行田市では国民皆保険は実質的に崩壊している。なぜ、行田市は、こんなに酷い目にあっているのだろうか。

実は、戦国時代から幕末まで行田は地域の中核だった。例えば、幕末、忍藩の所領は10万石で、埼玉では最大の藩だった。藩主は譜代の松平氏。祖先は徳川家 康が武田勝頼と戦ったとき、長篠城を死守した奥平正信である。名門の家柄だ。藩内には進修館という教育機関があり、多くの有為な人材を輩出したという。
ちなみに、関東で忍藩より大きな藩は、水戸藩(徳川家、35万石)、佐倉藩(堀田家、11万石)、前橋藩(松平家、17万石)、小田原藩(大久保家、11万石)だけだ。前橋藩を除き、幕末史にその名を刻む。

一方、幕末の忍藩の対応は情けなかった。鳥羽伏見の戦いには、幕軍の後詰めとして参戦したが、幕軍惨敗後は抵抗することなく敗走。新政府軍が関東に進軍し てくると、戦わずして恭順の意を示した。御殿医久河道伯が新政府を罵倒する歌を吟じたところ、斬首に処したくらいだ。その後は新政府軍に付き従い、宇都 宮、白河、二本松、会津と転戦した(中島繁雄、『大名の日本地図』、文春新書)。「のぼう様」の活躍と対照的だ。
筆者は、幕末の忍藩の対応が今にいたるまで影響していると感じる。明治以降、足袋の生産で一時的に栄えるも、行田市は「顔のない地方都市」と没落していく。

なぜ、こうなったのか。それは地域に高等教育機関がないからだ。ウィキペディアの「出身有名人」に名が挙がるのは、わずか11名である。畢竟、都市とは人だ。人材が尽きれば、都市も息絶える。
近代日本の骨格は明治から戦前に完成した。主導したのは薩長を中心とした官軍だ。彼らの眼中に忍藩はなかったのだろう。天は自ら助くる者を助く。
埼玉県の医療、いや社会は崩壊しつつある。我々はどうすべきか。歴史から学ぶ時ではなかろうか。

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