医療ガバナンス学会 (2013年3月11日 06:00)
昨年のいま頃、私は「福島の医療現場へ」と題した手記を、このインターネット・メディアに寄稿した。それから、――言葉にすれば、シンプルな一言で済んでしまうのだが――「あっ」と言う間に1年が経過した。
当初の手記を改めて読み返してみると、そのなかで私は「己のなかにも、まだまだチャレンジグでエキサイティングな部分が残されているのか、被災地の人たち とのネットワークとはどういうものなのか、医療を中心とする街の復興には何が必要なのか、感動や生きがいを味わうことができて、どうすればそれを持続させ ることができるのか、そして、そのためにはどのように個性を引き出していけばよいのか、私はそういうことを体験したくなった」というようなことを、縷々 語っていた。
この1年間、私はあまり思い詰めることなしに、この地に赴任してきたような記述を繰り返してきたが、でもやはり、こうした文章を残していたことを考える と、この福島が、延いては日本がどのようになっていくのかを、少しずつ、そして段々深く、考察したいと願うようになったのではないかと思う。この震災は、 私に”日本の予想される未来”というものを見直させ、さらにその形をはっきりとさせ、何らかの形で「私なりに言語化させなくては……」という気持ちにさせ たのかもしれない。
診療の傍ら気が付いたことを書き留め、それをインターネットや雑誌に投稿することを日課としてきたその行為には、「福島の医療現場の実情を伝える」という意味において、この土地での勢い込んだ”目的”が潜在していた。
そんななかで私の文章に対して寄せられた意見は、幸いなことに、概ね賛同的なものであった。だが一部には、私の論説のなかのネガティブなワンフレーズを切 り取り、タイトルとして仕立て上げることで、意図としない筋違いな誤解や、言われのない誤認を受けることもあった。被災地というデリケートな土地で、個人 の思想を語るということのシビアさを味わうこともあった。
しかし、そうした文章を綴っていくなかで、私のなかにあるものがひとつずつ変化していくことに気が付いた。それは、活動の記録として単に刻んでおきたいと いう”文章の意味”が、自分を相対化するための、言うならば”照準器”としての役割を担うようになってきたのである。私の文章は、批評してもらうことで、 知らず知らずのうちにどこかに行ってしまいそうになる自分の意識を、書くという一定した文脈的レベルから大きく外れないよう留めておくための”手段”へと 変化していった。
“目的”が、”手段”に変わったのである。そして、そういう想像を繰り返しながら日々を過ごすことが、(あくまで私にとってだが)ここで暮らしていくためのひとつの生き方のように感じられた。
ここへ来た当初の語感は、外からやってきた新しい人間が好奇の視点で、この南相馬市の問題や現実を、忌憚なく私の言葉で伝えるためのものだったと思う(つ まり、読者層としては、自ずと被災地以外の外部者を想定するものとなっていた)。それはすなわち、良く言えば周囲からの支援を募りたいという望みからで あったかもしれないが、「外部から来た人間が、同じ外部者を相手に現地を伝え、あわよくば、外部者へのメッセージを内部者にも理解してもらいたい」とい う、都合のいい重層的な考えでもあった。
だが日々を重ねるごとに、私は現地の人に向けて「直接的なメッセージを届けたい」と願うようになった。それは、私が少しずつ内部の人間に近づいてきた証で あったのかもしれない(が、しかし、だからと言って内部者の視点で語れるようになったかどうかは、もちろんそこまではわからないが)。
医師が、一日の診療を終えて家路へと急ぎ、家族と(あるいは一人で)食事をして風呂に入って寝る。翌日はまた、朝起きて着替えて職場に行く。そこで、またどのような患者に遭遇するかわからないし、何が起こるかもわからない。どのような人に出会えるかも、未定である。
でも、それがこの仕事の成り立ちであり、特にこの地の医療現場には、他には存在しない大きな問題を抱えた人々や患者がたくさんいる。
当たり前のことなのだが、私は、そういうベーシックな成り立ちを有するこの土地を、「信頼できるようになった」という言い方は幾分意味不明だが、何となく前提条件として受容できるようになった。
私のエッセイを読んでいる人たちからは、「小鷹先生の論調、当時から比較すると随分柔和になったし、肩の力が抜けて、何か現実を素直に受け入れていくようになった」というニュアンスの感想をいただくことが増えた。
そうして、私はこの街に溶け込んでいったような気がする。
「医療支援」といっても、これだけ大きな被害の発生した震災であるからして、そこでの活動自体はそれほど珍しいことではない。東北地方においては、多くの外部支援者が活躍し、その足跡を残していったことであろう。
私の語ってきたことに、目新しい啓蒙的な要素などほとんどないし、有益な復興手段というものが述べられているわけでもない。偉そうなことを言ったり、自虐 的なことを打ち明けたり、展望的な未来を俯瞰したりしても、結局はもったい付けて自分の思想を語っているに過ぎない。きっとここにあるのは、住民として生 活した私自身の日々の暮らしだけであったのではないかと思う。
もしかしたら、改めて述べることではなかったかもしれないし、そのひとつひとつの断片にも、たいした意味はなかったかもしれない。だが、そのささやかな営みから感じたことや、考えたことを途切れ途切れではあるにせよ、つないでいったその行為にこそ意味はあった。
被災地と、そこから遠く離れた場所にいた自分とを結び付けるために、私は、――言うならば自分を堅持するために――ここに来てからも文章を書き連ねてきた。
1年の総括としては、これまた凡庸な考察かもしれないが、「この街の人々の想いは実にさまざまである」ということであった。インターネットでの発信を通じて、それに関わる人たち一人ひとりの抱く”信条”というものを、いろいろな形で経験させてもらった。
私のようなものには、けっして理解できない”被災地”というものに対して、(もちろん、それはやむを得ないことであることくらいは想像できるが)過度に固 執している人もいれば、ほとんどそういうものは持っておらず、ひじょうに大雑把なやり方で簡単に物事を処理してしまう人もいた。そうしたものを有さずと も、すごく活躍している人もいれば、少ないわりには能書きの多いというタイプの人もいた。
さらに言うなら、”怒り”がどんどん増幅されている人から、日常を取り戻し、慎ましやかに生活している人まで、その想いはグラデーションに彩られていた。
先に”言語化”と言ったが、言葉にしても文字にしても、伝えるということは、そうした人たちの過去をストレートに語るだけで事が足りるわけではなかった。 良くも悪くも震災のことなど忘れ去られようとしているこの時期において、伝えられる文章を書こうと思うと、それなりの創意が必要だった。怒りの癒えない人 からは過剰なエネルギーを和らげ、ささやかな日常的な人からは、そこから深いドラマを引き出していく必要があった。
それが私のような”物書き”の仕事なのであろう。そして、できるならば、もっとも簡単な言葉で、できるだけ難解な問いに応えるということである。これまで も、そしてこれからも文章化されたひとつの記録が、いったいどれくらい事実的説得力を持つものになるのか、それは読者の判断に委ねるしかない。
被災地以外で暮らす人たちの関心は、今後どのようなものになっていくのだろうか。
報道関係の人から正直に打ち明けられることだが、被災地報道をしても、もう既に視聴率は取れないのだそうだ。結果として、今後ますます現地の悲鳴は聞こえなくなるし、現場の悲惨は見えなくなる。
そして、漠然としたイメージだけが、まことしやかに伝えられていく。曰く、「2年前に終わったことであっても、放射線が残っているから東北地方には旅行に 行かない」、「東北・北関東の食材を口にするのはなるべく控える」。そういう程度の関心しか持たない人が、圧倒的に増えていく。
だが、そういう人たちをけっして非難はできないであろうし、また、するべきでもない。そういうことは個人の感情に委ねられることだから、何が正しくて、どれが誤っているという類いのものではない。
これからの南相馬市を、「被災地である特別な地」として捉えていくのか、「他所と違わない普遍的な地」と捉えていくのか、その過渡期に来ている。この街に は発信するに至らない、余力のない現地の人がまだまだたくさんいる。だから私たちは、地道に、静かに、いまある事実を淡々と語っていく。けっして自惚れ ず、けっして驕らずに。