医療ガバナンス学会 (2013年3月25日 06:00)
私は福島の人々に多くを求め過ぎているのかもしれない、と不安に思うこと
雲雀ヶ丘病院
堀 有伸
2013年3月25日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
何回かMRICで私が日本社会について感じている疑問を書かせていただきました。そのほとんどが実は、既に1960年代に丸山真男や、中根千枝が『タテ社 会の人間関係』などで展開した内容です。しかし、これらの日本論はその後に真剣に省みられずに、議論が「日本的経営の優秀さ」といった方向に展開し、真剣 に取り上げられませんでした。最近でも内田樹の『日本辺境論』は、丸山らの理論を換骨奪胎して、そこで批判的に呈示された日本的なるものを内在的に肯定し ています。これは丸山や中根のような研究者・学者らが自然と身につけている「外から現場を見下すような視線」を、言語行為として本質的に批判した優れた知 的達成です。
しかし私はそれでも内田の議論に強い不満を感じます。アウシュビッツを経験したユダヤの系譜に属する哲学者であるレヴィナスを学んだはずの内田が、震災後 に多くの被災者が「裸の顔」を曝さざるをえなくなっている状況で、レヴィナスとその師との師弟関係の麗しさを道徳的に論じるのを続けている姿は、私にはあ まりにも日本的に思えるのです。
私は、丸山や中根の世代の研究者が持っていた先鋭な批判力を蘇らせたいと望んでいます。それを、都会の書斎からではなく、現場から行いたいのです。
あまりにも中根の言う「タテ社会の構造」が強力で便利だったので、それに合わせることばかりで、深く考えることを根本的なところから軽蔑して怠ってきたこと、それがこの数十年の日本社会に対して私が抱いている強い不満です。
原子力発電所の事故によって既存の「タテ社会」の構造による社会的な問題解決の経路が信用を失いました。しかしその後の展開においても、関連したステーク ホルダーたちの協議による意思決定という経路の出現は、まだ稀です。その代わりに目にするのは、古い構造の維持温存です。まるで失敗がなかったかのよう に、古い構造が復活し再生しているように見えることがあります。
さて、中根の日本人批判です。
「日本人の価値観の根底には、絶対を設定する思考、あるいは論理的探求、といったものが存在しないか、あるいは、あってもきわめて低調で、その代わりに直 接的、感情的人間関係を前提とする相対性原理が強く存在しているといえよう。このことは、前に述べた、リーダーと部下の力関係における接点としてのルール の不在、人と人との関係における契約によって表現される約束の不在ということによっても、遺憾なくあらわれているところである」
「日本社会におけるほど、極端に論理が無視され、感情が横行している日常生活はないように思われる。その証拠に、日本人の会話には、スタイルとして弁証法的発展がない」
このような直接的な人間的な接触を通じた経験への強い固着と、その外部への想像力の欠如という事態は、日本人と原子力発電所や放射能の問題との関係を悪く させてしまったのではないでしょうか。原子力発電所事故後の議論の仕方も、反論に出会った時に一旦はそれを受け止めて、自説を弁証法的に展開させていくと いう流れをほとんど見ることはありません。「原子力発電所は良いか悪いか」「不安か不安ではないか」とひたすら不毛な力比べを行っているように見られる論 争のスタイルが散見されます。有効な反対意見に出会っても、それを取り込んで自らの理論展開を行うことはなく、些事拘泥的に先方の揚げ足を取って、「だか らこれは採用しなくて良い」と無視するか、もっと自分の感情に合う議論を探してきて、それを声を大きくして唱えるようなことばかりしているように見えるこ とがあります。
このような議論の仕方は、確立された個人と個人の間での対話というよりも、相手を自分の下に従わせようとするナルシシズム構造同士のぶつかり合いに見られるのです。そして、契約や論理などへの信頼が欠如しているので、張り合い続ける力関係の中から逃れにくくなります。
この力比べは、個人の単位でも行われますが、各個人が所属する特殊集団の単位で行われることも少なくありません。通常は、個人の主張を抑えて所属集団のた めに努力することは確かに道徳的です。しかし、所属集団の事情に同一化するばかりで、本当に個人を大切にしたり、特殊集団を超えた価値や意味への想像力を 欠いたりことは、状況によっては非倫理的になりえます。
中根は、このような集団間の力比べ的な状況を「ワン・セット主義」と呼び、これを道徳的善悪の問題ではなく社会構造の問題だと指摘しています。日本以外の 通常の分業を志向する社会では、「それぞれ一定の役割をもつ集団がお互いに緊密な相互依存の関係にたち、社会全体が集団間を結ぶ複雑なネットワークの累積 によって、一つの大きな有機体として社会学的に統合されることになる」と論じました。それと比べて、「日本的現象は、A社でもa・bの製品を、B社でも同 じようにa・bの製品を製造するため、A・B両者が競争をよぎなくさせられることになる。前者のように分業の志向の強い場合には、A・Bはお互いになくて はならぬ相互依存関係にありうるのに、後者の場合には、反対に、お互いに敵・邪魔者となるのであって、A・Bはそれぞれ孤立の方向をとる」とされていま す。
なぜ南相馬市で働く私がこのタイミングでこのようなことを書いているのかというと、震災後の混乱の中で、適切な分業による効率的な人的・資金的資源の統 合・分配ということがなされずに、それぞれがバラバラな活動を展開してしまっている傾向が、生活や産業・医療・福祉などの様々な場面で、必ずしも否定でき ないと感じているからです。
さらに、中根は各集団のワン・セット主義の長所と欠点について、次のように指摘しました。「並立するものとの競争は、日本の近代化、特に工業化に偉大な貢 献をしたものと思われるのである。つねに上向きであるということは、人々の活動を活発にし、競争は(集団としても個人としても)大きな刺激となって、仕事 の推進力となっていることはうたがうことのできないところである。しかし同時に短所ももっている。これはいうまでもなく、不当なエネルギーの浪費であろ う。(中略)みんな同じことをしないと気がすまない。いや競争に負けてはならない。バスに乗り遅れてはならないだろうが、国全体として何という浪費だろ う」と嘆声しています。なお、中根は「格差」や「過当競争」が出現する由来をとして、この「分業意識の欠如」に多くを帰しているようです。
このような特殊集団への同一化、そのナルシシスティックな振る舞い、特殊集団を超えた普遍性への想像力の欠如は、残念ながら被災地においても目にすることがあり、復興の遅れの一因となっていると思われます。
この状況こそが、強力な官僚主義が出現する母体であると中根は看破しました。「連帯性のない無数の大小の孤立集団の存在は、中央集権的政治組織の貫徹に絶 好の場を与えるものである。同時に孤立している集団は、より高次の活動のために、より大きな統合の組織を必要とする。ところが個々の集団自体には、そうし た組織を生む社会学的力をもっていないので、必然的に他の組織(政治組織)に依存せざるをえないことになる。ここに、日本における中央集権的組織が著しく 発達した理由があると思われる」と論じたのです。
そして、同一化を他者との関係の基本的な様態とするナルシシズム構造を持つ人格は、「日本における中央集権的組織」への同一化を強く希求するようになると考えるのが、私の「日本的ナルシシズム論」です。
そして、「中央集権的組織」に背を向けた場合でも、何らかの特殊集団に同一化することに自己愛の満足を感じていることが少なくはなく、両者の間には相互の軽蔑という深い溝が生じていることがあります。
そして、どの集団にも同一化していない精神は、この社会では危機的な所まで追い詰められていることも少なくはありません。
各個人が、ナルシシズム構造を脱却して、本当の意味での個人としての精神性を確立すること。そして、自分の所属する特殊集団の利害に配慮すると同時に、そ れを超えたことへの想像力を持つこと。さらに、「中央集権的組織」への過度の依存を脱却して本当に問題解決力のある地域の社会構造を構築すること。
このような精神性を、放射能と共存し、国家等の旧来の権威への信頼が失われた状況で生きていかねばならない福島の人々が獲得する可能性があると私が考える のは、私からする過度の期待になってしまうでしょうか。放射能との共存は自然科学的な能力を、賠償や避難生活・廃棄物処理場の調整・故郷の復興などの課題 に具体的に関わり続けることは、人文社会科学的な能力を、高次の水準で求め続けます。
重すぎる負担かもしれない。そう感じます。
地震と津波の直接の被害、さらに原子力発電所の事故と避難生活。それだけでもこころにとっての十分過ぎるほど大きな負担です。その上さらに、まだ何年もこんな試練に耐えることを私は福島の人々に期待しているのです。
それでも、現地にはその方向で乗り越えようとしている方々をみかけます。大げさではなく、私はその方々が、結局はご自分たちの故郷だけではなく、日本全体を救ってくれるのではないかと夢想することがあります。
自分たちの将来の多くを福島の方々に依存しているのだと、私は考えています。
<参考文献>
内田樹:日本辺境論.新潮社,東京,2009
中根千枝:タテ社会の人間関係 単一社会の理論.講談社,東京,1967
堀有伸:うつ病と日本的ナルシシズムについて.臨床精神病理,32:95‐117,2011
丸山真男:日本の思想.岩波書店,東京,1961
レヴィナス(熊野純彦訳):全体性と無限 上・下.岩波書店,東京,2005