我が国をパニックに陥れた新型インフルエンザ騒動も、ここに来て落ち着きを
見せ始めています。しかしながら、すでに南半球では大流行の兆しがあり、今秋
の再流は避けられそうにありません。今回の教訓を踏まえ、私たちは何をなすべ
きでしょうか。
○新型インフルエンザ騒動の検証が必須
まず、やるべきは今回の騒動の検証です。空港検疫に代表される水際対策(検
疫体制)、学校閉鎖や強制入院などの国内対策(行動計画)、国民への情報開示、
さらに医系技官を中心とした医療行政のあり方など、この機会に見直すべき問題
は山積しています。
例えば、政府関係者は、空港での水際作戦は新型インフルエンザが国内に蔓延
するのを遅らせ、国内の体制整備に寄与したと繰り返し発言していますが、これ
は何を根拠にしているのでしょうか?徹底的な議論が必要です。ちなみに、
British Medical Journal という一流の医学誌で、ロンドンの研究者たちが、空
港検疫のシミュレーション結果を発表し、SARS, インフルエンザともに意味がな
かったと報告しています(Pitman RJ, et al., BMJ, 2005)。また、カナダの研究
グループもSARSに対し、同様の研究成果を報告しています(John R, Emerg
Infect Dis, 2005)。私の知る限り、水際検疫を有効と評価した学術論文はなく、
世界の医学者と政府関係者の理解には大きな齟齬がありそうです。
さらに、今回の新型インフルエンザ対策が、いかに実態経済に影響したか定量
的に評価する必要があります。経済危機からの回復を目指し、巨額の財政出動を
行っている傍らで、今回の対策が、関西経済に壊滅的なダメージを与えたことは
間違いありません。内閣府の発表によれば、近畿の景況感は2.4ポイント低下し
ています。これは他の地域が改善している事と対照的です。更にJTBの旅行取り
扱い額は150億、東海道新幹線の利用客は14%も減少したと報道されています。
厚労省は、新型インフルエンザ対策の検証を目的として、研究班を組織するよ
うです。しかしながら、厚労省の失態が問題となっている以上、そのあり方、特
に人選については注意が必要です。過去の経緯を鑑みれば、御用学者が選出され、
お手盛りの報告書ができあがることが、容易に想像できます。中立的な第三者も
交えた、公開での検討が必要でしょう。ちなみに、研究班は、その審議を公開す
る義務がないため、情報公開の観点からも不適格です。
○戦前の思想を引き継ぐ検疫体制
まず、検疫体制について考えましょう。検疫とは、成田空港などで繰り広げら
れた水際作戦のことで、検疫法に基づいて、厚生労働省が行う行政行為です。そ
の目的は、検疫法の第一条に「国内に常在しない感染症の病原体が船舶又は航空
機を介して国内に進入することと防止する」と明記されています。
この法律は昭和26年に制定され、平成18年に改正されていますが、その原型は
戦前に遡り、「国家権力が病人を隔離することにより、伝染病の蔓延を防ぐ」と
いう規範意識に立脚します。検疫法では、検疫所長に強い権限が与えられ、患者
を見つけたら、その判断で病院に隔離することが出来ます。また、機内で患者と
濃厚に接触した者を停留することが出来ます。今回は10日間、ホテルに缶詰にな
りました。
隔離、停留の何れに関しても、検疫所長の指示に従わなければ、罰則を受けま
す。具体的には、検疫法35条に、「隔離又は停留の処分を受け、その処分の継続
中に逃げた者は、1年以下の懲役又は百万円以下の罰金」と記されています。
○旅行者の人権尊重を
隔離・停留の問題は、旅行者に対する人権への配慮が希薄なことです。検疫法
と類似した、隔離思想を背景とした法律として、らい予防法、エイズ予防法、結
核予防法などが挙げられます。何れの法律も、感染者への人権侵害が社会問題と
なり、90年代以降に廃止されました。
果たして、検疫法に基づく隔離措置に、どの程度の科学的、法的な妥当性があ
るのでしょうか?殺人犯でも、警察・検察が独自の判断で身柄を拘束できるのは
72時間なのに(それ以上は裁判所の許可が必要)、検疫法では、検疫所長の判断
だけで10日間も拘束することが出来ます。また、罰則を伴い、隔離措置に従うか
否かは、感染者の自由意志に従うとの解釈も可能なのに、今回、濃厚接触者の停
留では、ホテル周辺に警察官を配置し、「軟禁状態」にしました。そして、この
風景は、アメリカメディアを通じて、広く世界に報道されました。
これでは、WHOに「旅行者の人権を守れ」と勧告されても仕方がありません。
我が国では水際対策の有効性に議論が集中しましたが、国際世論が問題視したの
は、我が国の人権意識です。世界の多くの人々が、我が国の人権意識は、中国や
北朝鮮と変わらないと感じたと言っても過言ではないでしょう。
○検疫法は憲法違反?
ちなみに、検疫法と人権については、憲法学者からも疑問の声が挙がっていま
す。憲法学の泰斗 浦辺法穂氏は、自らのホームページ
(http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20090518.html)で「「濃厚接触者」
の「停留」という、自由に対する強度の制限が、今回のケースにおいて「必要最
小限度」のものといえるかどうかは、大いに疑問である。先にも述べたように、
「停留」は、検疫法に基づく処分であって、検疫法には感染症予防法のような
「必要最小限度」 という規定はないが、自由に対する重大な制限である以上、
それが「必要最小限度」でなければならないことは、憲法上の要請である」と述
べています。まさに正鵠を射た指摘です。
浦辺氏の指摘するように、検疫法は憲法違反の可能性さえあります。実は、戦
後、内閣法制局を通過した法律が違憲と判断されたことはありません。憲法違反
と判断されたのは、戦前からの法律や議員立法に限られます。これは、内閣法制
局の優秀さを示すものでしょうが、検疫法の見直しは、彼らにとってやぶ蛇にな
る可能性があり、なかなか動けないのかもしれません。平成18年の検疫法改正で、
このあたりが、どのように議論されたか知りたいところです。このような状況を
鑑みれば、検疫問題の解決は、国会議員による議員立法に期待するのが現実的か
も知れません。
○検疫よりも旅行者保護を
では、検疫体制とはどうあるべきでしょうか?私は、すべての検疫行為を否定
しているわけではありません。そのやり方を、時代に合わせ、柔軟に変更する必
要があると考えています。国家権力による統制から、国民をサポートし自律的行
動を促すように方針を転換すべきです。
今回の騒動でも明らかなように、国家統制では新型インフルエンザの蔓延を防
ぐことは出来ません。ものものしい検疫風景が、繰り返し報道され、多くの国民
が新型インフルエンザを誤解しました。この結果、感染者は「スティグマ」とし
て取り扱われ、厚労省をはじめ、自治体や様々な団体が、事実を「隠蔽」し、社
会に甚大な風評被害を与えました。十分な情報を開示せず、病人がスティグマ化
するのは、らい病やエイズ問題などで繰り返してきた過ちと同じです。
今秋以降、この二の舞を演じないために、私たちがやるべきことは、旅行者・
国民への徹底的な情報開示、および旅行者がベストの医療を受ける体制を整備す
ることです。
情報開示については、「今回の新型インフルエンザは健常人が罹っても命を落
とさないこと」「周囲にうつさないためには手洗いが重要なこと」「健常人がマ
スクをかける必要はないこと」「癌患者など抵抗力が落ちた人が罹った場合、重
症化すること」などなど、国民視点にたった情報を適切に提供する必要がありま
す。また、情報提供の方法についても、マスメディアでの広告以外にも、成田空
港での広告、機内での説明などなど、まだまだ工夫の余地はあるでしょう。
情報開示と並んで重要なのは、旅行者のサポートです。海外旅行ではしばしば
体調を崩します。多くの旅行者が、海外で新型インフルエンザに罹ったかもしれ
ないと不安な気持ちで帰国したことは想像に難くありません。彼らの不安を取り
除くように十分に説明し、必要があれば医学的なチェックを行うべきです。その
意味で、PCRを含め、空港で十分な診察を行えるように医療体制を整備すべきで
しょう。また、今回の新型インフルエンザは、万が一、新型インフルエンザに感
染しても、自宅でじっとしていれば、周囲にうつさずに治癒するからですから、
機械的に隔離・停留させるべきではありません。
余談ですが、我が国はワクチン後進国で、海外旅行者に十分なワクチンを接種
できているとは言えません。このため、多くの旅行者が、回避可能なリスクに晒
されています。例えば、狂犬病は、今でも世界の多くの地域で感染例が報告され
ており、発病すれば、ほぼ全員が死亡する重大な感染症です。ワクチンにより予
防可能ですが、狂犬病ワクチンは我が国では未承認で、個人輸入に頼らざるを得
ません。多くの旅行者が狂犬病に対しては、全く無防備です。
(http://www.navitasclinic.jp/subject/travelclinic.html)。ちなみに、米
国CDCは、狂犬病が発生している地域へ渡航する人のうち、獣医師、野生動物保
護の従事者、獣医学科の学生、適切な医療をすぐに受けることが難しい地域を訪
れる者については狂犬病ワクチンの事前接種を勧めています。勿論、ワクチンは
承認済みです。
このように、ワクチン行政については、日米では雲泥の差があります。海外渡
航者に対するワクチン接種・情報提供は、検疫所が検討すべき課題でしょう。
○エビデンスベースの政策立案を
最後に、検疫法の改正についても議論しましょう。
5月28日の参議院予算委員会で、厚労省上田博三健康局長は、「現時点では、
検疫法の改正が必要か否かを検討するのは時期尚早」と答弁しましたが、これは
論外です。
今回の騒動を通じ、新型インフルエンザ対策が様々な問題を抱えていることが、
国民的なコンセンサスとなりました。特に、1)今回の新型インフルエンザは致
死率が低い、2)潜伏期があるため水際検疫では防げない、3)常人が新型イン
フルエンザに罹患しても亡くなることはない、4)免疫力の落ちた人は重篤化す
る可能性がある、5)隔離・停留は人権侵害の可能性があることは、今回の騒動
で明らかになったことです。
これらの問題点は、法律や行動計画に即刻、反映すべきです。検疫法に関して
は、「致命率の低い新型インフルエンザ」は「検疫感染症」から除外したらどう
でしょうか?空港検疫によって得られるメリットは小さく、風評被害などのデメ
リットを考えれば、割に合いません。また、旅行者の人権に配慮するため、検疫
法の罰則規定を削除し、努力目標にしてはどうでしょうか。感染者の管理は、国
家権力による刑罰を伴う強制ではなく、個人の自律に委ねるべきと考えます。
今、私たちが確立しなければならないのは、数十年に一度のペースで発生する、
スペイン風邪、香港風邪、ソ連風邪のような「弱毒型新型インフルエンザへの適
切な対応策」です。このような新型インフルエンザは、数年経てば、多くの人々
が免疫を獲得し、通常のインフルエンザとして落ち着きます。つまり、感染の回
避ではなく、如何に共存するかが問題になります。致死率が数十%に達する鳥イ
ンフルエンザと並列で議論することは無意味です。データがないため、神学論争
になりますし、国民を意図的に混乱させていると見られても仕方ありません。自
らの経験を虚心坦懐に振り返り、エビデンスに基づいて対策を検討することが重
要です。