医療ガバナンス学会 (2013年10月4日 22:00)
田部井さんは、1939年生まれの76歳で、福島県田村郡三春町出身である。女性として世界で初めてエベレストと世界七大陸最高峰への登頂に成功した人物 であることは、もちろん熟知していたが、さらに、彼女らはHAT-J(Himalayan Adventure Trust of Japan)という組織を作って活動していることを、このときはじめて知った。環境について唱えている団体は数多くあるが、HAT-Jはそのなかでも、 「山や自然を愛する人々が山の環境保護について考え、自分たちのできることから実行していこう」ということを理念とするNPO団体だった。そして、東日本 大震災の支援計画も立ち上げ、なんと被災者や被災地を力添えする取り組みも行っていた。名付けて”東北応援プロジェクト”である。その活動内容は、山岳環 境保護団体として、被災者をお誘いしてハイキングに出かけるということや、一般参加者を募って「登って、泊まって、買って帰ろう!」を合言葉に東北応援登 山ツアーを行うことであった。
偶然とはいえ、私はいいタイミングで田部井さんたちに、登山の参加依頼をしたのである。そこからは、共通意識のもとで計画を練り上げていくことができた。 HAT-Jではバスや保険、ロープウェイ、温泉などの支払い、登山部分の段取り、靴のレンタルを行い、私は集客広報と参加者受付、バスの手配、下山後の温 泉の選定を任された。そして、チラシの作成やサポート人員、雨天時の対応などは共同で進めていった。
私としては、すでにもう準備の段階から楽しかった。プロの登山家たちが、どのように事業を推進するのかということに、相当興味を引かれる部分があった。そ れは一言で言えば、用意周到である。メールや電話のやり取りは、優に30回を超えたであろう。私は私で、どのような人にご参加いただきたいかの考えを巡ら せていた。そして、この街にも存在する山登り団体である”山遊倶楽部”に、一定人数来ていただけるよう声をかけた。山林の放射線汚染の問題で、活動が低迷 していたからである。「彼らにも特別な喜びを与えたい」という気持ちと、山を愛している人たちに、当然優先権があると思ったからである。イベントでもっと も苦労する部分は集客や動員なのだが、”田部井さん効果”のせいか、ほとんど告知をせずとも口コミだけで大型バス1台分の予定人数を超過してしまった。
そして、8月31日の当日を迎えた。3日前までは70%の降水確率であったが、それをはね除けるような晴れ間に恵まれた。ただ、田部井さん率いるHAT- Jメンバーの前夜ギリギリまでの予測によって、目標を安達太良山から、万一雨が降ったとしてもそれなりにウォーキングの楽しめる雄国山に切り替えた。
一行は山の空気を満喫したり、自然を愛でたり、終始田部井さんたちと話をしながらピークを目指した。そのなかにおいて、スタッフ・チームの規律は確かなも のがあった。私たち参加者を4グループに分けて、それぞれにリーダーを据えて目配りがなされ、最後尾は(この方もクライマーである)田部井さんのご主人が 務めていた。それは、ひじょうに統制のとれた、そして配慮されたプロたちの舵取りだった。
田部井さんとの会話で印象的だったのは、「もう、好き勝手にやらせてもらっている」という言葉だった。それというのも、彼女は乳がんを克復しているからで ある。私が言うのも大変おこがましいが、きっとその中には、己の長い長い苦悩と葛藤と、そして、これまでの自負というものがあるのではないか。何か吹っ切 れたというか、覚悟を秘めたというか、そういう”最後まで登山家”という彼女の生き方としての思いを強く感じた。
お陰で一行は無事に登頂を果たし、山頂でお弁当を食べ、下山後には安達太良山麓近くの「スカイピアあだたら」というレジャー施設で日帰り入浴を楽しんだ。 初対面同志でご挨拶をしたり、おしゃべりをしたりするなどして、交流を深めることで心身の健康増進にも寄与できたのではないかと思っている。
今回の山登りは、21歳から80歳までの市民が参加され、全員が頂にたどり着いた。「田部井さんの元気には負けられない」、「自然を味わい活力を得ること が、この街の人には大切だ」などという前向きな声を、たくさん聞くことができた。それは、とてもとても感動的で、頼もしいことだった。参加者全員のそれぞ れが、それぞれの想いで頂上を目指した。”山頂”という一点を目標に意識を共有させ、一体感を味わうことができた。
そして、参加者のなかにも、がん闘病中の人がいたことを後で知った。
以下は田部井さんのブログの一部である。ありがたいことに、当日のことが細かく記されていた。
『(8月)31日は、”HAT-J東北応援プロジェクト”と”南相馬市立総合病院”との共同企画で、南相馬市の方たちと安達太良山登山の予定だったのです が、夕方の天気を見ると山は風、霧で、猪苗代もあやしげだったので、南相馬の世話人の方(小鷹)と電話で話し、たとえ雨でも歩くことができて、避難小屋も ある雄国山に変更することに決めました。
・・・
南相馬市とはなかなか接点がなかったのですが、たまたま、市立病院の先生から、私のところに連絡がありました。「自分は、元は栃木県の大学病院の神経内科 医であったが、あの大震災以後「役に立ちたい」と願い、南相馬の病院に移ってきた。しかし、病院診療だけでは、市民の方たちを元気にするには限界がある」 と、自分自身で市民に呼びかけ山歩きを始めた。私たちがいろいろな方たちとハイキングしていることを知り、「なんとか協力いただけないか」とメールしてき たのです。
それをHATの東北応援プロジェクトに相談したところ、「南相馬の方たちとは今まで接点がなかったので、この機会にHAT-J東北応援プロジェクトで毎月 行ってきたハイキングのひとつとしてやりましょう」ということで実現したのです。土曜日だったせいか若い人たちの参加が多くて良かったです。
・・・
9時50分に出発し、きれいなブナの森をゆっくり歩き、ちょうど12時に頂上に着きました。雄国沼も見えて全員大喜び。午後2時10分にバスの駐車場に戻り、南相馬の方たちは温泉へ。皆さん明るい顔で帰ってゆくのを見送り、私たちもそれぞれに車で帰りました。
・・・』
感謝以外に言葉はない。改めて、田部井さん、HAT-Jとタベイ企画の皆様には大変お世話になりました。そして、本当にありがとうございました。
今回のイベントでは、山岳界においては超有名な人物をお招きすることができた。それはそれで、もちろん有意義なことであったのだが、同時に私は「これから この街は何が大切で、何が必要なのか」ということを改めて考えさせられた。そして、その疑問は誰もが思っていることで、この地を訪れる人たちのほぼ全員に 尋ねられる問いでもある。震災の爪痕が残り、原発事故で復興の進まないこの場所において、繰り返しになるが「これからの南相馬市は何を目指して、何をすべ きなのか」と。
結論ではないのだが、登山家や作家、音楽家、料理家、芸術家、俳優、歌手、フィルムメーカーなんでもいいのだが、まだまだこの土地には技能やスキルを届け てくれる人が必要だ。ただ勘違いして欲しくないのは、これからのこの街は、「援助してもらおう」というスタンスではない。私たちのような住民が、県外から 来た支援者の活動に参加することで、来てくれた人たちに対しても同等に「良かった」と感じてもらいたいということである。支援者と被支援者という関係では なく、仲間として、あるいは堅苦しい言い方をするなら、日本の再生・復興・刺激のための”同志”として一緒に活動し、その技術を披露してもらいたいという ことである。与えてもらうのではない、共に学ぶのである。
そういう意味では、私は山岳家たちの制御を効かせた行動というものが大変勉強になった。
南相馬市は、自分の活動や考えていることを、――言い方によっては語弊を生むかもしれないが――トライできる場所である。さまざまなことを試み、そのなか で残っていく活動が、この街で求められていることなのである。私の行っている”木工教室”や”登山”は残るかもしれないが、”エッセイ教室”や”ラジオ トーク”は、役目を終えて終息していくかもしれない。きっと、街の再生とはそういうものなのだろう。
これからも多くの人たちに、「元気を届けに」ではなく「共に楽しむ」ために、そして大袈裟に言うなら「生きるスキル」を届けるために、この南相馬を訪れてもらいたい。