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Vol.127 鼻血を出した「美味しんぼ」の取り締まりは大間違い

医療ガバナンス学会 (2014年6月4日 06:00)


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福島に勤務する内科医が見たジャーナリズムの本質

※このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。

http://jbpress.ismedia.jp/

相馬中央病院内科医
越智 小枝
2014年6月4日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

「誰に何をどうやって伝えれば正しく伝わるのだろう」
福島の放射線問題に少しでも関わったことのある者なら誰もが抱える悩みです。そのような方々とお話ししていると、いつも議論の行き着く先があります。それは「何を伝えようとしても、読者のリテラシーがなければ伝わらない」という悩みです。
福島の安全性を謳うと外部から「人殺し」と言われ、危険性を謳うと内部から「人非人」と誹謗される。物事の複雑さや二面性を解さない、このような読者リテラシー、あるいは読者の倫理観の欠如が「フクシマ」と「一般社会」との距離感を作っています。
日本人の70%が大手メディアの報道を信じるがゆえに、読者が報道の矛盾を許さない。そのような時代の中で、原発災害はどのように語られるべきなのでしょうか。

●ジャーナリストの苦悩
「原発事故は、新聞記者にとっても痛恨の事件でした」
ある記者の方にお聞きした話です。
「それまでも、会社が『この地域は危険だから入るな』という通達が出ることはありました。これは会社の立場としては当然です。でも、会社命令に反して危険 地域に入って特ダネを取ってきた記者に対して、実際に罰則が出ることはほとんどなかった。会社側も知らぬふりして、それを記事に使ったり。そういう暗黙の 了解みたいのがあったんです。でも今回の原発事故では、会社が『入るな』と言ったら本当に皆が引き揚げてしまった。会社側も予測していなかった事態だった んです」
すべての記者がそうだったわけではないのでしょうが、地元の方のお話と照らし合わせると、あたらずといえども遠からず、といったところでしょう。南相馬で 利用したタクシーの運転手さんは、2回目の爆発の直後に山の向こうまで新聞記者を送ったことがある、と話して下さいました。
「会社から帰らなければクビだ、と言われた、って言っていましたよ。それで私も避難を決意しました」
また、会社の命令には従いつつも情報を得たい、という努力もあったようです。
「原発周辺に入るならこのカメラで映像を撮ってきてください」とテレビのリポーターにビデオカメラを渡された、という医療支援チームのスタッフがいまし た。また、「現場のことを知りたいので50キロ圏の外まで来てください」と大手メディアのリポーターから仙台まで呼び出された、という南相馬の医師もい らっしゃいました。

●道徳を取るか、報道を取るか
このような震災後の記者の動きには、事実を伝えよう、という熱意と、社命に従わねば、という二律背反の葛藤がうかがわれます。また、報道だけを目的に被災地に入ることは被災者の迷惑になる、という道徳感とのせめぎ合いがあったのかもしれません。
これは人として、決して責められるべき反応ではないと思います。しかしそれでは人ではなくジャーナリストとしての記者の方々は「人々の迷惑を考えて」中に入ることをあきらめるべきだったのでしょうか。
当時、リポートのためだけに被災地に入ることは、確かに批判の対象になったかもしれません。災害直後、津波でご家族を亡くされた方々に対し、その当時の詳細をしつこく質問し続けたリポーターや、「化粧をして現地入りした女子アナ」に対する非難なども多数聞かれました。
もちろん人として最低限の気を遣うべきではあったと思います。しかし、たとえその場で謗られながらも現状を報道できていれば、それは食料や物資の支援に勝 るとも劣らない支援だったのではないか。当時から現在に至るまで、「現状を知ってもらえない」と嘆く人々のお話を聞くにつれ、そのように思います。

日本では近年、「記者やリポーターは社会へ対する発言権を持つのだから、社会規範に従わなくてはいけない」という不文律ができてきているように思います。
皆が目にするテレビや新聞は道徳的で正しいことを言わなくてはいけない。確かに、品のない報道記者やセンセーショナリズムだけを要求する一部の雑誌記者や、ストーリーを作ってから現地に聞き取りに入られる方などに対し、眉をひそめることも多々あります。
しかし心打たれる報道とは、時に私たちの常識の外に存在すると思います。ジャーナリストの方には失礼かもしれませんが、彼らが道徳や常識にとらわれないか らこそできる報道もある。そのような職業の方々を社会規範に当てはめようとすれば、それはとても危険なことなのではないでしょうか。
なぜなら新聞や雑誌が万人にとって聞こえの良いことだけを報道するようになれば、その結果、読者の読解力(リテラシー)が低下してしまうからです。
日本人は他の先進国に比べ、マスメディアの報道を信じやすい、という傾向があるそうです。2009年のメディアに関する世論調査*1では、特に新聞と NHKテレビの情報が信頼できるとした方がそれぞれ62%、71%もいたとのことです。逆にマスコミの発達している英国では報道に対する信頼率は14%、 米国では26%という調査結果もあるようです*2。

鶏と卵の議論になってしまうのですが、皆が信じてしまう危険があるので、少しでも見解の異なる報道がされると、過剰に反応する人々が出てくる。それを恐れた会社は、政府の公式見解などのような、誰でも手に入れられるゆえに誰にも否定できない事実のみを報道する。
その結果、人々は「メディアの言うことは正しい」と思いこむ。このような悪循環の結果、徐々にマスメディアは思想を禁じられ、事象の目新しさのみを重視したセンセーショナリズムを追求するようになってしまったのではないか、と感じます。
読者に批判されまい、害を与えまいとする「親切心」が、皮肉なことに読者を甘やかし、リテラシーを失わせてしまっているのではないでしょうか。
例えば英国では、「XX地区で白いライオンの目撃情報が増えている」などの奇天烈な報道から、レイプ事件の実名報道に至るまで、きわどいニュースを報道するメディアがいくつもあります。
テレビ番組などを作るときには、会社は番組ごとに訴訟のための専任弁護士を置くそうです。そこまでしてゴシップを楽しみたいのか・・・という気持ちにもな りますが、その土壌がメディアの自由を守り、同時に読者が話半分にニュースを聞く、というリテラシーの発達にも貢献しているような気がします。
今、日本のマスメディアでは、必要悪、というものを語ることが非常に難しくなってきているように思います。先ほど挙げた「非常識な記者」の存在の是非などもそうですが、高齢者の医療なども同様です。

例えば意識のないお年寄りに胃ろうを作るのは可哀そうだ、という話は一部正しいかもしれません。
しかし「胃ろうを作らなければ、施設で受け入れてもらえない」「死期が早まることに対する責任を取る決意ができない」という現実から、胃ろうを選択されるご家族もいます。
今年度の診療報酬改定により、「胃ろうの患者の35%が1年以内に経口摂取可能になっていなければ報酬が減額される」ことが決まりました。この結果、軽症の患者さんに積極的に経管栄養を行うという動きが出てくるかもしれません。
また、胃ろうを作らないことによる誤嚥性肺炎の増加、中心静脈栄養の増加により、医療費はむしろ高騰するかもしれません。残念ながら「胃ろう賛成派」の声を拾える場が、非常に少ないと感じます。
複雑な社会の矛盾に対する真の倫理感を暴くことなく「分かりやすい敵」しか作らない記事が報道され続けるのであれば、その結果読者の質はさらに下がってい く。そういう負の連鎖が起きているのではないか。日本で苦悩するジャーナリストの方々を拝見していてそのように懸念します。

●非・センセーショナルな漫画の台頭
このように従来のジャーナリズムが危機的状況にある一方、伝達力という意味では新たな媒体が力を持ち始めています。特にこの風潮を反映しているのが原発事故を題材とした漫画という媒体でしょう。
原発事故を題材とした漫画の代表的なものには「いちえふ」*3「はじまりのはる」*4などがありますが、これらは(少なくとも設定としては)実際に原発作業員の中に入り、あるいは実際に福島に生活する作者による、半・ノンフィクション漫画です。
この2つの漫画を読んで一番印象的なことは、「センセーショナリズムの欠如」でした。どちらの漫画でも物語は淡々と進み、すべての描写はそこで暮らす人々 を等身大に眺めているように見えます。下手をすると明確なストーリーすらない、これらの漫画は、片やマスメディアに見られるメイキングドラマとは非常に対 照的です。
生の体験を持つ価値を再発見させるような「作品」は、本来ジャーナリストの役割でした。誰からも反感を買わないような方法で手に入れた浅い事実でニュースを作ろうとすれば、思想や偏りをすべて骨抜きにして事象の目新しさだけで勝負しなくてはいけない。
そうやって大手ニュースの世界が失ってしまったものが、刺激を与える娯楽として始まった漫画に生きているのは不思議な転換だな、と思います。
これはジャーナリストという個人の問題ではなく、マスメディアという媒体とその読者との歪んだ関係が抱える、社会問題とも言えると思います。
お会いするジャーナリストの大半は非常に独立心と熱意のあふれる方々ばかりです。それだけに彼らの間でも、マスコミという媒体の限界を感じ、ソーシャルメ ディアやオンラインメディア、週刊誌や自費出版の本という媒体を使って、従来のマスメディアが伝えることのできなくなった真実を伝えよう、という動きが出 てきているようです。

●鼻血漫画に見るリテラシー
もちろんセンセーショナリズムを意識した昔ながらの漫画も多く見られます。そのよい例が最近話題になった「美味しんぼ」という漫画でしょう。
現地に入った主人公が鼻血を出す、という描写が人々の心情を傷つけた、と話題になりましたが*5、これはフィクションを前提とした漫画という媒体であるがゆえにできたことだと思います。
事実に対する憤りはともかくとして、ここで注目したいのは、これらの漫画に対する読者の反応です。
この漫画が報道された直後に上京した際、東京の知人にも感想を聞いて回りました。「フクシマ派」に見える私に気を遣ったかたもいらしたのでしょうが、それでも多く方の反応は「あれは、そういう漫画だから」という反応でした。
「誤解は生んだかもしれないが、あれは福島への愛情ゆえの発言だ」と解釈する方もいらっしゃいましたし、「忘れ去られていた問題をもう一度議論するという意味でよかった」という人もいらっしゃいます。
過剰な反応をする人々はむしろ少数である様子で、様々な意見が聞かれました。私はここに、奇妙な「漫画リテラシー」の発達を見ることができると思います。

●鼻血漫画は取り締まられるべきか?
荒唐無稽な劇画から限りなく事実に近い風刺まで、品も質も玉石混淆であるからこそ読者のリテラシーが発達した漫画という文化と、読者の「信頼」に応えようとした結果、「道徳的」となり、読者のリテラシーの低下を生んでしまったジャーナリズム。
この2つをそのまま比較することはできませんが、もし今回の鼻血漫画事件をきっかけに世論が漫画を取り締まってしまえば、漫画の世界でもマスメディアと同じような言論統制が起きてしまうのではないでしょうか。
もちろん私自身、浜通りに籍を置くものとして、鼻血漫画を罵倒したい気持ちはあります。また、科学的、統計的、かつ論理的に議論することもできると思います。
さらに言えば、東京に住んでいるときに職場のストレスで1年間毎朝鼻血が出続けていた者として、「ストレスで鼻血は出ない」と言っている方々にも物申したいこともあります。
しかしその一方で、今回の双葉町の訴えに対し漫画家や出版社が自主規制を行うのであれば、そこには失望と、そして少なからぬ恐怖を覚えてしまうでしょう。
私にとって一番恐ろしいことは、出版社が「今後人を傷つける作品は描きません」と言い出してしまうことです。最近の風潮を見ていると、絶対にあり得ない、とは言えないと思います。
もしそのようなことが起きれば、それは単なる自主規制という名の検閲です。行き着く先は漫画の中でも人が殺せない時代かもしれません。そんな時代が来てしまったら、それは放射能の比ではない大きな「負の遺産」です。

●読者のリテラシーが自由を担保する
相馬で耳鼻科医を務める医師は、漫画の報道そのものよりも、専門家の集団である耳鼻科の学会で「あれは本当なの」と聞かれた、という事実の方に衝撃を受けていらっしゃいました。つまり、どんなことを描こうと読者が荒唐無稽と笑ってさえくれればよい話なのです。
「どうか自分の頭で考え、常識で判断してください」
双葉町、ひいては福島の人々が世に訴えたいことはこの一言に尽きると思います。
漫画における過激な描写やあり得なさは、一方でその中に混じった本物を見分ける、という読者のリテラシーを発達させるよい訓練の場です。万が一にでもここに「自主規制」が加われば、読者の解釈のすべてに出版社が責任を取るような、一億総甘やかしの社会となってしまいます。
このような社会を生み出す元凶が浜通りであってはならない、それだけは避けなくてはいけない、と切に思います。
傷つけられた者に味方したい。正しいことを主張したい。そのような正義が、民衆のコントロールという手段を取り始めた時、善意という名の悪が始まります。
「地獄への道は善き意図で舗装されている」
このようなマルクスの言葉をあるジャーナリストからお聞きしました。被災地には、このような善き意図の罠が大量に転がっている、そういう事実も忘れてはいけないと思います。
善意に溺れ、正義に利用される愚かな歴史を刻むことのないよう、福島の人々もまた、気を引き締めなければならない時が来ているのではないでしょうか。

≪参考文献≫
*1 http://www.chosakai.gr.jp/notification/pdf/report2.pdf
*2 https://www.youtube.com/watch?v=ypPqsWUC6Vo
*3 竜田 一人. いちえふ.講談社
*4 端野 洋子.はじまりのはる.講談社
*5 http://www.huffingtonpost.jp/2014/05/07/oishimbo_n_5284774.html

【略歴】おち さえ 相馬中央病院内科医、MD、MPH、PhD
1993年桜蔭高校卒、1999年東京医科歯科大学医学部卒業。国保旭中央病院などの研修を終え東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科に入局。東京下町の 都立墨東病院での臨床経験を通じて公衆衛生に興味を持ち、2011年10月よりインペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に進学。
留学決定直後に東京で東日本大震災を経験したことから災害公衆衛生に興味を持ち、相馬市の仮設健診などの活動を手伝いつつ世界保健機関(WHO)や英国のPublic Health Englandで研修を積んだ後、2013年11月より相馬中央病院勤務。剣道6段。

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