19日AM4時半、寒さで目が覚めた。中央市民病院7階西病棟で、毛布を借りて寝
ていた。朝を待って副院長、救急部長らにお願いするつもりでいたが、これは一
刻の猶予もない。この立派な建物の中でこの寒さ、ましてや野外で毛布一つで寝
ているお年寄り達は、昨夜一晩は耐え得ても、2日、3日とたつうちに続々と肺
炎、脳出血etc.を起こし、犠牲者は最終的に5千、1万を超えるに違いない・・
・
AM6時に副院長に起きていただき、前夜見た長田区の状況、医師が足りない現
状を話した。そして長田区に市民病院から医師を送ること、そのために早急に視
察チームを派遣することをお願いした。AM9時からの会議で検討するとのことで
あった。さらに救急部長、救急副部長の先生方に同様の話をし、院外の状況を説
明した。
AM9時から4人の副院長、救急部長を交えた会議が持たれた。(院長はご自身、
当初生き埋めとなり、このときはまだ病院には来られていなかった。)
会議の結論
・本院自体相当の被害があり、職員はまずこの病院を守り、立て直す必要がある。
・災害時は災害対策マニュアルにより、市役所に災害対策本部がおかれ、本院は
公的病院 として本部の指揮下にある。本部の本院に対する指示は、来たるべき
3次救急に備えて 待機すべし、というものであり、本院独自の判断で医師の派
遣については決定できない。
・現状調査のための視察チームについては今後検討する。但し調査は本院の指示
によるも ので、AMDAへの協力を前提とするものではない。
Dr.川島からの報告で長田には続々と医療チームが集まり、医師は足りている
との情報が入った。そこでそれまでのテレビ報道や、実際に見てきた職員の話か
ら被害がひどいと聞いている東灘方面に向かうことにした。事前に情報を得よう
と灘や東灘の区役所に何度も電話をするが全く繋がらない。実際に行ってみるし
かなさそうだ。
東灘には元々本院の分院として東灘診療所という施設があり、毎週小児科の外
来診療に通っていてなじみがあった。そこで救急部のDr.有吉とともに、とりあ
えずこの東灘診療所へと向かった。あちこちで通行を規制していたが、白衣と聴
診器をこれ見よがしに示すと、大抵はすんなり通してくれた。
行ってみると東灘診療所は内部はひっくり返っていたが、幸い建物自体に大き
な被害はないようだ。しかし周りの木造家屋などはことごとく倒壊していた。事
務長によると17日当日から、循環器内科のDr.白鳥が同診療所で怪我人の手当に
当たっていたそうだ。当面この診療所をベースに活動できると直感した。
東灘診療所の向かいには魚崎小学校があり、避難場所になっていた。魚崎小学
校の保健室には地元の開業医たちが5人ほど集まって診療していた。診療所は皆、
ほぼ全壊だという。手持ちの薬で診療していたが、薬が全く不足している。
2階の教室に妊娠9ヶ月の妊婦がおり、お腹が張っているというので行ってみた。
電気も水もないこの教室で仮にお産が出来たとしても、夜の寒さの中ではとても
赤ちゃんの命は持たないに違いない。そこで中央市民病院の分娩部に連絡し、受
け入れを依頼した。
診療所に戻ると、Dr.朴と、産婦人科専攻医の女医のDr.鈴木が自転車で来てい
た。また整形外科のDr.池田も来ており、病院では東灘診療所再開の方針が決ま
り、副院長らがこちらに向かっているという。急な展開に驚きながらも、Dr.鈴
木に妊婦の診察を依頼し、事務長と東灘保健所をめざした。
東灘区の消防署長、救急係長、災害対策本部長である区長、保健所長らにお会
いし、東灘診療所再開の方針を伝えた。区長によると犠牲者は東灘区が神戸市で
一番多いらしいが、正確な被害状況は分からないそうだ。また家屋の倒壊はひど
いが、大きな火災は起きていないらしい。どの部署も混乱を極め、正確な状況把
握が出来ていないようだった。
診療所に戻ると、副院長、救急副部長、整形外科医、研修医らが来ていた。状
況を説明し、再び副院長、救急副部長らと保健所に行って保健所長らに紹介し、
広報その他の支援をお願いした。当日すぐにでも診療を開始したかったが、電気
もなく、電話も繋がらず、勿論水道もないという状況で、日暮れと共に撤退を余
儀なくされた。尚、先ほどの妊婦はお腹の方は落ちついており、本人が入院をい
やがったため、当面東灘診療所でフォローする事になった。この妊婦は約2ヶ月
後の3月14日、中央市民病院で無事男児を出産した。
東灘診療所は翌日から診療を再開することになった。
20日、東灘診療所再開第1日
すべてがゼロからのスタートだった。取りあえず診察室だけは形を整え、当面
は内科、小児科、外科、整形外科の4科で診療することになった。
何はともあれ電気が必要なので、出来るだけ早急に発電機を調達してもらえる
ようお願いした。薬剤部はすべての棚が倒れ、薬品が散乱している状態だったの
で、使える薬品は限られていた。天秤が壊れているため、あらかじめ分包してい
る以外の粉薬の調合は出来ず、水が出ないため水薬の調合は困難だった。薬剤師
さんと相談し、小児科で使える最低限の薬をリストアップして投薬のマニュアル
を作った。レントゲンは骨折と肺炎の診断に必須だと考えたが、電気が無く機械
自体も激しい揺れで使用可能かどうか分からなかった。そこで予防医学協会に依
頼して巡回検診用のバスを回してもらい、条件を調整して何とか写真を撮れるよ
うな体制を作ってもらった。検査機器はほとんどが使い物にならなかった。機械
を中央市民病院から回してもらい検査できる項目も増えてきた。
みんなのアイディアで様々な工夫がなされ、この頃の診療所はとても活気があ
り、楽しかった。事務長、看護婦、薬剤師、検査技師、放射線技師ら、あらゆる
人々のご努力とご協力で、診療所は徐々に形をなしてきた。
一方患者数は、診療所再開が周知されていないためか、最初はそれほど多くな
かった。
このような状況では、診療の仕方もおのずと普段とは違ったものになる。普段な
らまず、いつからの熱ですか、咳ですか、という質問から始まるが、問診にはい
る前に、
「今どこにいますか」(**小学校の教室、または体育館など)
「おうちは大丈夫ですか」(建っているか、傾いているか、倒れているか)
「県外などに親戚はいますか」(脱出の可能性の有無)
この3点を必ず確認することにした。これによって指導や投薬の内容が変わり、
入院の適応も違ってくる。さらに水は出ているか、トイレの状況は、暖房はある
か、周りに風邪ひきの人は多いか、などの質問をつけ加え、患者の住所と照らし
合わせば、診療所に居ながらにして周囲の被害状況や避難所の衛生状態が分かっ
た。普段なら抗生物質を出さないような軽い風邪にも、積極的に抗生剤を処方し
た。またうがい薬は家族や周囲の人の分まで多めに出した。
そんな具合に診療体制作りを進めているところへひょっこりと一人のドクター
が現れた。「何か手伝えることはありませんか。」 Dr.池上といい、山形から
来ている3年目の小児科医で、実家が東灘診療所のすぐそばだという。まさに渡
りに船だった。
一緒に弁当を食べながら、これまでの経緯を一気に喋った。Dr.池上は震災直
後に実家に戻り、家族を親戚宅に送った後、姫路経由で一旦山形に戻り、外来を
済ませ、部長に許可をもらい、夜行バスで東京に出て、朝一番の飛行機で着いた
という。まさに超人的な行動だった。やる気さえあれば何でも出来るということ
を示していた。また地元の強みで、彼には東灘区内の土地勘があった。その後彼
には区内の巡回調査や、僕が外出しているときの小児科外来の影武者として、ま
た御影公会堂に泊まり込んでの診療など、様々な面で大活躍してもらった。
まずDr.池上と共に魚崎小学校に行き、東灘診療所の再開を広報して回った。
一方でラジオその他のメディアを通じての広報も必要と考えたが、Dr.白鳥は体
制が整わない時点での広報は時期早尚という意見であった。
東灘診療所の体制が少しずつできあがるとともに、全国から医療チームが集ま
り活況を呈しているという、その後の長田保健所の状況を見てみたいという強い
思いがあった。焼失した街の被害の全容を見るため、20日夕、Dr.池上に診療所
の外来を任せて、日暮れ前に到着すべく再び長田保健所へと向かった。2日前に
は暗くて気付かなかったのかも知れないが、地下鉄の通っている広い道路の真ん
中が大きく陥没していた。そのためもあって、長田への道はどこもひどく渋滞し
ていた。
長田区庁舎に入ってみると、電気が回復しており被災者たちも一応の落ちつき
を取り戻しているようであった。まず7階にあがり長田区全体を見渡した。かな
りの地域が焼失し、倒壊など相当な被害のようだ。数人の友人の住所を思い出し
ながら、地図で被害の概況を確認した。JR新長田駅周辺などの工場地帯はほぼ全
滅に近いが、長田区でも山の手の方は被害が少ないらしい。
5階の保健所に入ると、2日前とはうって変わって大勢のドクターが忙しく行き
来している。Dr.津曲を見つけて状況を聞いた。全国から日赤、済生会、徳洲会
といった医療法人や、東京都、川崎市といった自治体単位の、それぞれ数名のド
クターで構成された医療チームが14の班に分かれて巡回しているという。
壁には全避難所を記した地図が貼られ、隣のホワイトボードを見ればどのチー
ムがどの地域の担当か一目瞭然となるよう出来ていた。またこれら各チームの頭
に名前が書いてあったのでたずねると、保健婦の名前であるという。つまり長田
区ではAMDAを核として、集まった医療チームが組織され、4日間の間に保健婦を
headとする地域巡回システムが完成していたことになる。各避難所を記した地図
と保健婦、この2つが鮮烈なイメージとして残った。この時保健所では医療チー
ムが集まっての夜のミーティングが開かれており、様々な問題点が話し合われて
いた。慢性疾患患者の投薬や、避難所での精神疾患患者の事、痴呆老人の不潔行
為等が問題となっていた。
帰りに震災後初めて自宅に寄ってみた。幸い自宅の周辺は火事はなく、すでに
電気も来ていた。留守番電話に無事であることのメッセージを録音し、またしば
らく病院に泊まり込む覚悟で、衣類や食料、友人の連絡先を書いた住所録などを
持って病院に戻った。
それまで僕にとって、保健所といえばときに乳児検診に行くところであり、保
健婦さんはその時横に付いていてくれる人という認識でしかなかった。しかし本
来保健所とは、地域の保健医療行政の最前線である。地域の保健や医療に関する
情報は保健所がすべて把握し、保健婦は地域を廻って様々な問題の解決に当たっ
ている。
その後東灘診療所、灘保健所、中央保健所と活動の場を移す中で、この時感じ
た「保健所を中心とした情報の集中と共有化」と「保健婦の役割」、常にこの2
つの重要性を念頭に置いて活動してきた。
後日談となるが、震災約1ヶ月後のある日、偶然毎日放送の「ニュース23」で
AMDAの活動の特集を見た。番組では17日当日から診療活動を開始していたという
AMDAの機動性を高く評価する一方、一時は全国から続々と医師、看護婦がAMDAに
集まり、収拾がつかない状況であったこと、さらに2月のはじめにすでに医療チー
ムは完全撤退したことも報じていた。AMDAは展開ばかりでなく撤退も早かったこ
とに驚くとともに、AMDAにもこんな時期があったのかと思って感慨に耽った。そ
して急にDr.津曲とお話したくなって、遅い時間を省みずお電話した。
長田区では保健婦の持つ地域の医療情報や土地勘と、AMDAの持つ緊急医療のノ
ウハウが結びつき、それを核として後に到着した医療チームを次々と巻き込んで、
驚くほど短期間にシステムが完成した。その立ち上がりの苦しいけれど一番楽し
い時期を経験できたのかもしれない。少し大袈裟に言うと長田保健所でAMDAと地
元保健婦が出会ったことが、一つの奇跡であったのかもしれない。そんな風につ
い1ヶ月程前のことを、お互いとても懐かしいことのように話した。