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臨時 vol 174 「小児科医が見た阪神大震災4」

医療ガバナンス学会 (2009年7月31日 06:10)


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          東灘区で見たこと
          神戸市立中央市民病院・元修練医
          濱畑 啓悟

 東灘保健所の石井所長は、初めて挨拶に行ったときからずっと、延々と死亡診
断書(検案書)の束を書き続けていた。その姿はあまりにも甚大だった被害を物
語っていた。一方課長は次々と発生する問題の処理をしながら、遺体の火葬のメ
ドが立たずにいらだつ住民の苦情などの対応に追われていた。
 保健所に限らず区役所や消防署も含め、あらゆる職員がフルに活動していたが、
それでも起こった事態があまりにも大きすぎて対応しきれないでいた。そのころ
には、全国から届けられた救援物資が次々と運び込まれ、区役所の前に山積みさ
れていた。しかしそれらを仕分けして、各避難所に適正に配分するのは大変な作
業だ。
 一方で避難所になっている魚崎小学校には、当初なかなか食料が届かず、震災
3日目までミカンとおにぎりが当たっただけ、という状況だった。また数日後に
やっともらえたおにぎりで、食あたりの症状が出たという話も聞いた。しかし食
料が不足しているこの時期にそのような噂が広まると、パニックになる可能性も
ある。
 東灘診療所で漫然と構えていても、患者が来るわけではなかった。そこで長田
区で見たことを元にして、出来るだけ早く東灘区全体を巡回し、医療状況や食料、
衛生状況などの情報を収集し、同時に東灘診療所の再開を広報する必要があると
考えた。
 まず保健婦の係長に避難所と避難者数のリストを見せて頂き、保健婦の動きに
ついてうかがった。医療班としては、日赤の医療班が一部避難所の巡回を開始し
ているそうだが、どこの避難所にどの日赤が回っているかまでは分からなかった。
保健婦さん達はすでに巡回を開始し、状況把握を始めているそうだったが、とて
も全体には手が回らない状況だった。
 また保健所には東京、その他から休みを取ったり、診療所を閉めたりして個人
で駆けつけたボランティアの医師も来ており、問題点などについて話し合った。
そこでDr.池上や東灘診療所に集まったその他のドクター、西市民病院から派遣
されたナース、ボランティアの神大医学部生にも協力してもらい、出来る限りの
情報収集を始めることにした。地図を広げ、区全体を大きく区域割りして、1000
人以上といわれる大きな避難所について巡回し、医療需要や衛生状況などについ
ての調査と共に、東灘診療所の広報をすることにした。元小児病棟の看護婦で、
現在神戸大学の学生の式見さんが、御影のマンションが全壊して避難生活をして
いると聞き、彼女を避難所に訪ねてこの巡回に協力してもらった。
 そんな中で震災5日目の1月21日夕、東灘保健所で区内に入っている医療班を集
めた第1回の連絡会議が開かれた。その時点で区内に、少なくとも9チームの医療
班が入っていた。
 「ボランティアの申し出をしたが、医療は足りているから結構ですと断られた。」
 「保健所からの指示で避難所に行ってみるとすでに医療班が入っており、何し
に来たの、という対応をされた。」
 「我々が引き上げた後、次の医療班は入るのかどうか。後のことが心配だ。」
 等々様々な意見や不満が出された。さらに
 「状況は時々刻々変化している。毎日新しい報告をまとめて、日報のようなも
のを作ったらどうか。」
 「当初神戸方面に電話をしたが全く繋がらず、現地の情報がつかめなかった。
この様な時のために、全国に複数の情報センターを作り、被災地外に情報を整理
し統括するシステムを作るべきだ。」
 それぞれがもっともな意見であったが、今日、明日中の短期的な問題から、数
週ないしは数カ月単位の中期的な問題、そして今後の防災対策上の長期的な問題
等々、様々なレベルの問題が同時に議論され、なかなか議論がかみ合わなかった。
 前夜長田保健所で見たばかりの強いイメージがあったので、ふと気がつくと
「保健所を中心とした情報の集中と共有化」について大きな声でわめき散らし、
周りを無視して避難所と避難者数を記入した地図を作るよう強く主張していた。
 大失敗だった。これから協力して行くべき保健所の所長、課長までも、完全に
怒らせてしまった。地震当初から5日間、ひたすら走り続け、ブレーキが利かな
くなっていたようだ。聞けば、震災以来、所長、課長、係長とも文字どおり不眠
不休、一睡もしていないとのことだった。それでも、反省はしても、落ち込んだ
りしている暇はなかった。その後も式見さんを通じて、情報収集のための巡回は
出来る限り続けた。
 一方1月23日から、中央市民病院呼吸器内科のDr.石原享介が、コーディネーター
として東灘保健所に入ることになっていた。彼が入れば医療チームの調整はうま
くやって下さるに違いない。事実その後東灘区はDr.石原の調整もあって、あれ
だけの被害の大きさにもかかわらず、大きな混乱もなく比較的早期に医療チーム
の撤退が完了した。
 一方魚崎小学校には19、20日に行った後、2、3日訪れていなかった。少し時間
があいたので行ってみると、地元開業医の先生に代わって熊本の医師会から来ら
れたドクターがおられた。ベッドには側腹部痛の男性がおり、経過観察されてい
た。重篤感はなかったが、よく聞くと、以前膵臓の石を言われたことがあるとい
う。膵炎なら一大事だ。そのころ診療所では腹部エコーも出来る体制であった。
そこですぐにその患者さんに診療所に来てもらうようにした。エコーや検尿、血
液検査の結果、尿路結石の痛みだったそうだ。
 そのドクターによると、保健所の指示で魚崎小学校に来て3日目になるが、当
初は医薬品が全く足りず、保健所に言っても埒があかないので、熊本の医師会か
ら日本医師会を通して申し入れ、今朝やっと大阪から医薬品が届いたのだという。
薬なら診療所にいくらでもある。目の前の診療所についてはあまりご存知無かっ
たようだ。そこでついでに東灘診療所にお連れし、その頃にはすでにかなり充実
していた薬剤部や検査機器を見て頂いた上で、患者を紹介してもらうようお願い
した。勿論魚崎小学校には「東灘診療所再開」の張り紙はあった。それでも実際
にはわずか100メートル足らずの距離を、情報が伝わっていなかったことになる。
改めて広報と救護所間の連携の重要性を感じた。
 避難所では様々な問題が次々と発生していた。魚崎小学校の校庭には避難者の
車が止められ、そこに寝泊まりする人も多かった。また仮設トイレも置かれてい
た。一方近所の若者は、たまったストレスをミニバイクで校庭を走り回ることで
発散させていた。そんな時、おばあさんが仮設トイレから出てきた所を、走って
きたミニバイクにはねられたという。
 すぐに診療所のドクターを集め、近くにあった戸板を担架にして診療所に運ん
だ。幸い意識障害もなく、下肢の骨折はあるが命に別状はなかった。救急車を呼
んで、中央市民病院に搬送することになった。
 またある時、道端で意識を失って倒れていたという老人が運び込まれた。厳し
い寒さで体は冷え切っており、低体温による意識障害が疑われた。とにかく、体
を温めなければならない。
 「電気毛布は」  そんな物ある訳がなかった。
 「湯たんぽは」  それもなかった。
 そこで薬剤部でふたのしっかり出来る容器をもらい、ストーブで沸かした湯を
入れて湯たんぽとした。熱い湯に浸したタオルを、ビニール袋に包んだ物も有効
であった。結局はそれでも意識が回復せず、縮瞳も見られ、頭蓋内出血も疑われ
た。これ以上は診療所のレベルを超えていると判断し、この人も中央市民病院へ
搬送された。
 また診療所で小児科の外来をしていると、以前中央市民病院で心臓の手術をし
たという9歳の女の子が来て、現在避難所におり風邪をこじらせて高熱を出して
いるという。こんな子が劣悪な環境の避難所にいるなんて、と思い胸が詰まった。
すぐに点滴をして中央市民病院に入院させた。
 このように東灘診療所は少しずつではあるが確実に、被災地の医療に一定の役
割を果たしてきているという実感があった。
 この頃中央市民病院にはたくさんの空床があった。患者の来ない中央市民病院
内で待機を命じられている医師や看護婦達の間には、「このまま待っているだけ
でいいのか」 という声があがり始めていた。やがて本院から余力の研修医や看
護婦さんが自発的に東灘診療所に集まるようになった。特に歯科の先生方は積極
的で、普段東灘診療所ではやっていない歯科も診療科目に加えられた。また巡回
調査にも積極的に協力して下さった。また当初は診療所からの往診はしないとい
う方針だったが、やがて御影公会堂と本山南中学校の2ヶ所の救護所については、
中央市民病院で担当することとなった。
 中央市民病院のマンパワーを被災地に引き出し、活動する上での拠点として、
また被災地から中央市民病院へ患者を送り込む中継点として、東灘診療所が機能
し始めていた。
 東灘診療所が軌道に乗り始めた震災6日目の1月22日、たまたまJR住吉駅の北に
ある東神戸病院に通りがかった。様子を見ようと立ち寄ると、入口を入るなり廊
下にずらりとベンチを並べ、点滴をされている患者が目に入った。
 「中央市民病院の救急部から来ました。」 というとすぐに診療部長のDr.大
西に通してくれた。入るなり、体中に疲労の色を濃く滲ませたDr.大西に声をか
けられた。
 「中央市民ですか、大変でしょう。」
 東神戸病院は民医連(全日本民主医療機関連合会)系の病院で、元々150床程
度の病院である。聞けば、現在廊下にざっと100人の患者がいるという。また全
国の民医連系の病院から応援が来ており、現在ドクター50人、ナース100人いる
という。とにかく患者を収容する物理的スペースがなかった。Dr.大西はあちこ
ちの病院に電話をかけ、1人でも2人でも受けてくれそうな病院を探し、OKがと
れ次第次々に患者を転送している真っ最中だった。
 彼らにしてみれば、目の前の状況がこれだけ修羅場と化しているのだから、普
段神戸市の救急医療を中心的に担っている中央市民病院は、当然これよりもはる
かに悲惨な状況に違いないと判断したのだろう。まさか中央市民病院に空床があ
るなどゆめ思わず、遠方の病院に連絡をとり続けていたのだった。
 勿論この時点では中央市民病院は水もなく、手術を必要とするような重症患者
は、被災地外の病院に転送する方がよかった。それでも肺炎などの内科的疾患や、
手術を必要としないような骨折などを診療することは十分可能だった。
 そこで中央市民病院の現状を話し、廊下に溢れている患者を受け入れられる限
り、中央市民病院に転送していただくようお願いし、Dr.白鳥に連絡した。実際
その日のうちに6名、その後数日の間に20名あまりの患者が中央市民病院に転送
された。
 さらに東神戸病院から急な坂道をあがったところにある甲南病院に行ってみた。
入ってみると一見ほぼ平常な様子だったが、院長のDr.老籾に伺うと、震災直後
から70名あまりのDOAが押し寄せ、病院は一気に修羅場と化したそうだ。数日以
内の死亡者は合計で90名あまりにのぼるという。またすでに150名以上の患者を
他院に転送しており、廊下に転院者のリストが貼り出して合った。神戸市内だけ
でなく姫路や三木など、兵庫県内や大阪に広く患者を転送していた。転送先の病
院はドクターの個人的な人脈を頼って探したという。
 通常神戸市の救急体制では、救急本部が市内各病院の空床状況を常に把握し、
救急隊からの連絡を受けた救急本部が、重症度に応じて病院を指示するシステム
になっている。ところが市内の電話が通じないこの状況で、この情報システムは
全く機能していなかった。この時市内で中央市民病院に空床があることを知って
いる病院がどれだけあっただろう。この様な状況下ではドクター自ら病院に足を
運び、ドクター同士で話をするという非常に原始的な方法をとって、初めて情報
が伝わるという事が分かった。病院でいくら待っていても患者が来るはずはなかっ
た。
 東灘診療所はDr.白鳥を中心として、東灘保健所はDr.石原を迎えて、両者が車
の両輪のようにうまく回りだし、東灘区の医療状況も今後少しずつ改善していく
ように思われた。骨折など整形外科的な外傷は数日のうちに一段落していた。イ
ンフルエンザの流行は相変わらず激しかった。いつの頃からか避難所でインフル
エンザなどが悪化して発生する肺炎のことを避難所肺炎と呼ぶようになったが、
僕が予想したほどには重症肺炎は見られなかった。次々に運ばれる水や食料など
の援助物資も分配され、避難所の食料事情や衛生状態は少しずつ改善しているよ
うだった。
 震災7日目の1月23日、初めて休みをもらって垂水区の実家に帰った。地震発生
以来それまでの6日間、毎日病院に泊まり込み、一日3、4時間の睡眠でひたすら
に突っ走ってきて、周りの人にはいつ倒れるかと随分ご心配をおかけしたが、こ
こにきてやっと一段落する事が出来た。ここで一旦休息をとり、これからの長期
戦に備える必要があった。その頃はまだ実家でもガスが出ていなかったので、カ
セットコンロで沸かしたお湯で行水し、1週間の垢と疲れを流した。
 巡回だの情報収集だのと言っていた割には、それまで避難所として実際に自分
の目で見たのは魚崎小学校だけだった。そこで1月27日、広報と被害状況視察を
兼ねて看護婦さんと一緒に、実際に歩いて東灘区の避難所を訪ねてみることにし
た。まずは母校である灘高をめざした。灘高は東灘診療所から北へ数百メートル
の所にあり、診療所から灘高にかけての魚崎中町、北町には古くからの木造家屋
が建ち並んでいる。それらが軒並み倒壊していた。直前まで生活の場であった部
屋の内部が、そのままの形で無惨にもさらけ出されていた。そんな崩れた家にも
 「全員無事。連絡先・・・」 などと、戸板や張り紙に書かれ、それが一層地
震直後の地獄絵をリアルに物語っていた。灘高にも付近の住民が多数逃げ込んで
避難所になっていた。
 中庭に入ると物理の村上先生に会った。10年ぶりの再会を懐かしんでいる余裕
はなかった。出てこられる先生方が集まって、避難者のお世話をしているという。
一部の灘高生やOBもボランティアとして手伝っているそうだ。当分は授業再開の
メドは立たない。その一方で、高三の受験準備はもちろん、中学及び高校入試も
実施しなければならないという。またその時にはすでに救護班が入っていたが、
当初は灘高OBの医師がボランティアとして駆けつけ、診療していたという。校長
先生や懐かしい先生方にお会いし、東灘診療所の宣伝をした。
 灘高の体育館は遺体安置所となっていた。保健所に近かったせいか、一時はこ
こに数百体の遺体が集められ、安置されていたという。1週間余りを過ぎたこの
日でも、まだ20体余りが安置されており、霊柩車と斎場の手配がつき次第、遺族
だけで簡単なお別れをした後、次々と運び出しているようだった。県内の斎場だ
けでは間に合わず、岡山などにも運んで火葬しているとのことだった。
 次に本山南中学校へ向かった。国道2号線から阪急にかけてのこの地域も、軒
並み家屋が倒壊していた。ここの救護所は数日前から中央市民病院の担当となっ
ており、保健室では救急専攻医が診療に当たっていた。校庭にプレハブが建てら
れ、「希望の湯」と名付けられた仮設浴場が出来ていた。皆それぞれに工夫して、
避難所での生活を始めていた。
 歩きながら気付いたのは、一区画、一区画で被害の程度が大きく異なるという
ことだ。当然の事ながら、木造の古い建物は跡形もなく崩れており、鉄筋の建築
は比較的被害が少なかった。また浜側の低地は被害がひどく、山の手の高台は比
較的被害がましだった。そのようなおおざっぱな傾向は見られたが、しかしそれ
だけでは一つ一つの建物の被害状況は説明できなかった。それが最も顕著に見ら
れたのはJR摂津本山駅を挟んだ、南と北の違いだった。駅の北側は岡本と呼ばれ
る洒落たお店やレストランなどが集まっている所だ。その一帯に足を踏み入れた
とたん、すべてが正常に戻っていた。
 「なんや、どうしたん。なんか普通やん。」 商店は普通に営業し、スーパー
にも普段通りとはいわないが、一応の食料品を並べていた。和菓子屋は饅頭を売
り、花屋にはお花が並べられていた。マクドナルドでは、コーヒーやスープの無
料炊き出しをしていた。
 ところがJR摂津本山駅をへだてて南側を見ると、世界は一変していた。駅の南
側には大きなマンションが4、5軒並んでいるが、そのどれもがことごとく傾いて
いるのだった。駅前のマンションには、小児科のDr.筒井が住んでおり、当日は
命からがら逃げ出したと聞いていた。陸橋を渡って南側へ行ってみると、マンショ
ンは1階部分がつぶれて傾き、入口のスロープが約1メートルぐらいの段差になっ
ていた。地震直後、暗闇の中で避難する時の恐怖を思い、寒気が走った。またあ
たりを歩いてみると、どの建物も傾いていて、どれが本当の水平線か分からなく
なり、眩暈がして倒れそうになる。
 JR線ひとつ隔てて、天国と地獄。この違いはいったい何なんだろう。およそ人
間の力ではどうすることもできない、自然のエネルギーの大きさをまざまざと感
じさせられた。
 地震当日から移動にはずっと車を利用していたが、その頃の道路事情は日に日
に悪化していた。全国から様々な救援物資を積んだ車が大挙して神戸をめざし、
特に朝夕の国道は大変な渋滞で、緊急車両といえどもびくとも動かなくなってい
た。一度渋滞に捕まると2、30分抜け出せない事もあった。通行止めも多く、前日
通れた道も通行止めになっていることもあった。普段なら車で30分もかからない
病院・診療所間が、裏道を使っても2時間以上かかることもあった。その頃は6時
起き、7時出勤が当たり前だった。そんなとき車のドアに大きな赤十字と「医療
緊急」と書いた紙を張り白衣を着ていると、多少効果があった。
 全国各地の救急車やパトカー、給水車、ガスや電気の復旧車や、その他諸々の
救援車両が神戸に結集していた。警視庁のパトカーが5台並んで走る姿は、東京
でもなかなかお目にかかれないに違いない。またあちこちで様々な救援活動をす
る自衛隊の姿が目立った。
 車で走りながら醜く変わり果てた神戸の街を見る度に、本当に悲しくて何度も
涙を流した。そして一方そういった全国からの救援活動を見る度、本当に有り難
くて涙が出た。
 スーパーやコンビニエンスストアの再開も早かった。地震当日、翌日にはポー
トアイランドにあるダイエーなどのスーパーの前には、延々と何時間も食料を求
める人の列が続いていたが、3日目頃からほぼ平常の営業を再開していた。コン
ビニエンスストアなどで普通の値段で、普通に物が売っているのを見ると、とて
も不思議なことのような気がした。
 ガソリンも当分手に入らないかも知れないと思っていたが、6日目くらいから
ガソリンスタンドも電気がつき次第、営業を再開するようになった。ガソリンス
タンドの店員は
 「うちも全壊なんですよ。」 と言いながら給油してくれた。そんな時、
 「一緒にがんばりましょう。」 が合い言葉であった。
すべての人が自分の出来る限りの事を精一杯、復興に向けてがんばっていた。
 一方避難所でも、避難者達は食糧の配給などに、皆根気強く並んで順番を待っ
ていた。また予想された不当な便乗値上げも、最初の頃にマスコミで大きく取り
上げられ、批判にさらされたためか、あまり見られなかった。
 これ程の大災害にもかかわらず、暴動や騒乱など大きな混乱もなく秩序が保た
れたのは本当に驚くべき事で、世界に誇るべきほとんど奇跡と言っていいほどの
事だろう。それを可能にしたのは、日本人の国民性や被災者自身の努力と共に、
全国からの様々な公的、私的支援や、続々と集まったボランティアの力、マスコ
ミの力などが要因としてあげられるだろう。待っていればきっと誰かが何とかし
てくれるに違いない、という確信があるからこそ、奪い合うこともなく辛抱強く
待っていられるのだろう。

 

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