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Vol.243 国民皆保険は誰のためか―時代の曲り角

医療ガバナンス学会 (2014年10月22日 06:00)


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清郷 伸人

 

2014年10月22日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


1.医療者と国民における国民皆保険

大正11年鉱山と工場労働者の労務管理から始まった健康保険が、昭和33年全国民強制加入の国民皆保険になったとき、政府は医療の現物給付に全面的な責任を負うことになった。それは医療を供給する医師に経済的な保障を与えると同時に医療の細部まで管理することであった。この時から官(官僚)民(医師)共同の莫大な利権を囲う金城湯池の皆保険ムラが出来上がった。半世紀にわたり聖域視されたこの皆保険ムラも高度成長経済の終焉とともに制度疲労が進み、厳しい国家財政の重荷となっている。国民皆保険という公共財をその当否も含め政府だけでなく医師も国民も考えなければならない時代になった。

そもそも社会保障という公的福祉・公的扶助制度は、国家的規模の善意に基礎をおいている。生活保護が典型的な例だが、悪意の個人による詐取を防ぐ手立ては基本的にない。公的扶助であり社会保障を本質とする国民皆保険も、個々の医者に金儲けの手段とされたら、必要な財源は膨れ上がる一方である。

田島氏は、国民皆保険について危機感を露わにして次のように指摘する。「わが国では国民皆保険制度が巧みな隠れ蓑として使われ、「いつでもどこでも誰でも保険証1枚で適切な医療が受けられる」とするキャッチフレーズに酔わされ、「この国の医療が米国のような銭勘定になっていない」「この国ほど良い医療が実践されている国は世界中に他にない」と国民が安心させられている間に、いつの間にか過剰診療が常態化し、(医療財政が)破綻寸前状態に陥っている。(中略)こうした状況を考えると、(市場主義的な)『医師=経営者』の構図があるのに、(社会主義的な)国民皆保険制度を導入したことが間違いではなかったかとさえ思い返され、これまでの国民皆保険制度の運用姿勢を振り返れば、窓口負担率を上げ、税金を追加し続けない限り破綻する運命にあったといえる。それは国民皆保険制度が官民共謀による価格カルテルをネズミ講まがいの運用でやってきたが、制度疲労に陥って問題が深刻化したといえる」(204~206頁)

一方、国民皆保険を負担する国民の側を見ると、過重負担の問題が多い国民健康保険では、保険料を滞納する世帯は450万世帯と対象世帯の20%を超え、無保険世帯も30万世帯に及ぶ(2011年)。また保険証を持っていても医療費の3割自己負担分を払えない人も非常に多く、かれらは医療から見放されており、とても皆保険とはいえない状況である。現行制度は保険料を払えて窓口の自己負担分も払える人だけの自己責任の制度といえる。もはや保険が持つべき相互扶助機能は脱落している。わが国は国民皆保険を標榜しているが、それは子供も含む無保険世帯を代償にしたものといえる。これに対し、医療費を税金で賄えば全員に保険診療の最低保障はできる。患者が希望する標準治療以上の医療は自費でやればよい。そもそも国民皆保険は目的ではない。国民皆医療のための手段である。目的は国民皆医療であり、そのための手段は二次的なものである。

国民皆保険が国民の医療に多大に貢献したことは間違いない。その出発点は国民に広く、安く、身近に医療を受けてもらい、その健康と生命に資することだった。それは急性期疾病の蔓延とピラミッド型の人口ボーナスという典型的な途上国だった日本にピッタリ適合した。まさに国民の求める社会保障だったといえる。しかし先進国となった今の日本には害が大きい。国民皆保険の役割は終わった。なぜなら国民皆保険は、実は国民というより富裕層が得をする医療制度だからである。高額な高度医療、先進医療も1~3割の自己負担で済むから、金持は使いまくる。しかし貧しい患者は平均以下の医療で済ますしかない。それでも保険財政はひっ迫するから保険料は上がる。それも払えない人は無保険になり全額自費医療となるので病院に行けなくなる。そしてこの負のスパイラルは、高齢者が健康保険を使いまくるため若年層になるほど保険料の負担が厳しくなるという世代格差にも表れている。

それにもかかわらず国民皆保険の当否が問題になったことはほとんどない。それは大部分の国民には、国民皆保険とはそれがない状態など想像もできない空気のような存在だからである。さらに厚労官僚や日医などの既得権益集団によって、国民皆保険ムラに潜む問題が長年巧みに隠蔽されてきたからである。しかしその巨大な利権にからむ医療の質などの問題が露わになった現在、国民皆保険は社会保障の本質、原点から遠く離れた政治的なプロパガンダになっている。日本は今や慢性期疾患の充満する逆ピラミッド型の人口オーナスという先進国特有の社会になってしまった。そこではもはや社会主義的な国民皆保険だけでは、国民の求める社会保障にならないだけでなく、それは財政的に持続不可能になりつつある。医療という社会保障は政治的なプロパガンダではなく、それを求める国民という原点から考え直さなければならない。

混合診療が国民皆保険を崩壊させるという決まり文句も政治的プロパガンダである。混合診療は万能薬ではない。少しは助かる難治患者が出るだけである。保険財源という制約を考えずに先進医療を誰でもが使えるよう保険適用しないなら混合診療を認めるべきでないというのは、エゴイズムである。少しでも経済的能力のある難治患者の希望を挫こうとするその心情は醜い。患者申出療養という混合診療が実現しても患者の医療費は安くならないとネガティブキャンペーンを張る新聞もあるが、月に数百万円もする非承認薬を使えば保険診療を併用できても焼け石に水なのは当たり前である。混合診療を医療費という金勘定だけで考える向きには理解できないだろうが、混合診療は患者の生存権が最優先という理念・哲学である。そしてそこから臨床現場における医療の自己決定権が導き出されるのである。厚労省と日医にそのような人権意識はない。かれらは安倍政権では風向きが悪いとして今は沈黙しているが、難病経験から患者申出療養に執念を燃やした安倍首相が去れば、あらゆる手段を使ってその実質を潰しにかかるに違いない。

2.国民性からの国民皆保険

最後に国民皆保険というものを対照的な日米の国民性から考えてみる。医療制度は国民性と密接に結びついている。医療費負担でも、無料という高福祉・高負担の社会保障制度を選んだ北欧諸国から公的保険を社会的弱者に限定し、多くの国民は民間保険で賄う米国まで先進各国の制度は税または保険による社会保障の確立では共通するが、政府の運用は大きく異なる。国民性を背景としたその違いに優劣などない。ただどの国も限られた医療資源の中で、より優れた医療制度を模索していることに違いはない。とかく日本では米国の劣った医療保険制度に対するわが国の世界に冠たる国民皆保険という自賛に陥るが、そうした自国の絶対化は正しいのか。国民性で相対化するという視点から国民皆保険を考えてみた。

オバマ大統領が国民皆保険を導入したときの米国民の反応に違和感あるいは不可解感を覚えた日本人は多いと思うが、同時に映画「シッコ」に描かれたような米国民の医療格差を考えて米国の医療制度への批判的な否定的な見方に自信を深めた人も多いだろう。しかし、同時にメディケア・メディケイドという既存の公的医療保険制度に加えて国民皆保険を導入しようと考えたヒラリー・クリントンが日本の医療を視察して参考にもならないといって一蹴したことも考えてみる必要がある。いったい何が違うのか。

米国人は、そもそも公的福祉制度というものには個人ではなく大衆としての人間の精神を退化させるものがあると建国以来の歴史で学んだと思えるところがある。そのため社会保障も最小限に抑えるべきと考えるし、大きな政府による公的福祉制度は社会主義的な偽善に陥りやすいという歴史感覚がある。そして福祉というものはキリスト教精神に基づき、個人やコミュニティなど民間が自発的に担うものだという伝統を築いた。米国民は社会的弱者への公的福祉は容認するものの、国民皆保険に掲げられた国民全体の利益という看板の裏側に潜む精神の荒廃が見えており、その構図は平等の理想を掲げた共産主義の実験が証明したように人間性に反するものという思考感覚がある。こうした米国民の視点からは、日本の国民皆保険制度は本質において人民の利益を謳って特権官僚の利益に変質した共産主義と同じであり、日本の現状のように患者の利益第一といって医者の利益第一に成り果てる必然性を持っていたと見えるのではないだろうか。

第3代米国大統領トマス・ジェファソンは近代憲法の父であり、米国憲法の起草者だが、米国民の思考感覚に大きな影響を与えたと思われる。近代憲法を権力の暴走を阻止するため国家を縛ることが本質と位置付け、その憲法観は政府への信頼はつねに専制を生み出す土壌であり、自由な政府は国民の信頼ではなく猜疑に基づいて建設されるものであり、連邦憲法は国民の信頼の限界を政府に対して確定したものだというものである。

こうした自立・自恃の思考感覚は、最近のイスラム過激派による米ジャーナリスト殺害事件においても見られる。カリフォルニア大学ジャーナリズム大学院のトム・ゴールドスタイン元院長は、「米メディアが掲げる報道の自由という概念は米国の建国前からあった。トマス・ジェファソンの『新聞(報道の自由)が存在しない政府』と『政府がなくても新聞が存在する社会』のどちらを選ぶかと問われれば、私は躊躇することなく後者を選ぶという精神は今も脈々と生き続けている。戦場に赴く記者にはメディアの負っている責務への自覚がある。人質になる覚悟も、死ぬ覚悟もある。身代金は払わないという政府の姿勢をジャーナリストの側も十分理解している」と述べている。(高濱賛・日経ビジネスオンライン2014/9/1)

米国は個人の人権や国民の知る権利を政府がおびやかすことには非常に敏感なため伝統的に小さな政府であり、自立・自恃である。日本人は長期の鎖国時代と強固な封建統制社会により共同体に埋没し、お上に依存する習性を身に着けた。そこに戦後与えられた民主主義を権利の拡大と誤解したために、自分の利益に対してさらに強い政府依存体質となった。それが小さな負担と大きな受益を当然視する社会となり、各界が自分だけの部分最適を追求し、全体最適を蔑ろにした結果が現在の日本の惨状である。それでもなお既得権益集団は、政府が医療費負担の全体最適化を図って国民皆保険に混合診療を導入することに対して、医療が「シッコ」のようになるという空気を作って国民を脅しているのである。

3.曲り角に立つ覚悟

米国は6人に1人が無保険という代償を払って国民が自己責任主義を選択した。一方、北欧諸国は7割以上の国民負担で公共サービス無料の高福祉国家を実現した。いずれも社会保障の大前提である国家財政の破綻を回避するために全国民が何らかの犠牲を払っている。翻って日本では国民皆保険、国民皆年金を高らかに標榜しているが、人口の3割に満たない高齢者がその恩恵に浴すため7割以上の現役世代や将来世代の富を先取りしている。このままでは現役世代や将来世代が高齢者になるころには財政破綻により日本はIMFの管理下におかれ、社会保障の切り下げをはじめ大きな犠牲を払うことになる。このような巨大な不平等、愚劣な不公正をかれらは許してくれるだろうか。

日本のように全国一律の国民皆保険制度を政府に任せている国では、既得権益集団や高齢世代が部分最適を奪い合う現状を変えて全体最適化を図らなければならない。韓国は社会保障が低福祉・中負担であり、その分自己負担率が高い。しかし高齢化率が将来日本とともにトップになるが、現状の低福祉・中負担で乗り切ることができるという。一方、日本は鈴木亘学習院大学教授によると、中福祉・超高負担か低福祉・高負担を選択する以外の今の中福祉・中負担では現役世代の壊滅と財政破綻を防げない。今後の日本は社会保障の低福祉化と高負担化すなわち高齢世代も現役世代も自己負担率の上昇は避けられないのである。それは国民皆保険という選択を維持するためには、相当程度の不平等、格差を認める応能負担・応能受益を適用するということであり、混合診療もその一例である。日本の将来のためには部分最適でなく全体最適を優先するほかに道はない。

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