医療ガバナンス学会 (2014年12月2日 06:00)
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2014年12月2日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
2014年12月13日(土曜日)
【Session 04】14:30-16:00
地域医療II-地方の医療
●基礎自治体の首長は災害対応の総責任者
立谷秀清
大規模災害時、首長はすべての情報を集約・整理分析し、事例によっては反射的に対応を指示しなければならない。全体行動に対する首長の指揮は、危機管理とその後の復旧・復興に重大な影響を及ぼすので責任は重大である。
最重要課題は、「次の死者を出さない」こと。災害の直後は運よく生き延びつつも現場に孤立している人々の救出とケア、次に災害関連死(災害後の環境変化による病状悪化)、中長期的な課題としては経済的・精神的要因による自殺防止、最後は孤独死対策である。
東日本大震災は、災害規模があまりにも大きかったため被災者への行政の支援が困難だったことに加え、福島県では、放射線被ばくによる健康被害の懸念をはじめ、精神的ストレスや厳しい避難生活による二次被害も多く見られた。
これら非日常的な多くの障害因子を出来るだけ整理し、全体像を把握した上で適宜対策を指示することは、結果の是非に関わらず、基礎自治体の長の責任である。被災者の居住環境の確保、水・食料・生活物質の供給、医療体制の整備による被災弱者の保護などをはじめ、長期的な課題として、被災者の人生再設計と地域の将来像を提示することにより、希望と再生へのモチベーションを持たせるように被災者の集団と地域をコーディネートしなくてはならない。
今回の震災において、相馬市の災害対策本部では、上記の理念の下、あらゆる情報集約と行動方針策定を、対策本部長(市長)の一元管理により行い、併せて全スタッフの情報共有と意思統一を目途として朝・夕の対策会議を重ねた。直後の対応は勿論のこと、短期的対応における医療体制の確保(避難所での支援)や、中長期の課題と対策(仮設住宅での被災者支援)なども当初から視野に入れながら、日々入ってくる現場の情報や予想される不安材料をできるだけ想定しその対応をアップデートしてきた。とはいえ、私の方針決定が市役所職員や市民に伝わったかについては反省すべき点もある。
私が市長として指揮を執った相馬市の震災対応の結果の是非は後世の評価に委ねるしかないが、そのためにも記録を残していかなければならない。
●東日本大震災に被災した医師は何を考え、どう動向しているか
及川友好
福島県東北部に位置する南相馬市は東日本大震災による地震、津波の被害に加え、福島第一原子力発電所の事故による放射線被曝に曝された地域である。2011年3月の事故直後から全人口7万1千人のうち約6万2千人が何らかの避難をし、3年9か月が経過した現在も、未だに約2万人程度が帰還しない。突然の大規模避難は地域社会に様々な混乱をもたらし、その影響は現在も続いている。一夜にして極端な少子高齢化社会に変貌して、三世代家族のほとんどが崩壊し、独居老人世帯、老老介護世帯が増えた。若年生産人口の減少は地域産業の復興を妨げている。また、一部の地域住民は津波の被害や原発事故による居住制限のため長期の避難生活や仮設住宅での生活を余儀なくされている。
大規模な避難経験、社会構造の極端な変化、長期の避難所・仮設住宅での生活は、市民生活に多く健康被害をもたらしたとされるが、その全貌は明らかではない。当院は地域(福島県相双地区)の基幹病院であり、かつ脳外科では専門医を有する唯一の入院受け入れ施設である。脳卒中の患者のほとんどは当院に集中するため、震災前後の脳卒中発症率を推定することが可能で、震災前の2007年3月から2014年3月の南相馬市における脳卒中発症率について検討してみた。人口および年齢別人口調整を行い、Poisson回帰分析を用いて震災前後の脳卒中発症の相対リスクを算出してみると、35才以上の年齢層で男女を問わず脳卒中発症率が有意に上昇し,現在もその傾向は継続している(脳卒中発症率相対比1.49倍)。
ただし、脳卒中発症率増加は、震災により生じた健康被害の一側面に過ぎない。今後、南相馬市においては、あらゆる疾病における被災の影響を調査・研究する必要があるとともに、その結果を地域住民に公表し、後世に伝える義務を負う。しかし、これらは一地方の病院で全うするには、あまりにも規模が大きすぎる。意欲ある若い力の参集と全国の様々な団体、教育機関との共同作業をお願いしたい。
●東日本大震災による避難者の救済・県民の要望にどのように対応したか?
二瓶正彦
1.はじめに
福島県と聞いてまず浮かぶのは、『原発』と『放射能』ではないだろうか。しかし私たちは、この美しい地に、一日も早く、多くの人と活気が戻って欲しいと願っている。
今回、その後押しになればという期待を込めて、これまでの歩みを報告する。
2.東日本大震災当時の状況と避難者への対応
2011年3月11日14時46分。
経験したことのない強い揺れの後、扉の向こうには、言葉を失う光景が広がっていた。職員は誰しも事態を飲み込めないまま、それでも全員の安否確認に走り回っていた。幸い負傷者はおらず、建物にも倒壊するほどの大きな損傷は見られなかった。私たちはこの恵まれた状況に感謝し、国内外の多くのボランティアの力を借りて、最大で188名の避難者を受入れるに至った。
3.放射能検査の取り組み
きっかけは、来院者からの、家族の内部被ばくを心配する声だった。当時は県内で内部被ばく検査が行われていなかったため、同年9月に検査装置(ホールボディカウンター)を設置し、検査を開始した。
また、甲状腺専門病院である東京都の伊藤病院で超音波検査の指導を受け、2012年11月から、専門医招聘の上で甲状腺検査を開始した。
4.これらの検査を続けてきてわかったこと
2011年10月から2013年9月までに延べ51,412名の検査を実施し、ごく一般的な生活では、過度に心配するような結果は出ないことがわかった。しかし、野山の動植物の摂取によって、比較的高値の放射性セシウムを検出した例があるのは見逃せない。今後同じことを繰り返さないよう、専門家による説明機会を設け、正しい知識の提供に努めている。
また、昨年12月からは新たにベビースキャンを開発・導入し、これまでできなかった乳幼児の検査を行っている。
5.今後の課題
あの震災からおよそ3年半が経過した今、被災地に住む私たちでさえ、徐々に記憶が薄れてきているが、原発事故の問題は決して収束したわけではないのだ。
私たちは、内部被ばく検査と甲状腺検査を定期的かつ継続的に受けることの重要性を、これからも県内に広く伝えていきたいと思う。