医療ガバナンス学会 (2015年3月26日 06:00)
近年、国立国会図書館近代デジタルライブラリー、国立公文書館アジア歴史資料センターなど、インターネットで日本の近現代史に関する一次史料を閲覧することができます。最近、私はこれを活用して先祖の事績を調べる中で、兵庫県、特に播磨国の歴史、旧陸軍軍医部と近代医学、軍都としての東京などに関心を持つようになりました。同時に、これまで近現代史に関する教育が学校でおろそかにされてきたということにも気付かされました。
西日本で大きな学会というと神戸が多く、兵庫県の中心は神戸であるということに多くの人は疑問をもっていません。しかし、かつて兵庫県の中心は姫路であったという、現在とは異なる地政学的状況があり、その一方で、国立病院が旧陸海軍病院を引き継いだことなど、戦前・戦後は決して断絶ではなく連続していることに思い至っていたところ、上 昌広先生の近著、「日本の医療格差は9倍」に出会い、我が意を得たりと思いを強くしました。
私事で恐縮ですが、少々、おつきあいください。
私の母方の祖父、原田六一郎は兵庫県佐用郡出身の播磨人です。昨年、号泣会見が話題となった兵庫県議が恐らく、県内最西端という理由で日帰り出張先にしていた地です。曽祖母は姫路城下の医家の娘であったことから、息子を大学出の医師にしようと非常に教育熱心であったそうです。そんな母の元、祖父は旧制姫路中学から第六高等学校理科乙類へと進み医師を目指しておりましたが、色盲であることが露呈し医学部進学を断念して東京帝国大学農学部へと進みました。
国立国会図書館近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)には、帝国大学をはじめとする官立大学・高専、ナンバースクールなどの旧制高校の年度ごとの一覧、すなわち教職員、在校生、卒業生の名簿があります。大正中期以前の学生の名簿は席次順であったりもします。例えば「第六高等学校一覧」を閲覧すると、私の祖父は大正13年、上先生のお祖父様、西野廣吉氏は昭和7年に六高理乙を卒業し、それぞれ東大農、九大医に進学したことがわかります。大正13年理乙卒の場合、約40名の卒業生の実に9割が、東京帝大、京都帝大、岡山医大を中心とした医学部に進学しており、他学部進学者は例外のようです。
理系ドイツ語クラスである理乙が医進のクラスであると言われたのも理解できます。ちなみに、色覚検査で使われてきた石原式色覚検査表(石原表)は、当初、徴兵検査用として初版が大正5年、その後、学校教育用が大正10年に発刊されて、順次、教育現場へ導入されていったようです。祖父が医師になろうと理乙に入った、そして入れたのは、大正10年の入学時には石原表による検査がまだなかったということになるようです。
これに関連して、石原表の考案者である陸軍軍医、石原忍が「色盲検査表の話」という石原表開発の経緯についての文章の中で「その頃また幸いにして軍医学校の眼科に色盲の軍医がいましたから、翌日その表をその軍医に見てもらって試験しましたところ、大概私の予想通りの結果を得ましたので、大いに自信を得て愉快でした」と記しています。当時、色盲の軍医、それも眼科医がいたということで、石原表以前には色盲は医師になる障害ではなかったようです。大正11年に石原忍が東大教授に転じたことも、その後、色盲が医学部進学の障害となったことに影響を与えているのかもしれません。
祖父は医師になることが叶いませんでしたが、祖父の兄は東京帝国大学医科大学を恩賜の銀時計を拝受して卒業し、陸軍軍医となり、最高位の軍医中将まで上りました。その祖父の兄、原田豊は終戦時の東京第一陸軍病院の最後の病院長、すなわち国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター)の初代院長を務めた者です。戸山の地で陸軍病院から国立病院への受け渡しに立ち会ったのは播磨人でした。
日米開戦時の陸軍省医務局長、三木良英軍医中将、終戦直後の政府による原爆被害の医学的調査を指揮した都築正男東大教授・海軍軍医少将と他にも姫路出身の播磨人がいます。「東京帝国大学一覧」を見ると、原田、都築は大正7年医学科卒の同期になり、それぞれ陸軍・海軍へと進んでいます。また、終戦時の陸軍軍医学校長で、陸軍による広島の原爆被害調査を指揮した井深健次軍医中将は旧会津藩出身です。姫路、会津と戊辰戦争の敗者が世に出るためには、やはり軍は一つの選択肢だったのかもしれません。
今年は戦後70年の年にあたります。この間、あの戦争は間違いであり、かつての軍人に日が当たることはありませんでした。医学の世界でも、かつて多くのエリート医師が軍医になることを選択し、そして軍病院は形をかえながらも現在へと受け継がれている事実も忘れられようとしています。
斎藤太郎:首都大学東京 理工学研究科 生命科学専攻神経分子機能研究室