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臨時 vol 78 「人工心肺事故無罪」

医療ガバナンス学会 (2009年4月8日 10:51)


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NPO法人医療制度研究会 済生会宇都宮病院
中澤堅次


東京女子医大の人工心肺訴訟第二審は無罪だった。これを報じた3月28日の朝
日新聞の記事は、詳細に訴訟の経過を示し、記事にはあまり主観が出ず、公平な
扱いで両者のコメントが載っており秀逸だと思った。ご家族の思いと訴訟による
解決のミスマッチも鮮明である。この記事を読んだだけで、医療事故調査委員会
設置法案に関する意見の相違も明らかになった気がする。

文面で見る限り、家族やメディアの期待は真相の解明にあり、真相解明に寄せ
る家族と医療提供者の複雑な感情が交錯し、この問題が訴訟では解決しないこと
を示している。ご家族は国が検討している第三者機関の設置に問題解決を求めて
いるが、この件について私は別な感想を持った。

記事にあるように、無罪とした理由が一審と二審とで異なること、大学側の調
査報告書が認めた「操作ミス」を関連3学会が否定したこと、高検判事が「公判
を通じて専門家の間で意見が変ることに戸惑いを感じている」とコメントしたこ
となどは、この種の事故の原因を特定することの難しさを示している。解釈の多
様性は医療側が情報を開示していないからではなく、専門家がいい加減な判断を
下しているわけでもない、医療事故そのものの特性なのである。とはいえ、死と
いう結果は重く家族にとって受け入れがたい、関わったのは医師だから大きくい
えば病院などが事故に責任を持つべきというのは分かるが、予期できなかったこ
とや責任が取れない出来事も現場では確実に存在し、個人の責任とすると答えが
出ない。責任追及以外の方法が必要なのだと思う。

本裁判の構造は福島県立大野病院産婦人科事件とよく似ている。つまり、病院
が出した見解が刑事訴追を呼び、裁判で一審無罪になった経緯が同じである。こ
のあと女子医大の件では二審でも無罪になり、裁判のたびごとに判断も論点も異
なる解釈が示された。

今話題の第三者機関による事故調査委員会についても同じことが起こりえる。
試案では院内調査の上に事故調査委員会の調査があり、その奥に司法の判断があ
る。事故調査委員会には判定権限があるので、大綱案は裁判の前にもう一つの簡
易裁判を配した、いわば二重構造である。訴える側に立つと簡便で有利であるが、
訴えられたほうは関門が一つ増えることになる。院内調査と第三者機関の結論が
異なる場合は大変である。病院は第三者機関に異議申し立てをするか、司法に第
三者機関を名誉毀損で訴えるか、いずれにしても医師の同士討ちが始まる。判決
はそのたびに異なる結論になるかも知れず、第三者機関の判定が入ることで、複
雑な議論はさらに複雑になる。簡易とはいえ司法ではない第三者の審判が入る二
重裁判には法的根拠が示される必要がある。

公平な第三者が入れば必ずはっきりした線が出ると記者氏は期待しているよう
であるが、実際医療事故の原因は単一では無く専門性も高いので、どこに責任の
所在があるのかだれもが判断できるとは限らない。事故調査委員会設置法案大綱
案では医療事故の定義を厚生労働大臣が決めるとしているが、このことは、難し
いから大臣が決めるんだ、という乱暴な議論で難点を乗り切ろうとしているので
ある。はっきりしないものに無理に結論を出そうとすると、今回のようにいくつ
もの論争が発生する。これに第三者機関の判定が加われば複雑さはさらに増幅し
泥仕合になる可能性が高い。

ご家族のコメントにも、裁判長の感想にも再発防止の原因究明が不十分という
感想が述べられていたが、目的が責任追及では無く再発防止と定義されていれば、
この問題は存在しない。たとえば原因が二つ推測される事故があったとしたら一
つに確定する必要は無く、二つの対策を講じれば再発は防ぐことができるし、ご
家族にも二つの原因を可能性として説明することも可能である。結論が出ない段
階でも再発防止の作業は出来るが、責任追及の目的が入ると結論が出るまでは安
全対策は取れない。極端な例だが対策を講じたことが責任を認めたととられかね
ないからである。

現場で日常的に行われ、診療の質を高めるために重要な手段であるカンファレ
ンス(症例検討会)でも同じようなことが起きる。責任追及で無ければ、お互い
に誤りがあると仮定して議論が出来るが、目的が責任追及になり、どちらかが悪
いと思っただけで、議論は誹謗合戦になるか、遠慮して議論しないかで、検討会
は機能しなくなる。処罰が絡めば不利なことは話さないという権利までが発生す
る。

“良い悪いを言わない””誤りに学ぶ”真相究明が医療の技術改善の基本であ
り、それは世界標準である。この前提は、医療者の思考過程に習性として定着し
ており、そこに責任追及が入れば、現場は議論の前提を根本から見直さなければ
ならない。これは再発防止の議論を妨げ、長年培かわれた医療の否定とも感じら
れる。一部の事例の解決のために、これほど大掛かりで危険な実験を、政府は世
界標準に逆行してまで行なおうとしているのである。

解剖も同じで、私の経験では、解剖の結果から振り返って、生前の診療の是非
を問われることはなかった。見逃しも、見当はずれもあったが、それをミスとし
て糾弾された覚えは無い。生前診断には生命の維持が絶対条件であり、死後の解
剖にはこの制限は無い。死後の診断は生前診断と同じレベルでは論じられないと
いう無意識の了解があったのかもしれない。

その後レントゲン診断装置も格段に進歩し、昔は難しかった診断も簡単になり、
成績も確実に好くなっている。最高を求める精神風土は、今度はその装置を使っ
てミスを判断することになり、それも可能になるだろうが、現場はいつか殺人罪
を問われることを覚悟しなければならない。過ちばかりを追いかける精神風土の
なかで、過ちを犯す人間は生きていけない。ばかげたことだが生き残るものは一
人もいないということである。

医師をたたけばもっとはっきり線が引かれると思い第三者機関に期待を寄せる
人も多い。厚生労働省案では、当事者を篩いにかけて絞り込み、処罰権限を武器
に真相を話させることを考えている。篩い分けは容疑の範囲を広げるので漏れは
無いが、この方式で責任追及を行うと、無実の人を多く巻き込むことになる。こ
れは憲法で許される法体系に照らして問題が無いか、少なくとも現場には警戒心
が募る。警戒心が募れば真相の究明はできない。懲罰と透明性は相反する関係に
あることは事実で、そうではないといわれても事実は事実だからそれ以上話は進
展しない。

家族に真相を伝える別な方法がある。事故の詳細を家族が知る権利を法律で認
めることである。それだけで病院が真摯に対応するケースは増えると思うし、事
故の判断は難しいとしても、真摯かどうかは報告書を見れば大体見当がつく。事
故の詳細が明らかになれば、責任の範囲はより明確になり、両者の間で折り合い
をつけることが可能になる。こじれれば民事手続きとなるが、民事は一対一の問
題解決になるので真相究明が困難な場合でも折り合いをつけることは可能である。
もちろん判決は公平に行われ、双方に決定に従う義務が生じる。

第一ボタンの掛け違いは、最初にボタンをかけたときに起き、下まで掛けて行
くと問題があきらかになるが、下から上にかけていくのなら必ず帳尻が合うよう
になっている。下つまり基本に置くべきは人権で、この場合は病人の権利である。
病人権利は相手がどんな立場の人でも等しく定義することが出来、医師の組織が
一本化されていなくても行動の基準になる。病人権利法は欧米に先例があり、権
利の侵害を受け付ける窓口も法的に整備されている。病院も個人経営の医師も、
病人権利に忠実に対応し個別に問題解決を図ればよい。双方に納得が得られなけ
ればその時に初めて司法が難しい線引きをする。その決定にはお互いが従うとい
うのが法的秩序ではないかと思う。

人に死があり医療が人の死に関わる仕事である限り、事故は絶対にゼロになら
ない。このことは遺族の方々や国民全てがわかってほしいと思う。その認識に立
たないとこの問題は混迷を深めるだけである。

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