医療ガバナンス学会 (2009年4月8日 10:51)
東京女子医大の人工心肺訴訟第二審は無罪だった。
日新聞の記事は、詳細に訴訟の経過を示し、
扱いで両者のコメントが載っており秀逸だと思った。
解決のミスマッチも鮮明である。この記事を読んだだけで、
設置法案に関する意見の相違も明らかになった気がする。
文面で見る限り、家族やメディアの期待は真相の解明にあり、
る家族と医療提供者の複雑な感情が交錯し、
を示している。
いるが、この件について私は別な感想を持った。
記事にあるように、無罪とした理由が一審と二審とで異なること、
査報告書が認めた「操作ミス」を関連3学会が否定したこと、
を通じて専門家の間で意見が変ることに戸惑いを感じている」
となどは、
様性は医療側が情報を開示していないからではなく、
下しているわけでもない、医療事故そのものの特性なのである。
いう結果は重く家族にとって受け入れがたい、
えば病院などが事故に責任を持つべきというのは分かるが、
とや責任が取れない出来事も現場では確実に存在し、
出ない。責任追及以外の方法が必要なのだと思う。
本裁判の構造は福島県立大野病院産婦人科事件とよく似ている。
が出した見解が刑事訴追を呼び、
のあと女子医大の件では二審でも無罪になり、
なる解釈が示された。
今話題の第三者機関による事故調査委員会についても同じことが起
試案では院内調査の上に事故調査委員会の調査があり、
る。事故調査委員会には判定権限があるので、
易裁判を配した、いわば二重構造である。
訴えられたほうは関門が一つ増えることになる。
異なる場合は大変である。
三者機関を名誉毀損で訴えるか、
はそのたびに異なる結論になるかも知れず、
雑な議論はさらに複雑になる。
重裁判には法的根拠が示される必要がある。
公平な第三者が入れば必ずはっきりした線が出ると記者氏は期待し
であるが、実際医療事故の原因は単一では無く専門性も高いので、
所在があるのかだれもが判断できるとは限らない。
案では医療事故の定義を厚生労働大臣が決めるとしているが、
いから大臣が決めるんだ、
ある。はっきりしないものに無理に結論を出そうとすると、
もの論争が発生する。
泥仕合になる可能性が高い。
ご家族のコメントにも、
感想が述べられていたが、
この問題は存在しない。
つに確定する必要は無く、
家族にも二つの原因を可能性として説明することも可能である。
階でも再発防止の作業は出来るが、
全対策は取れない。
ないからである。
現場で日常的に行われ、
ンス(症例検討会)でも同じようなことが起きる。
に誤りがあると仮定して議論が出来るが、目的が責任追及になり、
いと思っただけで、議論は誹謗合戦になるか、
は機能しなくなる。
る。
“良い悪いを言わない””誤りに学ぶ”
り、それは世界標準である。この前提は、
ており、そこに責任追及が入れば、
ならない。これは再発防止の議論を妨げ、
れる。一部の事例の解決のために、
界標準に逆行してまで行なおうとしているのである。
解剖も同じで、私の経験では、解剖の結果から振り返って、
を問われることはなかった。見逃しも、見当はずれもあったが、
て糾弾された覚えは無い。
剖にはこの制限は無い。
いう無意識の了解があったのかもしれない。
その後レントゲン診断装置も格段に進歩し、
成績も確実に好くなっている。最高を求める精神風土は、
てミスを判断することになり、それも可能になるだろうが、
を問われることを覚悟しなければならない。
なかで、過ちを犯す人間は生きていけない。
人もいないということである。
医師をたたけばもっとはっきり線が引かれると思い第三者機関に期
人も多い。厚生労働省案では、当事者を篩いにかけて絞り込み、
に真相を話させることを考えている。
無いが、この方式で責任追及を行うと、
れは憲法で許される法体系に照らして問題が無いか、
が募る。警戒心が募れば真相の究明はできない。
あることは事実で、
展しない。
家族に真相を伝える別な方法がある。
めることである。
故の判断は難しいとしても、
故の詳細が明らかになれば、責任の範囲はより明確になり、
をつけることが可能になる。こじれれば民事手続きとなるが、
題解決になるので真相究明が困難な場合でも折り合いをつけること
もちろん判決は公平に行われ、双方に決定に従う義務が生じる。
第一ボタンの掛け違いは、最初にボタンをかけたときに起き、
くと問題があきらかになるが、
になっている。下つまり基本に置くべきは人権で、
病人権利は相手がどんな立場の人でも等しく定義することが出来、
一本化されていなくても行動の基準になる。
利の侵害を受け付ける窓口も法的に整備されている。
病人権利に忠実に対応し個別に問題解決を図ればよい。
ればその時に初めて司法が難しい線引きをする。
うのが法的秩序ではないかと思う。
人に死があり医療が人の死に関わる仕事である限り、
ない。このことは遺族の方々や国民全てがわかってほしいと思う。
たないとこの問題は混迷を深めるだけである。