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臨時 vol 87 医療安全調査委員会設置法案大綱案所感

医療ガバナンス学会 (2008年7月2日 12:33)


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           NPO法人医療制度研究会理事長
           済生会宇都宮病院院長 中澤堅次



<地方委員会の立ち入り調査について>
事故が起きたとき、当事者は障害の回避に必死で、取り調べなどときれいごとを言っている場合ではない。立ち入り調査において、警察手帳のような金ぴかの証明書を提示して、罰則を意識させるやり方は、麻薬Gメンや、国税庁の脱税捜査と同じ取り扱いである。
事故に関連したという理由だけで大きな網をかけ、強制捜査により、その中から犯罪を確定し選び出すという方法は近年あまり聞いたことが無い。応じる義務があるのか、憲法が保障する人権に照らした説明が必要である。
救急で運ばれる人は生命の危機に陥っている。生命の危機に介入することが医師の使命で、力及ばなければミスが無くても死亡することはよくある。死亡した場合に犯罪を疑う大綱の仕組みは、救急で働くものの意欲を下げる。通常の業務を遂行する中で犯罪者とみなされ、自らの嫌疑を晴らさなければ生きてゆけない。これが現場の医師に対して国が報いるやり方なのかと思う。
<事故調査委員会に同業者が入っても医師の自浄作用を高めることにならない>
事故調査委員会に医師がはいることは、疑いを抱く家族には同業のかばい合いとうつる。医師同志が糾弾しあわなければ納得してもらえない構造である。医療事故防止に最も重要なのは、当事者の苦い経験が活かされることだ。当事者が自らが行なった診療を厳しく判断し、真相を究め、対策を講じて家族に説明し、勇気を持って同業に公表することが自律である。理由なき刑罰を受ける可能性が少しでもあれば、自律反省はしないほうが無難だと感じる。業務上過失を犯罪と定義する刑法は自浄作用に大きな障害になる。プロの団体が行なうべきことは、信頼回復のため難しい状況にある当事者を裁くことではなく、真相究明を側面から支え彼らの経験を集団の経験として共有し、再発防止に役立てることである。もともと人を害する意志なく救命のために関わった医療者を、起きた結果により刑事罰につなぐデザインは、家族にもまた当事者にも資するものは何もない。
<中央委員会の役割>
中央委員会のように現場から遠い組織に再発防止の安全活動をさせるデザインを見ると、医療安全の基本をよく知らない人が作ったと感じてしまう。この場合委員会は今どき通用しなくなった古きよき時代の常識を判断の基準にするしか方法がない。医療事故は常識の欠如で起きるのではなく、常識が通用しないところで起きるものだ。新しい常識が問題解決には必要である。現場から遠く、専門性を発揮できない中央委員会の欠点を、この法案は権力で補い懲罰で効果を期待している。このような考え方は医療安全の世界水準とは真っ向から対立する。現場を重視しない日本の中枢の考えに世界中の学者や実務者は驚くことだろう。
<システムエラーを処分する仕組みについて>
本案ではシステムエラーは組織の誤りで、組織の責任として処分することが医療安全につながると考えているようである。言葉の和訳としては正しいかもしれないが、解釈は間違っている。医療事故や安全工学で使われるシステムエラーは、個人の代わりに組織の責任を問うことではない。人は過ちを犯すという前提にたって、誤っても事故につながらない仕組みをシステムとして確立することをシステムエラーの改善といい、もともとシステムが悪いという考え方はない。組織や団体を処分する監視システムを地方行政も巻き込んで作るなどという考えは、医療安全の常識を国家ぐるみで否定することになる。この条項は全面削除が妥当である。
<委員会は事故現場に生じる葛藤を制御できると思ってはならない>
事故の現場には、事故の悪質さを測る物差しは存在しない。ひとりひとり異なる個人を、ひとつひとつ異なる状況で取り扱うことが医療の本質だからである。どこにでも通じる公式はなく完璧な評価も存在しない。善悪の判定は難しく、中央委員会が解決策を出せるものではない。あとになって委員会の判定違いが判明することもあると思うが、そのときの責任は国が取るのか?責任ある答えを出し解決策を見出せるのは、家族も含めた現場の当事者以外には存在しない。委員会に過大な期待を持ってはならない。向き合うべきは、遺族と当事者以外には無いのである。
<医療事故調に家族が求めるものと医師が求めるものは同じか?>
家族が第三者の介入を求める理由は、事故をおこした当事者が真相を伝えず、真摯に家族と向き合わないからである。家族は委員会に事故の真相を解明してほしいと願うのに対して、事故調を望む医師は、同業者が原因を究明し、誤解の多い警察の追及から自らの立場を守ってくれることを願う。納得のいかない死の真相を知りたい家族と、委員会のお墨付きでことを収めたいという人が、同じものを求めているとは思えない。事故で命を失った人の家族は、事故調査委員会を小さく産んで大きく育てるというが、大きくなるにつれお互いに理解し得ないものが別の方向に育っていくのを実感することになるだろう。悪い苗は植えないほうが良い。
<医療は生命のリスク管理>
医療は生命のリスク管理である。予防や学問には緊急のリスクはない。学問に長じていても臨床経験が薄い医師、臨床経験が厚くても狭い領域しか担当しない医師、命に関わらない診療や予防医学に重きを置く開業医師、そういった人たちの多くが第三者の介入を求め、自らも協力しようと申し出ている。彼らは厚労省の威を借りて、リスクの多い現場にいる医師を律することで、失われた市民の信頼をつなぎとめようとしているように感じる。同僚に見放されると感じるならば、彼らはリスクの高い現場に留まる意欲を失うだろう。
<現場の医師が提供できる透明性>
事故調査委員会に疑念を抱き、事故の現場から逃げない医師は、すでに別な方法で透明性を確保しようとしている。透明性は院内調査の最大の目的であり、家族の納得にも再発防止にも大きな力を持つ。大多数の良心的な病院では、院内調査を最も重要な方法と認識し、ひとつひとつ事例を積み重ねて信頼関係を築いている。大綱が、重きを置いて取り締まろうとしている隠蔽や改ざんは遠い過去の遺残と映る。隠蔽改ざんは中央官庁でも同じで、厚労省は隠蔽・改竄・情報操作を実際に行っている。誤りを認めないから、また同じ失敗をすると思われ、信頼が得られない。信頼は被害者が感じるもので、制度が作るものではない。当事者の誠意の積み重ねが必要なのである。
<院内調査の必要性>
院内調査と遺族への公開は重要なことである。しかしこの実行のためにはお金も組織もいらない。病院が守る倫理規範として自らの意識改革のために、玄関に掲げる病人権利に一項目をつけたして、決意を来院者に示すだけで良い。事故の詳細な説明を受ける権利を、家族の権利として国が公に認めるだけでことは達成される。それで不足と感じるなら遺族が訴えにより調査助言が出来る民間の仕組みを作り、政府はその運用を支援するだけでも透明性の確保になる。アメリカは数十年前からこのやり方を病人権利として法制化していると聞く。それでも家族が納得できなければ、憲法にのっとって訴追の権利を行使すればよい。
<おわりに>
日本医師会と日本医学会はこのような法案の成立を今でも本気で望んでいるのだろうか?医者の長たる人たちは目を覚ましてほしいと切に願う。議論をパブコメに送ろう。意見を言おう。意見が正当に扱われるのであればまだ望みはある。
(完)

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