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臨時 vol 3 「マスメディアの問題」

医療ガバナンス学会 (2008年1月15日 14:26)


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                     虎の門病院 泌尿器科
                          小松秀樹

 マスメディアの報道に問題があると指摘する識者は多い。社会に対して負う責任が大きい人ほど、問題点を痛感しているように見える。報道が、社会システムの運用に支障をもたらし、その言説上の意図と異なり、ときとして、人々を不幸にする方向に機能してしまうからだ。メディアの問題は、主たる関心を情動におくこと、それを規範化すること、記事の機械的反復現象を起こすこと、厳密な認識の方法を持たないことにある。  日本のマスメディアは、「被害者」が、悲嘆にくれたり、強い怨念を語ったりするのをそのまま伝えることをためらわない。恨みつらみの感情露出は、論理的な根拠を示すことなく、悪いのはあいつだというメッセージを人々の意識に刻印する。突き詰めると情動しか残らない大衆メディア道徳とでもよぶしかないようなものが、立派に規範として機能してしまうことがある。事故があると、官僚、専門家は、不可抗力だとしても、対応するための費用や権限がなくても、責任をおしつけられて、糾弾される。非難するのは無辜の庶民である。  「生の感情をそのまま報道するのはポルノグラフィーのようなもの」と新聞記者を対象とした講演で、意識的に彼らを刺激したことがある。ある記者は、私の発言が「各記者の心にざわめきをもたらした。しかし、大衆化した社会では、感情面での刺激がなければ新聞もテレビも成り立たないと信じて仕事しているので、二の句がつげなくなってしまう」と記者の受け止め方を解説してくれた。驚いたことに、自分たちが社会システムを破壊しているかもしれないという危惧を持っていないようだ。  ちょっと考えると分かることだが、感情は個人の心の中の現象であり、しかも、一方的なものである。心の中から外部に出すために多少加工されたとしても、一方的であることには変わりがなく、そのままの形では、社会的コミュニケーションは成立しない。コミュニケーションには相手が必要だからである。  山崎正和氏の「先導者なき暴走」と題するコラム(07年11月4日の讀賣新聞)を読んだ。北京の故宮にアメリカ資本のコーヒー店があったが、これが世論の攻撃を受けて撤退したことを取り上げていた。テレビキャスターが書いたブログの記事が発端になり、インターネット上で書き込みが殺到した。中華文明とアメリカ資本主義の対立にまで主張が加熱し、アメリカは出て行けという大騒動に発展した。独裁国でも、世論の暴走があり、それが「頭のない化け物」として姿を見せることがある。日本では記者自身が、中国の民衆と似た行動をとっている。  新聞やテレビの記者は、自分の判断を書かないよう訓練され、評価部分については、常に引用で記事を書こうとする。このため、刺激の強い情動を揺り動かす記事は、個人の良識による制御が及ばず、引用が引用を生むことで、機械的反復現象を惹き起こす。恐るべきことは、記者がこの反復される言説を自分でも信じてしまうらしいことである。結果として、一方的な意見の氾濫が生じるだけでなく、記者はそれ以外の意見を封殺する。  報道が落ち着かないもう一つの理由は、認識の甘さにある。医学の世界では論文の校閲は、その研究領域を熟知していなくてもできる。分野を問わず、チェックすべきことが決まっているからである。仮説が妥当なものとして記載されているか、方法が信頼できることが証明されているか、対象は適切に選択されているか、結果の解釈は妥当か  。科学者の訓練に共通するのは、方法を通して得られた結果から何が言えて、何が言えないのかを厳密に考えることである。記者と科学者の本質的な違いは情報の多寡ではなく、認識の厳密さにある。記者の認識の甘さは、メディアが規範に拠って立つものであり、知識や物を生産したり、原子力発電や航空運輸のような高度なシステムを運用したりする認識が決定的な重要性を持つ専門領域とは思考様式が根本的に異なるからである。  現代の機能分化した社会システム(司法、医療、航空運輸、工業など)は、社 会を構成する部分社会として、外部と内部を峻別し、それぞれの内部で合理性を 形成しつつ、内向きの世界として機能している。ニクラス・ルーマンは言う。 「社会がその作動において閉鎖的である(外部の指示通りに作動することはない) にもかかわらず、否、閉鎖的であるからこそ、(中略)現代社会が人間に及ぼす 直接的作用が一層くっきりと照らし出されなければなるまい。それも、現代社会 が人間性なるものを独自の規範観念として受け容れるかどうかをまずは完全に棚 上げにして。扱われるべきは(中略)個人が自分自身の願望や必要や愛着や利益 について遠慮なしにコミュニケートしてもかまわない、それどころか遠慮なしに コミュニケートしてそれに伴う挫折の負担を引き受ける方がいい、とされること から生ずる結果である。アイデンティティーを保っていること、保ち続けること まで―そのための枠組みが社会によって全く用意されていないにもかかわらず― 要求され、強制される。突如として身体的暴力を揮う傾向が強まりつつあるよう に思われるのも、この関連に属するのであろう」(「ポストヒューマンの人間論  後期ルーマン論集」ニクラス・ルーマン 村上淳一訳 東大出版会)。  マスメディアは、報道に含まれる規範のみならず、報道が人々にもたらす結果 を検証する責任がある。 (同文章は『DOCTOR’S MAGAZINE』1月号のオピニオンのコーナーでも掲載 (http://www.medical-principle.co.jp/magazine/index.html))

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