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臨時 vol 183 「小児科医が見た阪神大震災 5」

医療ガバナンス学会 (2009年8月10日 16:18)


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          【1月30日-2月28日】灘区で見たこと
          神戸市立中央市民病院・元修練医
          濱畑 啓悟

 東灘での初期の活動が一段落した1月末頃、小児科部長から灘保健所に行って
くれという話があった。灘保健所の所長は前の小児科部長のDr.水江で、震災以
来のご心労がたまっているようで、さらに灘保健所職員のDr.角谷が、産前で調
子が悪くなったのだという。そこで当分の間サポートとして灘保健所に入ってほ
しいということだった。
 灘区の様子は以前から気になっており、1月21日頃からバイクで偵察していた
Dr.川島などの報告では、灘区の体制は東灘区よりさらに遅れていると聞いてい
た。そこで1月30日から灘保健所に入ることになった。
 まず任された仕事は、保健所に集まった医薬品を救護班の請求に応じて渡すこ
とだった。そんな仕事は、薬剤師さんの方がよっぽど知識も豊富で、うまくやっ
てくれるに違いない。灘区の薬剤師会や姫路からのボランティアの薬剤師さんが
来られご相談していたが、毎日人が替わって常にいてくれる人はいなかった。
 その頃には全国から救援物資の医薬品が大量に届き、特に風邪薬などは溢れん
ばかりにあった。しかし実際救護班から請求されるのは、ガスター(潰瘍治療薬)
の注射薬や肩こり用の筋弛緩剤などの特殊な薬や、尿道留置カテーテルなど保健
所に置いていないものだった。その都度近くの民間病院の薬剤部にお願いして分
けて頂いたり、東灘診療所や中央市民病院から取り寄せたりして対応した。
 そこへ日本薬剤師会の常務理事の佐谷先生が来られ、どのような薬が必要かと
聞かれた。そこで現状をお話しし、保健所に薬剤師を一人常駐させてほしいこと、
さらに降圧剤やホルモン剤等、特殊な薬を必要に応じて供給してもらえるような
ルートを作ってもらうようお願いした。すると当日から日本薬剤師会から薬剤師
さんが毎日、灘保健所に派遣されることになった。また特殊な薬については、中
央市民病院の薬剤部に連絡して用意していただき、1日分まとめて取りに行くよ
うにした。
 まず灘区の地図をもらい、避難所の位置を一つ一つ確認し、避難者数を書き込
んでいった。この時までに救護所は22ヶ所設けられていた。また区内にある8病
院は一応診療しているという。灘区ではJR六甲道駅周辺や阪神沿線の被害がひど
いようだった。その後はずっと、この地図を頼りに灘区中を動き回ることになっ
た。
 灘区でも実際の避難所の現状を見るために、薬や尿道カテーテルや、時には生
理用品を届けるなど用事を頼まれると「何でも屋」として引き受け、3万円也で
買ったばかりの中古の原付を駆って、出来る限りあちこちの避難所に足を運ぶよ
うにした。避難所によって設備も人口密度も物資の供給状況も様々で、それに伴
う問題点も様々だった。
 鷹匠中学校には日赤の救護班が入り、一つ道を隔てた寿公園では自衛隊の医療
班がテントを張って救護所を作り、いずれも24時間診療をしていた。まず鷹匠中
学校で聞くと、毎日かわるがわる各地の日赤の医療班が交替で入っているとのこ
とで、隣の部屋の患者についても十分な申し送りがされていなかった。また隣の
寿公園の自衛隊の救護所については知っているが、お互いの連絡は無いという。
一方寿公園の自衛隊のテントで聞くと彼らは日赤より早く1月24日から診療を始
めており、2月5日には撤収して中央区の方へ移動するよう命令を受けているとい
う。その頃灘保健所では、灘区内の救護班の連絡会議が3日毎に開かれるように
なっていたが、連絡会議についてはいずれの救護班もご存知無かった。
 日赤、自衛隊双方とも、独自の命令系統で動いており、相互の連絡はなされて
いない。極端なことを言えば、日赤、自衛隊双方が医療過剰と考え、同時に撤退
して医療空白が生じる可能性だって考えられる。少なくとも保健所はそれぞれの
救護班がいつまでいられるのかを把握し、調整する必要がある。そこで双方に保
健所での連絡会議に代表者が参加していただくようお願いした。
 1月31日、第3回の連絡会議に出た。はじめの頃の連絡会議は保健所からの連絡
事項を一方的に伝えるようなものだった。まだ連絡会議に参加していない救護班
もあった。東灘での失敗があったので会議ではできるだけ発言を慎むようにして
いた。
 巡回を担当している奈良県の医療班からは、
 「ひどい交通渋滞の中わざわざ避難所に行ってみても、患者がいなかったり、
すでに医療班が来ていたりすることがあり、非常に効率が悪い。もっと連絡を密
にとって効率的な巡回を組んでほしい。」 等と不満の声があがっていた。
 そこで挙がっている問題点は、基本的に東灘区の会議で挙げられたのと同じも
のだった。そこで奈良県の医療班と協力して、避難所の人数や、医療、食料、衛
生状況、寝たきり老人や妊婦、乳幼児などがいるか、などのことを調査するため
に、調査票を作って診療の傍ら記入してもらうようにした。また昭和大学の眼科
医療班も避難所の巡回をしていたので、同様の調査に協力していただいた。
 巡回医療班の話から、状況が悪いといわれるいくつかの避難所に直接足を運ん
でみた。浜田公園、浜田南公園、灘北公園と呼ばれる所では多数のテントが張ら
れ、居住、衛生環境が非常に悪いと聞いていた。
 灘区内の阪神電鉄の駅は西から岩屋、西灘、大石、新在家とあるが、沿線の被
害はほとんど壊滅的だった。阪神電鉄新在家駅の高架部分は、すでに撤去されて
無くなっていた。浜田公園はそのすぐ南、細長い公園に多数の自衛隊用のテント
が並んでいる所だった。公園には自衛隊の救護班が入っており、診療の状況を聞
いた。保健所の連絡会議のことはご存知無かったので、代表者が参加していただ
くようお願いした。
 浜田南公園はさらに国道43号線を越えた南側で、このあたりは灘の酒蔵として
有名な酒造会社の工場や倉庫が並んでいた。倉庫が倒壊し酒臭い臭いを漂わせた
中に、いくつかの小さなテント村があった。この頃にはパンだけは豊富に供給さ
れるようになっていたが、三食ともパンばかりというわけにはいかないだろう。
 灘北公園一帯は火事があり、登山用の小さなテントやビニールシートを張って
避難していた。焼け残った隣の大韓キリスト教会が炊き出しをして、キムチなど
を振る舞っていた。
 こうして地図を片手にあちこち訪ねて回るのはもともと得意だった。いつも外
国旅行、特に東南アジアや南米、ネパールでやっていることなので違和感がなく、
勘もさえていた。こうして被災地のテント村を回っていて、ふと気付くと、自分
が第三世界を歩いているような気持ちで客観的に見ていることがあった。しかし
ここは紛れもなく神戸なのだ。
 こうして実際に避難所の様子を見て回ると、様々な問題が見えてきた。そこで、
・すべての救護班に連絡会議に出席して頂き、保健所を中心として連絡調整すること。
・巡回班の回っている避難所の状況を把握し、医療や物資の配布を適切にすること。
・指定避難所以外で集まっていて、医療の行き届いていないところを探し出すこと。
以上を当面の目標としていくことにした。
 また東灘区で見てきた事から、灘区にも妊娠6ヶ月以上の妊婦がいるのではな
いか、さらに小児科医としての興味から、1歳未満の乳児がいるのではないかと
考え、保健婦さん達と相談して出来るだけ調査していくことにした。
 そんな中で2月6日から、小児科のDr.大倉が灘保健所にコーディネーターとし
て入ることになった。Dr.大倉にこれまで見てきた灘区の現状と問題点を話した。
そしてさっそく二人で原付に乗って、いくつかの救護所を挨拶して回った。また
救護所、保健所間の連絡にはFAXが必須と考え、救援物資で届いたFAX機械を2人
で設置して回った。
 2月6日、第5回連絡会議では、少しずつ様々な問題点が議論されるようになっ
ていた。この会議で西宮で医療救援の活動してきた関西NGOネットワークのDr.国
井が発言した。関西NGOは今回の震災を機会に集まった医療救援団体が集まって
作られた組織で、西宮体育館に本部を置いていた。そこにはAMDA同様、長年海外
医療救援をやってきたプロ集団であるJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)や
SHARE(国際保健協力市民の会)といった団体が参加していた。灘区内には関西
NGOから六甲小学校にSHARE、灘小学校に東芝病院、また摩耶小学校に福島医大が
それぞれ救護班として入っていた。
 Dr.国井によると、西宮市ではすでに、2月末をメドに地元医師会へ引き継ぎ、
救護班撤収へ向けてのプランが話し合われているとの事だった。これにはまさに
目から鱗が落ちる思いがした。それまで僕は、いかにして医療を行き渡らせるか
という事ばかり考えて活動してきた。しかしいつまでも全国から来た救護班に頼っ
ている訳にはいかない。すでにこの頃には外傷など震災後の急性の医療需要はほ
とんど見られなくなり、救護所の診療内容も大半が風邪や慢性疾患の継続的診療
となっていた。また2月の半ばには、すでに灘区内の開業医の約4分の3が何らか
の形で診療を再開していた。
 それまでは我も我もと全国から医療班が駆けつけ、医療が行き届いていないと
ころを探し出すという、誰もがいわば作戦の展開ばかり考えてきた。しかし一般
に作戦からの撤収は、展開よりもはるかに困難である。それから2月いっぱいDr.
大倉と二人三脚で、灘保健所での救護班間の調整と共に、救護班撤退に向けての
プラン作りに当たることになった。
 その頃灘区医師会としては、救護班に出来るだけ早く撤収していただき、地元
開業医に患者をすみやかに返してほしいという意見だった。それはもっともだが、
これまで見てきた避難所の状況からは、とてもこのまま撤収して大丈夫だとは思
えなかった。いざとなれば市民病院からドクターを動員して、撤退後の救護所を
引き継いでいくことも考えたが、Dr.大倉は患者はあくまで地元医師会の先生方
に引き継いでもらうという考えだった。
 そこでDr.大倉は灘区医師会の若手のDr.本庄と、現状について根気よく話し合
いを進め、撤収に向けてのプランを作られた。それによるとその時点で20ヶ所に
なっていた救護所を、JRの南北10ヶ所ずつに大きく分け、被害の少ない北の10ヶ
所については2月いっぱいをメドに撤収を進め、被害のひどい南の10ヶ所と巡回
班についてはその後状況を見て判断するというものだった。まずは医師会の先生
方に避難所の状況を知ってもらうために、JRの北側の10ヶ所の救護所をそれぞれ
担当して頂くことにした。その上で一つ一つの救護所について、救護所、医師会、
保健所、避難所の責任者の4者の会談を設定し、合意の上で撤収を進めるという
大変根気のいる作業を行った。医師会の先生方との交渉やこれらの会談について
はDr.大倉に一切お任せし、僕は避難所の調査、救護所間の連絡を担当すること
にした。
 ある連絡会議で六甲小学校の方とお話ししていたが、何となく見覚えがある。
ちょうど3年前、松山で開かれた小児科学会の後、石槌山に登ったときの帰りの
バスでお話ししたご夫婦の奥さんで、大阪の病院で小児科医をしているDr.二木
であった。現在はSHAREの医療コーディネーターとして六甲小学校に入っている
という。まさに奇遇であった。
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 六甲周辺も火災が発生し、かなり被害がひどかった。六甲小学校には1500人く
らいが避難し、避難者が教室に入りきれずに廊下に溢れていた。六甲小学校では
SHAREから送られた多数の医療や介護のボランティアがおり、避難者にきめ細か
いケアをしていた。また話題になっていたPTSD(心的外傷後ストレス症候群)に
ついて専門の講師を呼んで勉強会を開いたりして非常に熱心だった。その後も六
甲小学校には何度も足を運び、Dr.沢田らSHAREの方々とは色々な問題点について
話し合った。必要なら巡回診療をする用意もあると言われたが、保健所でも医療
需要を具体的につかんでいなかったので、適切な資料を提供できなかった。
 東灘保健所では1月30日からローラー作戦と称して、保健婦を中心に東灘区全
域の訪問を始めたと聞いていた。一方この頃灘区では、西市民病院の看護婦らの
協力でようやく学校単位の避難所内の状況把握や、独居老人などの安否確認が始
まっていた。そこで保健婦の人手不足に対して、SHAREが用意する看護婦などの
マンパワーをかみ合わせて、巡回や情報収集、介護などに生かそうと考え、色々
と話し合ったが、結局役所とNGOの協力というのは難しく、うまく行かなかった。
 一方指定避難所以外でテントや崩れかけた家に住んでいる人もかなり居り、こ
れらの人々の実態把握が必要であったが、困っている人を一軒一軒捜して歩くの
は現実的には不可能だった。それらの人たちには、様々なボランティア団体が自
転車やバイクを使って、食料や支援物資を届けて回っていた。そのような団体の
一つに神戸YWCAがあり、そういった指定避難所以外にいる人をリストアップして
いた。この頃ちょうどこの資料が手に入ったので、SHAREにお願いして来てもらっ
た看護婦さんに手伝って頂き、このリストを元にして一緒にこういった小さな避
難所を回って、医療事情を調査することにした。
 このリストには避難所名、詳細な住所、避難者数、代表者名、問題点が簡潔に
書かれている。リストを元に地図で探して実際に回ってみると、様々な問題があ
ることが分かった。
 ある公園のテントでは老夫婦がいたが、一人息子を震災で亡くし、ご主人がス
トレス性の胃潰瘍で一時入院し、退院後テントに戻っていたが、心労で精神が不
安定になり奥さんに暴力を振るうということだった。本人と話してみると落ちつ
いていたが、不眠とイライラが続いているという。精神安定剤を渡したが、今後
も精神的ケアが必要と考えられた。
 また避難者数2名という所に行ってみると、傾いて今にも崩れそうなタバコ屋
に70を過ぎた老夫婦がおり、自動販売機だけで営業していた。夜は車で寝泊まり
しているという。腰が痛い他は大きな病気はなかったが、ここにも定期的訪問が
必要だろう。
 またある公園で藤棚にビニールシートを張って作ったテントの中には、地震の
際に腰を打って寝たきりになったおばあさんがおり、近くの整形外科を紹介した。
これらのケースについては保健婦さんに報告し、継続的に訪問してもらうように
した。この巡回調査は1回では終わらず、救急専攻医のDr.八十田の協力を得て翌
日も続けた。
 実際に回っていて印象的だったのは、この最悪の状況下での被災者の明るさだっ
た。  「なかよしテント村」と名付けられたテント群に行ってみると、50を過
ぎたおじさんに、 「この人にダジャレの薬おねがいします。」 と言う人がい
たり、またあるおばさんに、
 「どっか具合の悪い所ありませんか。」 と訊ねると、
 「悪いゆうたら頭ぐらいですわ。頭良うなる薬有りませんか。」 と言う。
 「それやったら今研究中で、あと10年ぐらいかかりますわ。」
この明るさは関西人特有のものだろう。
 またテント群を回っていて気付くことは、テントで生活している人は、学校な
どの避難所に入れないというよりは、むしろプライバシーを求めて、あるいは子
供やペットがいる場合周囲への気兼ねから、自らテント生活を選んでいるようだっ
た。したがってテント生活をしているのは、比較的若くて自活能力がある人が多
かった。また同じ町内でも完全に潰れた家と、あまり壊れなかった家が混在して
おり、明暗を分けていた。
 興味があったのは避難所での乳幼児の生活の実態であった。避難所に赤ちゃん
がいると聞くとすぐに腰を上げて行ってみるようにした。稗田小学校に生後2ヶ
月の赤ちゃんがおり、お母さんがインフルエンザで授乳もできない状態だという。
さっそく保健婦さんと行ってみると、赤ちゃんは元気だったが、お母さんは1週
間ぐらい高熱が続き、起きて授乳することもままならないという。すぐに中央市
民病院に連絡し、小児病棟で母児同室の部屋を確保してもらい、入院してもらっ
た。お年寄りの多い避難所の教室では、乳児がいても周囲の大人はあまり配慮し
てくれないという。
 さらに保健婦さんから、ある公園に生後10ヶ月の赤ちゃんがいて、夜泣きする
という連絡を受けて行ってみた。公園に張られたテントには、3歳と10ヶ月の男
の子がおり、父と祖父母はいたが、母は震災前に家出して行方不明、さらに妊娠
8ヶ月の父の妹が同居していた。すべての負担がこのおばあちゃんに掛かってい
たが、さらにこのおばあちゃんの母親が中央区で一人暮らしで寝たきり生活をし
ており、普段から通いで世話をしているという。子供の方は軽い風邪程度で元気
だったが、このままでこのおばあちゃんが倒れたら、誰も子供達の面倒を見る人
がいなくなる。そこで保健所に戻って保健婦さんと相談し、寝たきりのおばあさ
んについては中央区からのヘルパーを紹介し、公園の赤ちゃんについては保健婦
が定期的に訪問をすることにした。
 またある空き地のテントに生後9ヶ月の赤ちゃんがいると聞いて行ってみると、
国道43号線の南、瓦礫の積み上げられた空き地にテントを張って、9歳、3歳、9
ヶ月の3人の男の子と両親、祖父母が暮らしていた。近くには国道や工場があり
非常に空気の悪い所だった。この家族は前年の12月に入居したばかりのマンショ
ンが全壊し、近くの祖父母の家も全壊したため、一時近くの会社の寮に避難して
いたが、そこからも追い出されて、この空き地に自衛隊のテントをもらって生活
しているという。父と祖父は働きに出ていたが、多額のローンと3人の子供を抱
えて、先の見通しは全く立たない状況だった。
 乳幼児が非常に劣悪な環境の避難所にいるという現実が明らかになった。だが
それぞれのケースで事情が異なり、一概に論じることは出来ない。一つ一つのケー
スを拾ってじっくり話を聞いて対策を考えていくしかなさそうだ。3つのケース
に共通して言えるのは、いずれもこの時点では赤ちゃん自身は健康だということ
だった。しかしいつ病気になっても不思議ではない環境にいる。事実、空き地の
テントの赤ちゃんは、その後発熱し熱性痙攣を起こして病院に連れていったが、
入院させてもらえずテントに戻ったという。結局は突発性発疹で、数日後に訪問
したときには元気になっていた。
 これらの赤ちゃんには、その後もできる限り訪問し、保健所にあるベビーフー
ドを届けたり、乳児にお風呂を無料提供している病院を紹介したり、知り合いで
子供と遊ぶボランティアをしている人を紹介して行ってもらったり、出来る限り
の支援をしてきたが、保健所として、また医師として出来ることはせいぜい訪問
して子供達の健康管理をするぐらいで、残されたローンや住む家が無くなってし
まったこと自体は、どうしてあげることもできなかった。
 母子家庭ならともかく、乳幼児がいるというだけでは仮設住宅の優先順位にも
あがらない。実際、震災から3ヶ月を過ぎた4月半ばにこれらのケースを訪問して
みたが、いずれも仮設住宅には入っていなかった。また公園のテントのケースで
も、結局中央区のヘルパーは断って、相変わらずおばあちゃんが介護に通ってい
た。あの身を切るような寒さが無くなった以外は、本質的になんら改善はみられ
ていなかった。
 そもそも平常時に於いても、福祉といえばまず障害者、次にお年寄りという順
序で、同じく弱者である子供や乳幼児が社会的に省みられることは少ない。この
震災の混乱の中、乳幼児を抱えて途方に暮れている親たちを支援する制度的裏付
けは、事実上皆無に近い。
 一方Dr.大倉と医師会のDr.本庄は、救護所撤収へ向けて着々と調整を進めてい
た。救護所に入って頂いた医師会の先生方は、撤収後の医療体制に向けて積極的
に対応して頂けるようになった。撤収後の救護所には避難者の不安の解消のため、
中央市民病院から派遣された看護婦が相談員として常駐する事になった。また3
月からは東灘診療所に医師が当直することになって、夜間の急患に対する不安の
解消に一役買った。この頃中央市民病院でも、避難所からの転送は無条件に入院
してもらう方針になっており、看護婦の存在と中央市民病院とのパイプが避難者
に安心感を与えたようだ。
 2月の下旬になると、灘区での僕の役割もだんだん少なくなってきており、そ
れと共に徐々に病院への復帰を考える時期に来ていることを感じた。それまで僕
の不在中、小児科の先生方にはご迷惑をおかけしていたので、3月から週1回程度
病院での当直を入れてもらうよう、部長にお願いした。
 灘保健所での僕の活動は、2月いっぱいでほぼ終了することになったが、Dr.大
倉は3月いっぱいまで灘保健所に残り、残りの救護所の撤収に向けた調整を続け
ることになった。

 

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