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臨時vol 33 「川崎協同病院 東京高裁判決 その2」

医療ガバナンス学会 (2007年8月8日 14:45)


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~法の限界と裁判官の苦悩~

患者とともに納得の医療を目指す臨床医の会(臨床医ネット)
代表  小林一彦
副代表 濱木珠恵


前稿では、川崎協同病院の症例の経過を、東京高等裁判所の判決文からわかる範囲で追った。平成10年11月2日、当時58歳の男性が気管支喘息の重責発作を起こし、心肺停止状態で川崎協同病院に運び込まれ、救命措置により心肺は蘇生したが、意識は戻らず、人工呼吸器が装着されたまま、ICU(集中治療室)入院となったが、家族の希望により医師が気管内チューブを抜管したことが、患者さんが亡くなってから約3年後に事件化された事例である。

今回は、東京高裁の裁判官が、この事例を、どのような理論構築で殺人罪という結論に導いたかを追ってみたい。裁判官は、治療中止を適法とする根拠としては、『患者の自己決定権』と『医師の治療義務の限界』が挙げられるとして、この二つのアプローチを仮定し、本件がいずれかの観点から適法とすることができるか否か、できないなら殺人罪の成立を認めざるを得ないことになる、という理論を組み立てている。

この理論に沿って、まず患者の自己決定権からのアプローチの場合を述べているが、「終末期において患者自身が治療方針を決定することは、憲法上保障された自己決定権といえるかという基本的な問題がある」と、冒頭から、大きな疑問を投げかけている。これに対する答えは述べずに、本件のように急に意識を失った者については、元々自己決定ができないことになるから、1)家族による自己決定の代行か、2)家族の意見等による患者の意思推定かのいずれかによることになるとして、患者本人による自己決定から家族による判断へと論点が移る。1)前者については、家族による自己決定の代行は認められないと解するのが普通であること、家族の経済的・精神的な負担等の回避という思惑がつきまとってしまうため、患者による自己決定ではなく家族による自己決定にほかならないことを挙げて、否定せざるを得ないとしている。2)後者については、患者の推定的意思の確認といってもフィクションにならざるを得ない、意識を失う前の日常生活上の発言等は、そのような状況に至っていない段階での気楽なものととり得るとして、やはり否定している。このように、自己決定権という第一のアプローチによって、治療中止を適法とするには限界があると述べている。

次に、医師の治療義務の限界からのアプローチを追っていこう。このアプローチは、医師には無意味な治療や無価値な治療を行うべき義務がないという理論であるが、これが適用されるのは、かなり終末期の状態であり、医療の意味がないような限定的な場合であって、広く適用することは無理があるとしながらも、未解決の問題点を列挙している。1)どの段階を無意味な治療と見るのか問題がある、つまり、救命の可能性がない段階という時点を設定しても、救命の可能性というものが、常に少しはある、例えば、10%あるときは、どうなのか、それとも0%でなければならないのかという問題がつきまとうし、脳死に近い不可逆的な状況ということになれば、その適用はかなり限定され、尊厳死が問うている全般的局面を十分カバーしていない、2)少しでも助かる可能性があれば、医師には治療を継続すべき義務があるのではないかという疑問も克服されていない、3)医師として十中八、九助からないと判断していても、最後まで最善を尽くすべきであるという考え方は、単なる職業倫理上の要請にすぎないといえるのかなお検討の余地がある、4)治療義務限界説によれば、治療中止を原則として不作為と解することが前提となる点でも、必ずしも終末期医療を十全に捉えているとはいい難い、というように、いずれもすぐには国民のコンセンサスには至らない難題ばかりだ。

しかし、これだけ多くの未解決の問題点を提示しながらも、医師の治療義務の限界という理論が適用されるのは、かなり終末期の状態であり、医療の意味がないような限定的な場合という前提に立ち、本件患者の余命の鑑定に基づいて、抜管時点で約1週間後に死に至るのは不可避であったとはいえず、死期が切迫していたとは認められないとして、医師の治療義務の限界という第二のアプローチによっても治療中止を適法とはできないとしている。根拠とされた余命の鑑定は、約1週間、約3か月、最大数年、介護の状況によりその年数は異なる、いやそれよりもっと短い、といった程度の、医学的にはおよそ意味のない推論でしかなく、要するに「わからない」のだから、あまり納得できる説明とはいえないだろう。

さらに判決文は、いずれのアプローチにも解釈上の限界があり、尊厳死の問題を抜本的に解決するには尊厳死法の制定ないしこれに代わり得るガイドラインの策定が必要であろうと述べ、「裁判所は、当該刑事事件の限られた記録の中でのみ検討を行わざるを得ない」、「この問題は、国を挙げて議論・検討すべきものであって、司法が抜本的な解決を図るような問題ではない」とまで記載している。この事例のような個別の医療の状況を、無理に刑法に当てはめて裁くことの困難さを十分に理解し、法の限界を知りながらも、司法手続きに縛られるしかなかった裁判官の苦悩が読み取れる。

しかしながら、最終的には、自らが疑問を提起したアプローチに仮定的に依拠して、「いずれのアプローチからしても、本件医療中止行為は法的には許容されないものであって、殺人罪の成立が認められるといわざるを得ない」と結論している。

現時点で、裁判官が判断のよりどころとすべき法律も国民のコンセンサスも存在しない、グレーゾーンにある事例であることは確かであろう。困難な判断を迫られた裁判官の苦悩も理解できるが、一方で、このような事例において殺人罪の成立が認められてしまうのであれば、現場で働く医療者としては、主治医として関与している患者の病気についての願いを汲んで治療にあたることすらできず、患者の死を受け止め、家族の感情や願いを受け止めることもできなくなってしまう。どんな法やガイドラインを作っても、全国一律のルールに当てはまらないグレーゾーンの患者・家族は必ず存在する。そのような人々に寄り添いながら刻々と変化する病状に応じて誠実に対応した医療者を罰することによって結果として萎縮医療を招くことが、患者・家族、そしてすべての国民にとって、好ましいこととは思えない。最期を迎えようとしている患者と、共に悲嘆の中で関わり、看取っていった遺族・医療者関係を、事後的に行為の一断面だけを取り出して、殺人罪で処断するという刑事司法での領域で決着を図ろうとすることには根本的な疑問がある(参照http://expres.umin.jp/genba/kaisetsu04.html)。

また、ガイドライン策定に期待する向きもあるようだが、全国一律のルールに当てはまらない患者・家族に寄り添い、否応なく訪れる死を患者・家族と共に迎えることが、即ち、逮捕・起訴され、一生犯罪者として扱われることを意味するのであれば、ガイドライン策定によって、医療崩壊は更に促進するのではないか。これについては、稿を改めて述べることにする。

医療の領域においては、一律のルールを定め、当てはまらなければ罪を問うような解決方法には限界がある。むしろ、個別ケース毎の多様な臨床経過と患者・家族のニーズから出発し、様々な可能性の中から当事者自身が最善と思われる解決を自律的に模索していくという対話自律型ADRの確立が求められている。対話自律型ADRこそ状況即応的で、ニーズ応答的で、そして医療者と患者の関係を、悲嘆を超えてつないでいく、有意義な効果を持ちうる解決方法として、大いに期待している。

(参照http://expres.umin.jp/genba/g_news.html,
http://expres.umin.jp/genba/kaisetsu03.html
(参考)この判決文は、大変深い洞察と示唆に富む貴重な考察が述べられている。ぜひご一読いただき、皆様の考察に役立てていただきたい。

――東京高等裁判所判決文「本件抜管に対する評価」から抜粋――
イ(ア)いわゆる尊厳死について、終末期の患者の生命を短縮させる治療中止行為(以下、単に「治療中止」という。)がいかなる要件の下で適法なものと解し得るかを巡って、現在さまざまな議論がなされている。治療中止を適法とする根拠としては、患者の自己決定権と医師の治療義務の限界が挙げられる。

(イ)まず、患者の自己決定権からのアプローチの場合、終末期において患者自身が治療方針を決定することは、憲法上保障された自己決定権といえるかという基本的な問題がある。通常の治療行為においては患者の自己決定権が最大限尊重されており、終末期においても患者の自己決定が配慮されなければならないとはいえるが、患者が一旦治療中止を決定したならば、医師といえども直ちにその決定に拘束されるとまでいえるのかというと疑問がある。また、権利性について実定法上説明ができたとしても、尊厳死を許容する法律(以下「尊厳死法」という。)がない状況で、治療中止を適法と認める場合には、どうしても刑法202条により自殺関与行為及び同意殺人行為が違法とされていることとの矛盾のない説明が必要となる。そこで、治療中止についての自己決定権は、死を選ぶ権利ではなく、治療を拒否する権利であり、医師は治療行為を中止するだけで、患者の死亡自体を認容しているわけではないという解釈が採られているが、それはやや形式論的であって、実質的な答えにはなっていないように思われる。さらに、自己決定権説によれば、本件患者のように急に意識を失った者については、元々自己決定ができないことになるから、家族による自己決定の代行か家族の意見等による患者の意思推定かのいずれかによることになる。前者については、代行は認められないと解するのが普通であるし、代行ではなく、代諾にすぎないといっても、その実体にそう違いがあるとも思われない。そして、家族の意思を重視することは必要であるけれども、そこには終末期医療に伴う家族の経済的・精神的な負担等の回避という患者本人の気持ちには必ずしも沿わない思惑が入り込む危険性がつきまとう。なお、このような思惑の介入は、終末期医療の段階で一概に不当なものとして拒否すべきであるというのではない。一定の要件の下で法律にこれを取り入れることは立法政策として十分あり得るところである。ここで言いた
いのは、自己決定権という権利行使により治療中止を適法とするのであれば、そのような事情の介入は、患者による自己決定ではなく、家族による自己決定にほかならないことになってしまうから否定せざるを得ないということである。後者については、現実的な意思(現在の推定的意思)の確認といってもフィクションにならざるを得ない面がある。患者の生前の片言隻句を根拠にするのはおかしいともいえる。意識を失う前の日常生活上の発言等は、そのような状況に至っていない段階での気楽なものととる余地が十分ある。本件のように被告人である医師が患者の長い期間にわたる主治医であるような場合ですら、急に訪れた終末期状態において、果たして患者が本当に死を望んでいたかは不明というのが正直なところであろう。このように、自己決定権による解釈だけで、治療中止を適法とすることには限界があるというべきである。

(ウ)他方、治療義務の限界からのアプローチは、医師には無意味な治療や無価値な治療を行うべき義務がないというものであって、それなりに分かりやすい論理である。しかし、それが適用されるのは、かなり終末期の状態であり、医療の意味がないような限定的な場合であって、これを広く適用することには解釈上無理がある。しかも、どの段階を無意味な治療と見るのか問題がある。結果回避可能性のない段階、すなわち、救命の可能性がない段階という時点を設定しても、救命の可能性というものが、常に少しはある、例えば、10%あるときは、どうなのか、それとも0%でなければならないのかという問題がつきまとう。例えば、脳死に近い不可逆的な状況ということになれば、その適用の余地はかなり限定され、尊厳死が問うている全般的局面を十分カバーしていないことになる。少しでも助かる可能性があれば、医師には治療を継続すべき義務があるのではないかという疑問も実は克服されていない。医師として十中八、九助からないと判断していても、最後まで最善を尽くすべきであるという考え方は、単なる職業倫理上の要請にすぎないといえるのかなお検討の余地がある。しかも、治療義務限界説によれば、治療中止を原則として不作為と解することが前提となる点でも、必ずしも終末期医療を十全に捉えているとはいい難い。本件でも、ミオブロックの投与行為は、明らかに作為というべきで、これもまた治療行為を中止する不作為に含めて評価するのは、作為か不作為かという刑法理論上の局面に限れば、無理があると言わざるを得ない。

(エ)こうしてみると、いずれのアプローチにも解釈上の限界があり、尊厳死法の制定ないしこれに代わり得るガイドラインの策定が必要であろう。すなわち、尊厳死の問題は、より広い視野の下で、国民的な合意の形成を図るべき事柄であり、その成果を法律ないしこれに代わりえるガイドラインに結実させるべきなのである。そのためには、幅広い国民の意識や意見の聴取はもとより、終末期医療に関わる医師、看護師等の医療関係者の意見等の聴取もすこぶる重要である。世論形成に責任のあるマスコミの役割も大きい。これに対して、裁判所は、当該刑事事件の限られた記録の中のみで検討を行わざるを得ない。むろん、尊厳死に関する一般的な文献や鑑定的な学術意見等を参照することはできるが、いくら頑張ってみてもそれ以上のことはできないのである。しかも、尊厳死を適法とする場合でも、単なる実体的な要件のみが必要なのではなく、必然的にその手続的な要件も欠かせない。例えば、家族の同意が一要件になるとしても、同意書の要否やその様式等も当然に視野に入れなければならない。医師側の判断手続やその主体をどうするかも重要であろう。このように手続全般を構築しなければ、適切な尊厳死の実現は困難である。そういう意味でも法律ないしこれに代わり得るガイドラインの策定が肝要なのであり、この問題は、国を挙げて議論・検討すべきものであって、司法が抜本的な解決を図るような問題ではないのである。

(オ)他方、国家機関としての裁判所が当該治療中止が殺人に当たると認める以上は、その合理的な理由を示さなければならない。その場合でも、まず一般的な要件を定立して、具体的な事案の解決に必要な範囲で要件を仮定して検討することも許されるというべきである。つまり、前記の二つのアプローチ、すなわち患者の自己決定権と治療義務の限界の双方の観点から、当該治療中止をいずれにおいても適法とすることができなければ、殺人罪の成立を認めざるを得ないことになる。ここで重要なのは、いずれのアプローチが適切・妥当かということを前提とするのではなく、単に仮定しているということである。いずれかのアプローチによれば、もちろん、双方によってでもよいが、適法とするにふさわしい事案
に直面したときにはじめて、裁判所としてその要件の是非を判断すべきである。ことに本件については、以下に述べるように、いずれのアプローチによっても適法とはなし得ないと判断されるのである。そうすると、尊厳死の要件を仮に定立したとしても、それは、結局は、本件において結論を導き出すための不可欠な要件ではない傍論にすぎないのであって、傍論として示すのは却って不適切とさえ
いえよう。

 

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