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臨時vol3 「焼け野原から世界をリードするエコーを開発」

医療ガバナンス学会 (2007年8月11日 16:13)


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超音波エコー診断装置開発が評価されて日本学士院賞を受章した
和賀井敏夫・順天堂大学名誉教授

MRICインタビュー vol 20
聞き手・ロハスメディア 川口恭
http://www.lohasmedia.co.jp


――この度は日本学士院賞受賞おめでとうございます。まずは、超音波エコー画像診断装置の開発に取り組むことになった理由を教えていただけますか。

仙台の旧制二校時代、寮に一緒に住んでいた同級生で、大塚孝君と雑賀喜規君という者がおりました。私が順天堂医科大学外科に入局した昭和25年当時、大塚君は海上自衛隊で超音波による潜水艦探知の研究をしていました。一方の雑賀君は石川島重工で超音波による材料検査を手がけていました。秋に3人で集まった時に、超音波を人体検査に使えないかという話になったのが、そもそもの発端で
す。翌年のはじめから、石川島重工の研究室に私が脳の標本を持ち込んで実験を始めることになりました。余談ですが、雑賀君は後に石川島重工の社長になっています。

当時は超音波の人体利用に関して、まったく文献や前例のない状態だったので、超音波が果たして人体を伝わるのか、人体で反射するのか、超音波は人体に有害でないのかといった全くの基本から手探りで始めざるを得ませんでした。安全性については、ウサギの脳に超音波を連続8時間ほど当てて、その間の呼吸や血圧を連続記録し、さらに照射後の病理的な検査するといった方法で確かめました。
これが超音波の安全性を確かめた世界で最初の報告でした。
――なぜ脳の標本だったのですか。

私自身が脳外科の勉強を始めたところで、X線では腫瘍を発見できないばかりに手遅れになる脳腫瘍の患者さんを多く目にしていたからです。「手術の順天堂」「順天堂でダメなら諦めなさい」と言われていても、実際には手遅れで助けられない患者さんが多かったのです。脳腫瘍を早期に発見できるようになればという思いがありました。

後から振り返れば、脳は最も超音波診断が難しい部位でした。基礎知識や前例がないからそんなことになってしまったのですが、ただ、他の国で超音波検査の研究に着手していた方々も脳から始めていたのは、偶然とはいえ面白いところだと思います。超音波検査研究のパイオニアとしては、オーストリアのドシック、米MITのボルト、ヒュータ、MGH脳外科のバランタイン、ミネソタ大のワイルド、リードといった各氏が挙げられますけれど、皆あまりにも研究が難しいために途中から成果が出なくなり、ついには我々の独壇場となっていったわけです。
――研究費は医局から出たのですか。

いえ。助手が自分で勝手に始めた研究ですから、共同研究のパートナーを自分で探すしかありませんでした。そこで手を上げてくれたのが日本無線(現アロカ)です。もちろん満足な研究室もありませんでした。
――初歩的な質問で申し訳ないのですが、なぜ超音波で検査ができるのでしょう。

画像診断装置は、体内を透過する電磁波などが、間にあるものの状態により透過の具合が変わることを利用して、体内の様子を再現するものです。CTやMRI、PETなどは電磁波を用いますが、超音波影像法では読んで字のごとく音波を用います。音波の大きな特徴は伝播速度が電磁波よりはるかに遅いことで、結果として透過波だけでなく反射波を捉えて解析することも可能になります。画像診断に用いる超音波は100万~1000万ヘルツという非常に高い周波数のものです。なぜこのような高周波を用いるかといえば、周波数が高くなると指向性が高まり波長も短くなって解像度が上がるからです。

最初のころは単純に反射波形を見る「Aモード法」の研究をしていましたが、どうも再現性と説得力に欠けるので、魚群探知機やソナーにも用いられている「Bモード法」で人体の断面を描くことができないかと考えました。しかし、このアイデアを工学部の先生や日本無線の技術者に話しても、きれいな海の中と違って体内は障害物だらけだから像になるはずがないと相手にされませんでした。ならばまずは自分たちでやってみようということになり、大学から歩いてすぐの秋葉原まで出かけていって、ジャンク屋で部品を揃えて実験してみたところ、ちゃんと体内の断面が撮れました。日本無線の技術者も納得して、昭和28年に試作品第一号が完成しました。
――研究は注目を集めていたのでしょうか。

いえ、いろいろな医学会に応募しても全く採用されず、物理電気系の日本音響学会で何とか発表を続けさせてもらっていたくらいです。ところが昭和31年になって、突然、ボストンで開かれる国際音響学会から発表させてくれるという招待状が届きました。たまたま学会長が先ほど名前を挙げたMITのボルト教授だったためです。

しかも、この招待状は「エクスチェンジ・ビジター・プログラム」という日米両政府の科学者交換協定に基づいたもので、招待側が20日間の滞在費を負担してくれるという夢のようなものでした。ただし、往復の旅費は被招待者側で負担することになっていました。とりあえず招待状をアメリカ大使館に持って行きましたら、係官が非常に感心してくれました。この年に日本人で招待状をもらったのは2人だけだったからです。渡米の旅費は日本政府が負担するはずなので、この招待状を持って文部省へ行きなさいというので、意気揚々と文部省へ行きました。ところが文部省では、日本政府としては一私立大学の助手に出す予算は全くないので、あなたの大学と相談しなさいというのです。同じ招待状をもらった東北大教授が往復の航空運賃を支給されたのと大変な扱いの差でした。

当時、JALのアメリカ便が運行されていまして、往復が300ドルくらいでした。1ドル360円の時代ですので10万円くらいですね。私の月給が4千円でしたから2年分の年俸に相当します。さすがに自費では無理なので大学事務局とも相談しましたが、教授ですら戦後に外国の国際会議に出席した人がいないという状況でしたので、助手に過ぎない私など問題にもされませんでした。

しかし、このチャンスをみすみす逃がすのは余りにも惜しい。何とか我々の研究成果を発表したいし、世界の研究者とも会って見たいと非常に強く思いましたので、必死の思いで医局員ともいろいろ相談しましたところ、米国へ向かう貨物船の船医になれば行けるぞという案が出まして、大学を休職して日光丸という貨物船の船医になりました。果たして学会に間に合うかどうかは分からなかったのですが、ボルト会長に「こういう訳で行くから、学会に間に合わなくても研究室だけは見学させてほしい」と手紙を出して出発しました。このいきさつは学会で大変な話題を呼びました。
――間に合ったのでしょうか。

はい、奇跡的に間に合いました。そして我々の成果を発表したところ、日本でもこんなに素晴らしいことをやっているのか、と大変驚かれました。私としては、国内の医学界からは相手にされなかったことが世界で評価されて有頂天になると同時に、初めて目の当たりにしたアメリカ文明の発達に度肝を抜かれて、こんな相手と競争になるのだろうかと自信をなくしたのも事実でした。しかし、とにかく研究を続けるぞと気持ちを奮い起こして大学へ戻りました。行く前は、もう大学へは帰れないかもしれないとまで覚悟していました。

その後もいくつも障害はありましたが、地道に乗り越えて研究を続けているうちに、気づけば世界の研究をリードする立場になっていました。
――また大変初歩的な質問で申し訳ありませんが、超音波診断の利点は何でしょう。

患者さんや術者に障害や痛みが全くないこと、装置が比較的小型でどこでも手軽に検査できることです。がんの診断、心臓・循環器系の診断、産科の妊娠や胎児診断に使えます。特に産科分野は、放射線を使えませんので超音波の独壇場です。お産の安全性向上には大いに寄与したと思っています。
――非常に勇気付けられるお話をありがとうございました。大変ご苦労されたとは思うのですが、一方で先生のころは、医師の努力と患者の利益とが一致する幸せな時代だったのかなとも思います。私、『ロハス・メディカル』という雑誌を発行しているものですから、最近の医療不信についてぜひご意見を伺いたいと思います。

私自身もその元凶ではありますが、今の医療は高度機器で武装されていますよね。私が入局した当時は、今に比べれば素手で立ち向かっていたようなものです。一方の患者さんも、メディアやインターネットを通じて様々な医療知識を得ることができます。どう考えても我々のころより状況が良い。なのに、医療への不満は今の方が大きいですね。

“素手”で医療をやる時代がどれだけ大変だったか、医師も患者も分かっていないからでないかという気がします。医師について言えば、私の時代は、たとえば「がん」イコール死刑宣告でしたから、真実を教えないことしか治療手段がないなんてことがよくあったのです。真実を隠し通すのが、どれだけ大変なことか。そして、治療手段がないだけに、本当に患者さんやご家族と一緒になって、とにかくよく話をしましたよ。今は「ムンテラはインチキで、インフォームドコンセントが正しい」なんて言いますけど、画一的なマニュアル医療になってやしないでしょうか。それでは患者さんや家族が誤解するのもある意味仕方ないので、とにかく相手に分かってもらうムンテラこそ医療の基本だと思います。
――マニュアルに頼るのは訴訟対策の面もあると思うのですが。

確かに、医師は組織で働いていながら個人の責任を問われる特殊な職業で、誰も守ってくれないので、守りを固める必要はあります。訴訟の多い米国の場合、たとえ医師免許を停止されても一生棒に振るようなことはないそうですが、日本では何か起きたら一生台無しになりますので、より守りの傾向が強くなるのは仕方ないかもしれません。ただ、マニュアルが絶対視される医療が果たして理想的なのかは問われていると思います。
――患者さん側の問題点は何でしょう。

患者さんの方に関して言えば、マスコミが医療の進歩を誇大に報じるので、病気はみな治るという誤解をしてやしないだろうかと感じます。人間は死なないと無意識に思ってしまっていて、医者のくせになぜ病気を治せないんだ、というのが常識になってしまっている。一方でメタボリックシンドロームのような病気でないリスク段階のことについて随分と気にしますね。マスコミにも少し抑えてもらわないと。丁寧に紹介するのが悪いことだとは思わないけれど、マスコミの報道やインターネットで全部分かるのなら医学部の教育なんて要らないわけで、そこの理解の仕方が難しいというのは分かっていただきたいところです。

自分が何とかという病気だと分かると、日本語から英語のものまでありとあらゆる情報を集めてしまう、そんな医学おたくが増えていますね。残念ながら咀嚼することのできない人がそれをやると、大変な勘違いをします。科学技術がどんなに進歩しても病に冒された人がいて、それを治す人がいる。祈祷師だろうが呪術師だろうが漢方医だろうが西洋医だろうが、できることはできるし、できないことはできないという基本は昔から何も変わらないと思うのですけどね。

ただ、医学界も反省しないといかんところはあると思います。日本学術会議の委員会で脳死の議論をしたことがあるのですけれど、文科系の委員から「あなた方は不老不死の研究をしているんですか」と問われるようなことがありました。「そんなことありませんよ」とは答えたものの、そう見えるのかもしれません。よほど研究の最初の段階で目的を明確にして枠をはめておかないと、科学技術は独り歩きします。代理母やクローン人間のように、実際に人間の根源に手を突っ込むようなことが無限に出てきています。我々が超音波診断を開発したときにも、胎児が生まれる前に非侵襲的に性別が分かる、それを親に知らせるべきかなんてことをマジメに学会で議論しましたが、今考えればかわいいものでしょうか。科
学技術は生み出した瞬間に独り歩きします。原始爆弾なんか最たる例で、あれは自然にできたわけではなく、人間が作りだしたものだけれど、北朝鮮の問題なんか見ても世界中の頭脳が集まってもコントロールできないのですから。そうやって考えると人間は賢いのか愚かなのか分かりませんね。
――患者さんも情報武装するだけでなく、最後には医師を信頼しないとダメですね。

そういえば、『ロハス・メディカル』も内容が専門的すぎませんか。これでは一般の患者さんには難しいのではありませんか。
――そんなことはないと思っているのですが。

そうですかねえ。たとえば2年前に放送されたNHKのプロジェクトX。あれにはやられました。学術的な資料も全部出したのだけれど、だいぶ話を替えられて、単純な美談調サクセスストーリーになってしまいました。取材に協力した関係者は皆カンカンですよ。後日NHKとの懇親会の席で苦情を言ったら「先生の言うような科学的に正確な番組にしたらチャンネルを変えられちゃう。そういう正確な番組は3チャンネルで作ります」と言われて、我々のような研究者は手もなくひねられてしまいましたけどね。

実際にはその単純なサクセスストーリーが世間的には大ウケで、講演依頼が殺到しまして、果ては町内の老人会までからお呼びがかかってしまったんですよ。「プロジェクトXに出た現物の顔が見たい。超音波を受けてみたいんですが、先生のお宅へお邪魔すればよろしいですか」ってなもんで。だから『ロハス・メディカル』のような冊子が本当に患者さんに読まれているとは思えないですけどねえ。
(ご略歴)
1949年 新潟医科大学卒業
1965年 日本超音波医学会理事
1970年 順天堂大学教授
1975年 順天堂大学医学部超音波医学研究所施設長
1976年 世界超音波医学学術連合会長
1982年 日本超音波医学会会長
1986年 紫綬褒章受賞
1990年 順天堂大学定年退職・名誉教授
2006年 日本学士院賞受賞

*このインタビューの患者さん向け部分をリライトしたものが、ロハス・メディ
カル5月号にも掲載されます。

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