1.はじめに -農水省の恫喝-
「今回の群馬県の決定は誠に遺憾である。他の県は間違ってもこれに追随する
ことのないように」
3年前、群馬県が有機リンの空中散布を自粛させるという、全国で初の申し入
れを農薬散布業者に行った際、直後に開かれた地方自治体の農政部担当者を集め
た会議において、農水省からの出席者はこう釘を刺しました(群馬県の出席者か
ら直接聞いたので事実です)。国の補助金なしには地方農政は成り立ちません。
農水省の役人によるこのような恫喝にも等しい「指導」はきわめて効果が高いの
です。そのためか、この画期的な動きは全国に広まることはありませんでした。
ここで問題となっている「農薬の空中散布」とはどのようなものか。日本の環
境政策の汚点ともいうべきこの問題の実態と背景について解説します。
2.農薬空中散布の二つの方法 -無人ヘリと有人ヘリ-
そもそも、農薬(殺虫剤)を空中に一旦スプレーしてしまえば、気流によって
それが何処にどのような濃度で拡がるかは制御できません。しかも散布は初夏の
害虫の発生時に行われるので、高温下で農薬はガス化しやすくなっています。仮
に、農薬を空中散布された農地に隣接する住宅の窓が開いていて、そこに赤ん坊
が寝かされていると想像してもらえば、私の心配が杞憂でないことが理解できる
と思います。毎年、このようなことが日本中の水田で平然と行われていることを
考えると慄然とします。
現在、我が国で行われている農薬の空中散布には二つの方式があります。一つ
は、市街地や住宅地と混在する小区画の農地に行われる無人(ラジコン)ヘリコ
プターによる空中散布で、その多くは水田に対し高度3m位で行われます。もう
一つは松枯れ対策などで行われる有人ヘリコプターによる空中散布で、松林や広
い耕作地に対し高度15m位から行われています。どちらも人体への悪影響の可
能性は否定できません。
3.無人ヘリによる空中散布 -日本のお家芸-
日本では当初空中散布は有人ヘリによって行われていましたが、日本の農地は
住宅地や市街地と混在していて、有人ヘリによる高々度散布には不向きです。そ
こで、ラジコンヘリを使う方法が独自に開発されました。ヤマハやヤンマーなど
が農薬散布用のラジコンヘリを開発し、ラジコンを操作するオペレーターが多数
養成され、無人ヘリによる航空防除は、我が国の国土や農地の状況に合致した理
想的な散布方式として、短期間のうちに全国に普及しました。いまや、全国での
ラジコンヘリ保有数3000台以上という一大産業になっています。
ラジコンヘリの性能や操縦技術では日本は世界最高のレベルを誇り、他の国を
圧倒的にリードしています(こんな小賢しいことを国家事業として推進するよう
な国は、確かに日本以外にはないかもしれません)。しかし、皮肉なことに思わ
ぬ副産物として、日本の専売特許であるこのラジコンヘリはBC兵器散布にすぐに
でも応用できることから、軍事転用可能な技術として大いに注目されています。
VXガスを満タンにしたラジコンヘリが頭上に飛んできたら、これは恐ろしいこと
です。軽々に撃ち落とせないですし。ラジコンヘリはすでに国内需要では飽和状
態に近いので、メーカーは技術ともども(目的を問わず)海外に輸出したいと考
えているようです。実際、数年前に中国にGPS付きの最高機種を安い機種と偽っ
て輸出しようとした大手メーカーが、兵器への転用可能な輸出禁止項目に違反し
たとして摘発されています。いうまでもないことですが、人手ならあり余ってい
る中国が単に農薬を撒くだけのためにポルシェ級のラジコンヘリを購入しようと
するわけはありません。
ところで、無人ヘリ方式の大きな欠点は薬剤タンクの容量が小さく、一回に散
布できる薬液の量が限られていることです。そのため効率よく散布するには、農
薬を地上散布の数百倍の濃度にしなければなりません。高濃度であればそれだけ
農薬は揮発しやすくなります。もしあなたの隣人が夏の暑い日に、二階から超高
濃度で殺虫剤を庭にスプレーしていたら、あなたは黙ってこれを許すでしょうか。
4.有人ヘリによる空中散布 -松枯れは根絶できない-
昨年、出雲市で松枯れ対策として行われた有人ヘリによる有機リン系農薬(ス
ミパイン)の空中散布の直後に、学童ら1200人余りに目や皮膚の刺激症状が
あったことが判明し、出雲市は今年から農薬の空中散布を取りやめました。そも
そも、松食い虫(マツノザイセンチュウ)を媒介するとされているただ一種類の
カミキリムシだけを駆除する目的で、農薬(殺虫剤)を空中から高濃度で散布し
て、その区域のすべての昆虫を根絶やしにするというような、乱暴なことをして
いる先進国は日本しかありません。その一方で、「生態系の保全」だの「生物多
様性」などのお題目を唱えているとすれば、まったく空々しい限りです。「環境
立国」が聞いてあきれます。
松枯れはある意味では自然の摂理です。カミキリムシが媒介するマツノザイセ
ンチュウだけが単一の原因ではありません。また、殺虫剤の空中散布では根絶で
きないことはすでに経験的に確認されています。
(cf.滋賀県琵琶湖環境科学センター)
https://www.lberi.jp/root/jp/05seika/omia/31/bkjhOmia31-2.htm
EU域内や英国では農薬の空中散布そのものが全面的に禁止されています。農
薬規制に消極的なアメリカでさえ、有機リン剤の空中散布は、ウェストナイル熱
などの昆虫が媒介する感染症対策以外の目的では許可されません。空から農薬を
撒けば人体にも生態系にも悪影響を及ぼす可能性があることくらい専門家でなく
ともすぐにわかります。ましてや狭い日本の国土です。地域住民の健康被害はま
ず避けられません。
5.低濃度農薬による健康被害 -感受性の個人差が原因-
有機リンの急性毒性は、サリン事件の例を引くまでもなくよく知られています
が、有機リンに慢性毒性、特に発達神経毒性があるかどうかについては科学的に
結論が出ていません。農薬空中散布擁護論者(農水省・農薬メーカー・農薬工業
会)はこのことをもって、空中散布有害説には科学的根拠がないと主張します。
しかし、発達神経毒性を立証することはそもそも困難というか、まずもって不可
能です。その理由を説明します。
低濃度有機リンによる健康被害は、感染症の重症化、アレルギーなどと同じく
異物や化学物質に対する生体の感受性の違いによって発症します。感染症では過
剰免疫応答、すなわちサイトカイン・ストームが重症化の大きな原因となります。
有機リンはきわめて多様な毒性機序を持ち、未だその一部しか解明されていませ
ん。解毒過程に関与する酵素は多岐にわたっており、それらの酵素活性の違いに
よる個人の感受性の差は、有機リンを浴びても全く無症状の人がいる一方で、そ
れこそアレルギーに近い反応を示す人まで、大きな個人差となって表れます。し
たがって、大多数の人が大丈夫だから無害だという結論にはなりません。数百人
あるいは数千人に一人でも感受性の高い人がいれば、その原因物質は取扱い注意
です。この論理はアレルギー性物質の場合と同じです。
さらに、有機リンの最大の問題点は成長発達段階にある子供の神経組織にどの
ような影響があるかを科学的に検証できないことにあります。人間の高度な脳機
能である思考、判断、情緒、性格などの面で、乳幼児期での有機リンへの低濃度
反復暴露により、ごく一部の子供に障害を来す可能性があると指摘する科学者が
います。また、子供がキレやすい、うつ病が増えているなどの原因として、乳幼
児期の農薬暴露があると極論する人もいます。このような因果関係は動物実験で
は検証できません。少数のサルやマウスを用いて実験したとしても、本来ヒトに
しか備わっていないような高度の脳機能への障害は立証しようがありません。科
学的根拠がないという主張はこれを逆手にとったきわめてあくどい狡猾な議論で
す。水俣病や薬剤エイズへの対策を遅らせた過去の不作為の構図に通じるものが
あります。困ったことに千葉大など一部の園芸学部の御用学者がこれに荷担して
います。医者でもないのに園芸学部の学生数人を被験者にして、人体実験を行っ
て農薬散布による健康被害は認められなかったと報告しています。千葉大もこの
重大なヘルシンキ宣言違反の教授を、軽い処分にしただけで済ませてしまいまし
た。これが医学部の教授であれば人体実験の倫理規定違反は辞職が相当ではない
でしょうか。
6.農薬の空中散布はなぜなくならないのか
日本で農薬の空中散布に対する規制が進まない最大の理由は、農水省、特に林
野庁、住友化学などの農薬メーカー、農薬工業会、それとヤマハ、ヤンマーなど
のラジコンヘリ製造元数社が利権構造でがっちりスクラムを組んでいるためです。
この利権構造を中心になって推進しているのが
(社)農林水産航空協会(会長:元農水大臣官房審議官)、
http://www.maff.go.jp/j/corp/koueki/syouan/045.html
という農水省の天下り法人です。役員には農水省OBが名を連ねています。この
法人の目的は、毎年補助金で官から民へ委託されるおいしい農薬空中散布事業の
継続と拡大です。
一方、環境省の大気や農薬の担当者は農水省からの出向組が枢要なポストを占
めていることから、環境省の規制の動きはきっちり押さえ込まれています。政界
の力関係においても環境省には有力な族議員がいないので、農水族のいいなりに
なってしまうことは想像に難くありません。まさに「省益あって国益なし」の典
型的な見本です。
明日を担う大事な子供たちの健康リスクを軽減することよりも、農薬空散関連
業界の利益の方が優先されてしまう、何と言ってよいか、誠に「情けない」の一
言に尽きる利権構造の実態です。
7.空中散布こそが現実の農薬リスク -残留農薬は目くらまし-
ここ数年、日本では食品の安全安心が大きな関心を呼び、農産物の残留農薬基
準違反が大きな社会問題となりました。たった0.1ppm程度の問題にもならないわ
ずかな超過で、野菜を回収し廃棄するような騒ぎが頻発しました。バカな上にもっ
たいない話です。事実としては、このような野菜をたとえ毎日大量に食べたとこ
ろで、人体には何の影響も起こりません。我が国の残留農薬基準があまりにも厳
しく設定されているからです。しかも、有害化学物質が人体に取り込まれる経路
としては、呼吸を介するものが大部分で、割合とすれば70~80%といわれています。
その上、食べ物から消化管で吸収される場合には、門脈を経由して肝臓を通過す
るために大部分がすぐ解毒されてしまうのに対し、呼吸で取り込まれたガス状物
質は肺胞から直接血流に入り、すぐに重要臓器に達してしまいます。たばこをは
じめて吸ったときに、数秒のうちに頭がくらくらっと来た経験のある人はこのメ
カニズムがよくわかると思います。変な例ですが、覚醒剤や麻薬なども注射でな
ければ吸引するのが最も素早く効率的に体内に作用させる方法です。酒井○子さ
んもこの方法でやっていたようです。
わずかに基準をオーバーした程度の残留農薬違反の農産物は全く健康に影響を
及ぼしません。その意味で、日本の農産物は農薬を使って栽培されていてもきわ
めて安全です。ですから、残留農薬違反で大騒ぎする必要はありません(実をい
うと、有機農法の方がO157汚染の可能性があって危険だとする意見もあります)。
しかし、農薬の空中散布に関しては、住民はどこでどのような農薬を否応なく吸
引させられるかわかったものではありません。危なそうな食べ物は食べないでお
くことができますが、危険な空気といえども呼吸しないでいることはできないの
です。
メディアも残留農薬を問題にするより、現実にあるリスクとしての農薬の空中
散布の危険性を正しく認識して、重大な社会問題として取り上げて欲しいもので
す。