医療ガバナンス学会 (2015年10月5日 06:00)
精神科医
堀 有伸
2015年10月5日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
植民地時代の末期に各地域での経済のブロック化が進み、そこから排除された日本が、開戦へと追い込まれていった事情について説明されたことも良かったと思います。
しかし、ここで検討したいことが一つあります。「経済的に追い込まれて仕方なく」行った行動には、「近隣諸国の資源などの富を軍事的に支配することで自分のものとしたい」という物質的な欲望を満たそうとする主体的な支配欲は関わっていなかったでしょうか。
つまり、「周りに追い込まれて仕方なく」行った行動には、自分も実はそれを望んでいたけれど、自分の意志や決断でそれを行う勇気がなく、無理強いされた機会にそれを実行したのではないか、という疑惑が残ります。
ここには、政治的な優位性や経済的な利益に関心のある誰かが、自分の責任を隠ぺいするために全体の空気をそのような方向に誘導しようとすることとの、共犯関係が成立していた場合もあったでしょう。
私は「日本的ナルシシズム」という言葉を用いた批判を頻繁に行っています。「自分を犠牲にして他者のために尽くしている」という思いが強すぎることには、物事の理解が一面的になってしまう弊害があります。その種類の問題が、日本社会では起こりやすいのです。
人間の生には、「他者を犠牲にして自分を生かしている」側面が必ずあります。まず、食物という形で他の命を奪わないでは、私たちは自分の命を保つことができません。同様に、他人の富を奪わないでは、自分たちの豊かさを保つことができません。しかし、この事実に直面することは、大変な精神的苦痛を伴います。
そのような時に、自分のこころを守るために、「空気」を利用することが可能なのです。「自分は悪いことをしたくなかったけど、そういう空気に逆らえなかった」ということならば、集団が行ったことについて自分が責任を負う必要がないと判断できます。しかし、その場合でも、集団が得た利益からの分配を得ることについては、しっかりと期待しているのが普通です。
このように空気を利用することで、自分も、何らかの支配や搾取を行っている集団の構成員である事実を意識から排除することができます。その上さらに、所属集団の秩序をよく守って抑制的に振る舞っている自分の姿を確認して、そこからナルシシスティックな満足をえることも可能です。
日本人は空気に支配されやすいとも言えますが、空気を利用して主体的な責任を自覚することを回避しているとも言えます。自己主張を行わないことには、後から責任を問われるリスクを回避して、安定した経済的な利益を確保しやすいメリットも存在します。
「滅私奉公」という自我理想にこだわることには、自分が持っている貪欲さや支配欲を意識することから生じる不安や罪悪感から、自分のこころを防衛するという意味もあります。
今回の談話の問題点は、その内容が、ここまでの内閣関係者の論調から突然に変化したことです。少し前まで、首相の近くからは法を尊重する意志がないことを示す言動がくり返されていました。しかし、そのことに反発する世論が強まると、一転して反対の内容を強調する談話を発表しています。
首相は、あまりにも空気を読み過ぎではないでしょうか。
そして、そのようなことならば、また空気が変われば「法などまともに相手にしなくてもよい」という態度が出現するかもしれません。
前言撤回を恥と思わない心理的なメカニズムについては、拙論「ナルシシスティック・パーソナリティーはこころの中にたくさんの分裂を抱えている」で論じさせていただきました。
http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/narcissistic_b_7651150.html
豹変した態度は人を不安にさせます。「本当は、首相は法や戦争責任の問題などどっちだっていいやと考えているのではないか」という疑念が頭をかすめました。
やはり、今回の談話が川内原発の再稼働とほぼ同じタイミングで発表されたことの意味を考えずにはおられません。今回の談話の目的が、「とにかく国民の空気をかわして、原発再稼働の問題等を先に進めること」でないことを、切に願うばかりです。
私は、原子力発電や集団的自衛権などの問題について無条件に反対しようとは思いません。
しかし、それらが準備不足のままに、全体の空気、それも特に関連した権益を持つ人々が作る空気に流されてズルズルと先に進んでしまうことには反対します。
そして、福島の問題が現在のように収束からほど遠い状況で、事故を起こした社会構造上の原因への対処が行われていないままでの川内原発の再稼働は、正当化が難しいと考えています。
今回の談話の内容は、基本的にすばらしいと思いました。
しかし、その談話の提示のされ方において、首相は空気に支配され、同時に空気を利用する傾向があることを疑わせます。今後、首相が、原子力発電や軍需産業の権益と関わる層が作る「空気」から距離を取り、責任のある一貫した態度を保てるのかという点には不安が残りました。
そして、空気に流され過ぎずに、一貫した責任を負える主体性を確立することが求められているのは、首相だけではなく、民主主義の国家に生きる国民一人一人です。
政治の場に現れているのは、国民全体の精神性を反映する鏡像かもしれないのです。