最新記事一覧

Vol.203 抑うつポジションと謝罪の政治性について

医療ガバナンス学会 (2015年10月14日 06:00)


精神科医
堀 有伸

2015年10月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


前回の論考(「”空気”への過剰な依存とその利用~安倍首相の戦後70年談話について~」http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/70-abe_b_7996430.html)に引き続き、安倍首相の戦後70年談話と、それをめぐる議論を見聞したことからの連想を書かせていただきます。

私は、表面に現れた言葉や行動だけではなく、それらを生み出したこころがどのような状態にあるのだろうか、ということに関心を向ける人間です。そして、「謝罪」や「償い」が関係する場合には、その言動を行っている主体が、メラニー・クラインという精神分析家が主張した「抑うつポジション」というこころの状態がもたらす葛藤を乗り越えられているか、それとも「抑うつポジション」のもたらす葛藤に耐えることができず、他のナルシシズムなどの防衛的なこころの状態に陥っていないか、ということに関心を向けます。前者の場合には、自分が傷つけた対象に適切な償いをなして、新たな関係を構築する力があるだろうと信頼します。しかし、後者の場合であれば、どれほどの美辞麗句を並べたとしても、他者を自分の優越性を映し出すための鏡のように用いるだろうと考えて、警戒することをやめないでしょう。ナルシシスティックな主体は、何らかの意味で、他者を自分の強さや優越性を証明するための道具として利用することを、くり返す可能性が非常に高いのです。

抑うつポジションについては、「意識の分裂(split)と抑うつポジション」(http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/depression-concious_b_4735909.html)という論考で紹介させていただきました。簡単にもう一度説明すると、次のようになります。
未熟なこころは、単純に世界を全て味方か、全て敵かの二つに一つにしか体験できません。良い部分も悪い部分もある全体としての自分や対象を体験することができないのです。だから、自分が一体化している祖国のような対象については、それを全く善なる存在であると体験して、そこに少しでも悪(自分からの理解による)を持ち込もうとする対象には、被害妄想的な攻撃をしかけるようになります。
抑うつポジションとは、そのような攻撃を行うことで、自分がかけがえのない対象を壊してしまったという実感を、こころに深く感じることによって生じるこころの状態です。
これは、「とりかえしのつかないことをした」という思いに圧倒される大変に恐ろしい体験です。しかし、この「抑うつポジション」がもたらす苦しみを乗り越えることによってこそ、人間のこころは人間らしい、他者を他者として尊重して愛することのできる存在となります。真の罪悪感を経験してこそ、真の償いを成し遂げることのできる存在へと人のこころは進むことができるのです。
しかし、これは本当に苦痛に満ちた、恐ろしい体験です。そこから逃れたいと痛切に願うのは、当然の人情です。そのためには、どうすればよいでしょうか。
自分が傷つけた対象を、何らかの意味で悪いもの、そして価値がないものであると体験できるようにしておけば良いのです。悪い対象なので傷つけられて当然ですし、価値のないものですから失われても惜しくありません。このようなこころの働きが、罪悪感がもたらす不安に対抗するためのナルシシズムによる防衛です。

第二次世界大戦のことを振り返った時に、日本がまったくの加害者であったと主張することも、まったくの被害者であったと主張することも難しいでしょう。人間関係や社会の出来事というのは、同一の事象であっても、どこに視点を設定するかによって被害と加害が簡単に入れ替わります。その複雑さを超えて、他者と関係を結ばねばなりません。
「日本的ナルシシズム」という言葉を使う時には、次のような事態も念頭においています。日本が被害者であった面の経験については承認されます。しかし、日本が加害者であった面については決して受け入れようとしません。これは、ナルシシズムによる防衛を維持しようとするこころの働きです。狭い形で「国体を護持すること」が、真であり善であり美であると体験されているのでしょう。しかしこれでは、抑うつポジションの葛藤を超えて、本当の意味で他者への償いと関係の再構築が可能な主体に達することができません。
日本社会全体が一つのこころを持っていると仮定してみましょう。その場合に、日本は無謬であり、決して欠けたところのない存在であるという信念のもとに、その信念に添わない対象を悪と決めつけて徹底的に攻撃しようとするこころの働きが強まることがあります。私はそのようなこころの働きを「日本的ナルシシズム」と名指して、批判したいと思います。
表面に現れる謝罪の言葉だけであるならば、ナルシシスティックなこころでも実践可能です。その言葉の奥で、言葉を発する主体が、抑うつポジションのもたらす苦痛を体験して乗り越えたのか否か、ということが重要なのです。

さてここで、少しトリッキーな形で議論を展開させたいと思います。
「日本的ナルシシズム」を悪と決めつけて、それに徹底した攻撃を行っている時の私のこころは、別の形のナルシシズムに陥っているのではないでしょうか。
それと同じように、為政者の一挙一動を監視し、それに対して重箱の隅をつつくような攻撃をくり返す一部の左派のあり様も、別の形でのナルシシズムに陥っています。
悪いけれど強いのが、日本的ナルシシズムでしょう。その強さに私は依存し、それに守られ、それによって豊かで安全な生活を送ってこられたのではないでしょうか。もし日本的ナルシシズムが完全に破壊されてしまうようなことがあれば、他国からの侵入や支配を許してしまうかもしれないという右派の懸念は、まったく根拠のないものではないと考えます。
従って、右派は「反省しろ」という左派からのプレッシャーに対して決してナルシシズムの構えを放棄することができません。そうなると、左派の方もそれに対抗するナルシシズムを放棄できなくなる、そのような膠着状態が生じています。
力によって他者に抑うつポジションの体験を強制することはできません。それは、自然に起きることを待つしかない、与えられる出来事なのです。強引にそれを引き起こそうと試みれば、ほとんどの場合にナルシシスティックな方向への体験の劣化が起きます。

この隘路を脱するために、英語では罪に相当する言葉として、”sin”と”crime”の2種類が使い分けられていることを参考にしたいと思います。個人の精神生活の内面における出来事と、公的で社会的な文脈における出来事を、区別して考える必要があります。
日本の戦争責任について、「永久に謝罪し続けなければならない」という主張がなされることがあります。私はそれに対して、各日本人の内面生活におけるものならば、”yes”と回答し、国際政治などの場面におけるものならば”no”と回答します。
本論の冒頭で説明したような抑うつポジションの体験は、宗教的な懺悔の場面やカウンセリングルームの中のような、閉じた個人的な空間でなされるのが適切です。精神療法家の部屋の中では、通常の社会通念上は認められないような内容であっても、語られることが許容されます。それは、社会や共同体の空気から自由な、個人的なこころの空間が広がっていくために必要なプロセスなのです。そのようなプロセスを丁寧にたどっていくことで、抑うつポジションを体験してそれを乗り越えるための準備がなされます。
個人主義という言葉が、個人と集団を対立させた上で集団よりも個人を優先させることだと理解されることがありますが、私はそれに反対します。もし個人主義がそのようなものだとしたら、集団主義の方が勝っている点が少なくないでしょう。私が理解して尊重する個人主義とは、それぞれの個人が集団に添いつつも、集団の要請から自由な、自分自身や普遍的な存在と対峙するためのこころの領域を持っていることを尊重する立場です。
秘密が守られない、自分にとっての忌まわしい体験がすぐに公開され、激しい非難にさらされるような状況で、自分の中の「悪」に直面できるような強い人間はほとんどいません。そのようなことを強要すれば、逆説的にナルシシズムによる防衛が強まってしまいます。

日本の戦争責任が話題となる場合に、一部の左派の主張は、精神の内面性において求められるべきことを、社会的・政治的場面で実践し続けることを求めているように聞こえることがあります。その場合に、右派からなされる「国益に反する」という反論は、適切であるように思われます。
国際社会の現実の中で、70年前の戦争について日本が”crime”としての責任を追及され続ける立場に留まることは、避けるべきです。一つ断っておきたいのは、被害妄想的な攻撃性を外に向けることができない場合に、それを内向させて自分を攻撃するような自虐と、抑うつポジションにおいて体験される真の抑うつとは、近くにあったとしても質が異なっているということです。残念ながら、巨大な利害がうごめく国際政治のような場面では、関係諸国が圧倒的な「悪」として振る舞う危険性を念頭において行動しなければならないのは、当然のことだと思います。先に謝ることで、相手がこちらを攻め込むことについての道義的な正当性を奪うことを可能にする政治性の高い「謝罪」が、必要とされることもあるでしょう。そのような意味でも、国際政治の歴史と現状を踏まえた上で、安倍首相が発表した戦後70年談話を、私は大変優れた内容であったと考えています。

そして、公的な場面とは別の、私的なこころの領域での出来事が重要です。
相互にナルシシズムをぶつけ合う相互監視が行われる中で、抑うつポジションを体験できるこころが育つことは可能なのだろうか、という不安を感じます。望みの一つは、そのような葛藤がくり返される中で、ナルシシズムの部分的な破壊と修復がくり返され、それが成熟して柔軟なものとなっていくことです。ナルシシズムの構えが緩んで柔軟になることが、抑うつポジションを体験するための重要な準備となります。

抑うつポジションの体験は、ある意味で一回限りの特権的なものです。自虐癖とは異なります。
それと同時に、こころというものが持つ性質のために、抑うつポジションは不断に永遠にくり返されるものでもあります。
それは日本人が過去の戦争を振り返る時だけではなく、あらゆる立場の人が、何らかの形で他者を、自分の抱いた羨望や怒り、競争心、支配欲や貪欲さのために傷つけてしまったことを知った時に、くり返される体験なのです。

抑うつポジションの体験を通過した先で、こころの全体を統括する、一貫した責任主体たりうる自我の働きが可能となります。そして、ナルシシズムの一部は超自我の中へと引き継がれ、自我に適切な助言や警告を与える存在として働くようになるのです。

 

MRIC Global

お知らせ

 配信をご希望の方はこちらのフォームに必要事項を記入して登録してください。

 MRICでは配信するメールマガジンへの医療に関わる記事の投稿を歓迎しております。
 投稿をご検討の方は「お問い合わせ」よりご連絡をお願いします。

関連タグ

月別アーカイブ

▲ページトップへ