医療ガバナンス学会 (2015年10月29日 06:00)
前衆議院議員(元財務省官僚)、東京大学大学院客員教授、松田政策研究所代表
松田まなぶ
2015年10月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
このように、医学部新設は極めて例外的なケースに限られていますが、全国一の医師不足地域とされる埼玉県に所在する、主として看護師を養成している某私立A大学が医学部新設を強く要望しています。ただ、政府の方針では、少なくとも国家戦略特区なり地方創生特区として認定された地域でなければあり得ないということになっています。どれだけ必要性が高くても、どれだけ住民のニーズが強くても、専ら医師数の増加だけを正面に掲げた医学部新設はとても無理な状況のようです。
そこで、医学部新設につながる特区を埼玉県が申請するとすれば、それはどのような内容のものなのか、その試案づくりに関して筆者がA大学の理事長のお手伝いすることになったのですが、そこから見えてきたのは、今後の日本の医療システムを考える上での重要な論点でした。
以下、現段階での試案について述べたいと思います。その内容は、筆者が長年にわたり社会システムデザインの「不肖の弟子」としてご指導をいただいている横山禎徳氏からのご提案を踏まえたもので、東大医科研の上昌広教授からも貴重なアドバイスや情報提供をいただきながら、筆者の文責でまとめたものです。
超高齢化社会に適合した医療システム改革の必要性など、真正面から医療問題に取り組もうとする立場からは、この構想に多くの関係者が賛同してくれます。しかし、実際に動かすとなると、各人が置かれた立場の制約が大きいようです。
もし、これが医療問題のソリューションとして正しい方向なのであれば、世の中を動かすのは世論という時代です。今の安倍政権も改革に向けた求心力の強い政権です。共鳴の輪が広がることを期待したいと思います。
●医学部の定員削減方針は果たして正しいのか。
日本が医師不足状態にあり、これに直接応える対策が医学部の新設であることは論を待たないはずです。なかでも埼玉県は、人口当たり医師数だけでなく、医学部当たりの人口も723万人(千葉県は619万人、全国平均は165万人)と、全国ワーストワンです。
その結果として、埼玉県は千葉県とともに、県外の医学部から医師が大量に流入する地域となっています(参考1参照)。その主な流入元は東京、東北、甲信越です。国民的な関心は地方の医師不足であり、埼玉県はこれに拍車をかけることで、周辺の都県に迷惑をかけていることにもなります。
対策は、埼玉県、千葉県での手当てです。宮城県や成田市の次は、埼玉県に医学部を新設することが喫緊の課題ではないでしょうか。同県での医学部新設は、県内への医師の定着のみならず、全国的な医師不足対策の上でも必要となっていると思われます。
しかし、そもそも医師数を増やすことについては、次のような反対意見があります。
第一に、「医療崩壊」が社会問題となったことから、政府は2008年度から医学部の増員へと方針を転じましたが、2012年時点での医師数は30.1万人と、10年前に比して4.1万人増えており、今後、政府は2019年度まで増員を続ける方針なので、医師養成には8年かかることを踏まえると、このままでも2027年度まで、医師数の増加が続くということです。
第二に、他方で、65歳以上の高齢世代の人口は2042年をピークに減少していくということです。日本の超高齢化がピークアウトすれば、人口の減少とともに医療需要も減少するので、医師数を増大させても、いずれ医師過剰を招くという見方です。
最近では、政府は医療費膨張を抑制するためにも、2020年度以降、医学部の定員を削減する方針である旨の報道もなされました。恐らく、筆者がかつて勤めた財務省の立場からみれば、このような理屈になるのでしょう。しかし、財政の論理だけでは重大な公益が見失われることが往々にしてあります。先日の豪雨による堤防決壊が「事業仕訳」の結果だったという話がありますが、本当だとすれば、人命とどちらが大事なのかということになるでしょう。少し慎重に考えてみたいと思います。
まず、足元をみると、医師も「超高齢化」が進み、死亡等による抹消手続きがなされない限り現役医師としてカウントされ続けるので、統計的医師数よりも現場の病院等での医療能率は一層低下しつつあるという指摘があります。例えば、日本医療労働組合連合会が病院に勤務する医師を対象に行った調査によると、3割の医師が「過労死ライン」である月80時間以上の時間外労働を行っている実態が明らかになっています。
出発点が稼働医師数の圧倒的な不足状態である中で、今後、現状を続けたところで、日本の医師不足状態が解消するとは見込みにくいようです。2035年においても、60歳以下の男性医師は2010年に比して4%しか増加せず、2050年までみても、特に医療に対するニーズの高い75歳以上人口当たりの実働年齢医師(75歳未満、あるいは60歳未満)の数は、首都圏(東京、茨城、千葉、神奈川、埼玉)では概ね減少が続き、中でも埼玉県では減少が顕著であることを示す推計もあります。
さらに重要なのは、いまや、医師が専ら単なる医者を営んでいられる時代ではなくなっているということではないでしょうか。その点にこそ考えるべき論点があると思われます。
●多様な医療人材が必要な時代に
ここからは横山禎徳氏の指摘ですが、そもそも日本の現在の医療システムは、1961年の国民皆医療保険制度の導入時に出来上がったものです。当時は、人口構成がピラミッド型だっただけでなく、国民の主要な疾患は感染症という、すぐに治る形態の病気でした。
しかし、人口構成が逆ピラミッド型になり、主要な疾患が循環器系疾患やがんなどに代表される慢性病へと変化し、社会の高齢化がこれを促進しているこんにち、多くの国民が、「完治」が定義上あり得ない疾病と長く付き合っていかざるを得ないことにどう対応するかが医療の課題になっています。医療システムは、こうした時代の変化に応えられるよう、再設計が必要な局面にあります。
慢性病は身体のみならず、心にも病をもたらします。急性症の場合は治れば心も元気になりますが、完治しない病は心の問題を伴います。医師は心身の両面に対応しなければならなくなっています。米国では両面を診る体制づくりが進んでいますが(米国の健康関連支出170兆円のうち30兆円が心のケアとされる)、医師の関心が人間よりも身体的な疾病に集中している日本は、この面での遅れが大きいようです。
従来型の純粋医療以外に、様々なタイプの医師が必要になっています。米国のメイヨークリニックは、慢性病には様々なタイプの医師が必要であることを示しているとされますが、日本で同様な医療クラスターを形成しようにも、そのような医師を訓練する場がありません。
医療そのものだけでなく、臨床もマネージメントも含め、様々な能力を訓練する医学教育と実践の場が日本には必要です。
A大学の理事長は、医療以外にも他分野の学問や職業の経験を有する多様な人材に医学教育を行うために、医学部入学年齢を多様化する「再チャレンジ構想」を提案しています。特に、東京に隣接する埼玉県の場合、こうした再チャレンジを求める人材が集まりやすい立地上のメリットもあるようです。
●超高齢化社会の新しい社会システム設計
活力ある超高齢化社会の運営モデルの構築は、21世紀前半における日本の国家目標に据えても良い大テーマです。いずれどの国もが高齢化を迎える21世紀の世界で、他国に先駆けて人類が経験したことのない社会に突入する日本にとって、これは課題先進国として最も大義名分のあるテーマといえます。同時に、経済社会全体に最も広範な影響を与える「全体システム」の再設計を伴う課題でもあります。
ここにおいて日本が、世界が参考にできる魅力的なモデルの構築に成功すれば、それは21世紀を通じて日本に世界の中での優位性と活力をもたらすことになるでしょう。
では、そのモデルを何処で構築するかですが、それは、一定規模以上の人口が存在し、しかも、その人口が今後、全国の中でも急激に高齢化していく地域ということになります。その条件を最も備えているのが神奈川県と埼玉県です。神奈川県では「未病対策」が進められています。埼玉県では、医療のあり方そのものを中心テーマに据え、医療システム全体の再設計というアプローチから、より根源的な課題解決モデルを構築することが考えられるのではないでしょうか。
その際、問題の中心にある慢性病対策は、ひとり医療システムのみでは対応しきれない課題です。社会の全体システム設計の観点から、医療を超えた問題解決を図る必要があります。例えば、的確な情報提供、住民の健康管理、コミュニケーションの場の形成などが挙げられます。
大事なのは「健康寿命」とされる中にあって、自らの健康は自らマネージする能動的な国民を増やしていく必要があります。孤独死が増大していますが、他者との会話を全く欠く生活を送る高齢者に人との接触や外出の機会を与えるコミュニティーの形成も、健康対策上の課題となっています。心の緊張感をもって生活する人々を増やすことは、超高齢化社会の重要なテーマです。
感染症とは異なり、慢性病の場合、人々がまちを行き交い、相互に交流することは可能であるだけでなく、望ましいことです。その際に高まるニーズがICTです。正確には、SIDT、すなわち、センサー・インターネット・デジタルテクノロジーと呼ぶべきもので、動き回る患者を24時間モニターし、センターとつながる仕組みが求められます。
情報技術は慢性病との親和性が高く、健康マネージメントには医療のみならず、情報科学など様々な分野の科学技術を駆使することが必要になります。
さらに視野を広げれば、健康・医療システムは、超高齢化社会の「経営」システムを構成する社会システムの一つであり、その再設計は、他の社会システム、例えば、住宅システム、高齢者雇用システム、短期滞在システムなど、地域の様々な社会システムと有機的に結び付くことで、「地方創生」にも大きく寄与するでしょう。医療や健康を中心に関連する産業と有機的な連携が図られることになれば、地域経済の活性化にもつながるはずです。
●「健康マネージメント特区」構想(仮称)
慢性病を中心とする医療システムは現在の日本には未だ存在しないというのが、横山禎徳氏の指摘です。これを地域の全体システムとして構築することを「特区」として試すこととし、必要な規制改革措置や資源投入を図ってみてはどうかというのが、筆者の提案です。そこには、その中核となる病院と、システムをマネージメントする仕組みと、そのニーズに応えられる医療人材を育成する基本的機能としての医学部を設置することが不可欠だということになります。
こうした「特区」を設けて日本全体の課題解決モデルを構築する場は、何も埼玉県に限られるものではないかもしれません。しかし、解決すべき課題が集中する埼玉県であれば、その最初のチャレンジの場として十分な大義名分があるのではないでしょうか。
特に、埼玉県の場合、医療人材の確保を病院の誘致に求めるだけでは、同県が全国から医師を吸引している構造は是正されないことになります。やはり、新しい社会システムを構築する中で、新しいタイプの多様な医療人材を地元で育成し、このことを通じて県内での医師確保を図ることが有効だと思われます。医学部の新設には、それぐらい大きな構想と、日本全体の課題解決という大義名分の中での位置づけが不可欠でしょう。
とはいえ、以上は荒っぽいスケッチに過ぎません。医療界始め、各界の有識者、専門家、実務家の皆さまから、お知恵を寄せていただく必要があります。もし、これを熟度ある構想へと仕立て上げることができれば、日本の医療問題に正面から向き合う形での課題解決の突破口になるのではと考え、本稿を一つの問題提起として発信することといたしました。
【参考1】医師養成:7県で半数以上流出 育てた医師定着せず
~毎日新聞(2015年04月12日)記事より抜粋~
地元の大学で養成した医師のうち、全国7県で半数以上が他県へ流出していることが慶応大などの研究チームの調査で分かった。多くが千葉や埼玉、兵庫など大都市近郊の都市へと流れたとみられる。
47都道府県別に、1994年から2012年までの18年間に医学部を出て国家試験に合格した医師の数を累計。実際にこの間に増えた医師数と比較し、増減を人材の移動とみなした。
その結果、養成した医師のうち他県へ流出した割合が最も高かったのは石川で68%。島根、鳥取、高知、秋田、青森、山梨も含め計7県が50%を超えた。地方からの流入が多いと思われていた東京は、養成数の16%にあたる医師が他県へ流出していた。
一方、地元で養成した医師と比べたときの流入した医師の割合が最も大きかったのは千葉で232.3%。続く埼玉も、養成した医師の倍以上の流入があった。両県とも人口は多いが、医学部を持つ大学は1校しかなく、地方で養成された人材を吸収している構図が浮かんだ。
<養成された医師のうち、県外に流出した割合>
(1)石川68%、(2)島根58.9%、(3)鳥取56.4%、(4)高知54.4%、(5)秋田53.9%、(6)青森53%、(7)山梨51%、(8)福井49.2%、(9)徳島46.9%、(10)佐賀44.8%
<養成した医師に対する流入した医師の割合>
(1)千葉232.3%、(2)埼玉225.6%、(3)兵庫72.7%、(4)静岡68.3%、(5)広島57.3%、(6)茨城40.9%、(7)宮城36.1%、(8)岐阜33.5%、(9)神奈川32.3%、(10)長野23・8%
※上位10県 慶応大など調べ
【参考2】首都圏の高齢化の進展
2035年における65歳以上人口の実数を指数化(2005年=100)すると、全国では144.6に対し、埼玉県は182.3、神奈川県は182.9と、いずれも1.8倍以上になるものと推計。ちなみに、千葉県は1.70以上、東京都は1.50以上。この要因としては、団塊世帯が高度成長期に非大都市圏から首都圏に流入したことが挙げられている。