◆ 日本におけるライフサイエンス分野の問題
日本は、自動車産業などの高い技術力を武器とし、国を発展させてきた。とこ
ろが、最近では生産コストの低いアジア近隣国に、この分野の主導権を奪われつ
つある。日本が、科学技術大国を目指すには、新しい産業分野の開発は不可欠で
ある。次世代の産業のひとつの目玉となる分野が、ライフサイエンスである。し
かし、日本は、このライフサイエンスの分野の競争力が低い。これは、新規の医
療を海外から輸入する体質があるためである。新しい医療を海外から輸入するメ
リットは、安全性がすでに確認されている点である。つまり、日本は諸外国に比
べ、安全性に極めて敏感であり、新規の医療を推進するよりも、新しい医療で安
全を損なうことを防ぐことに重点が置かれている。国民の安全を担保するという
観点から言えば、この新しい医療を輸入するという体制もひとつの考えとし成立
してきた。しかし、ライフサイエンスを次世代の産業と捉えると、新規の医療を
日本において確立するための新しい戦略が不可欠となる。日本は、欧米と異なり、
ライフサイエンスが次世代の産業として重要であるという認識が薄いため、日本
でのライフサイエンスに対する戦略を検討する上で、欧米の方法をそのまま取り
入れることは難しい。日本でライフサイエンスを産業として進めるには、国や国
民が、ライフサイエンスの重要性を認識するべきである。且つ、安全性がすでに
担保され、臨床応用が実施されている分野を強化すべきである。現時点の日本に
おいては、基礎医学の研究を推し進めても、臨床応用の段階になると安全性の問
題が解決できず、結局は、海外での臨床例を待つことになる傾向にある。もちろ
ん、将来的には基礎医学から臨床応用の道を確立することは必要である。ただ、
日本が新しい試みとして、ライフサイエンスを産業化するのであれば、実現可能
な分野から力を入れるべきである。
◆ オバマ大統領の科学技術政策
世界的な経済不況に対して、米国では、オバマ米大統領が経済活性化の「切り
札」とする大型の景気対策法案を通した。この法案は、2008年9月の大統領選挙
中に科学技術分野のオバマ陣営の方針を発表した「Investigating in America’
s Future (アメリカの未来への投資)」を実施したものである。
この法案の内容は、(1)公正な科学政策の再構築、(2)基礎研究への投資
の拡充、(3)理数教育の強化、(4)民間でのイノベーションの促進、 (5)
21世紀のグランド・チャレンジへの対応 から成る。この中で注目したいのは、
「公正な科学政策の再構築 」と「21世紀のグランド・チャレンジへの対応 」で
ある。この2つは、現在米国で探索医療(Translational Research, TR)の研究
に従事する私の研究環境に大きな影響を及ぼした。
公正な科学技術政策の再構築は、科学的根拠に基づく意思決定体制の強化をま
ず提唱している。この項目が最初に掲げられたのは、米国でも、科学技術政策が
科学的根拠以外の外圧により決定されていることがあることを意味している。真
の競争力を持つためには、科学技術政策は科学的根拠に基づく基本姿勢を貫くこ
とが大切であると示された。この方針を実施するために以下の戦略が示された。
(1)科学技術担当大統領補佐官を任命することで、大統領の国内外の政策に対
する意思決定に直接参画し、科学技術およびイノベーション面での助言を行える
ようにする。つまり、大統領の意思決定に対して直接助言が行える立場の人材を
確保した。
(2)科学技術の素養に基づく意思決定が必要な上級職に科学技術に精通した人
物を据えることとした。上級レベルの職員を選択する際にも科学的素因が要求さ
れることとなった。
(3)科学技術諮問委員会の中立性を確保するために委員を選出する際の明確な
ガイドラインを新設する。科学技術政策は、委員たちの議論の質がそのまま反映
されるために、委員の選出方法は極めて重要である。このため、委員を選出する
方法を明らかにするガイドラインを作成することとしている。このガイドライン
は中立性を保つ意味でも重要となる。
(4)科学的公正さに基づく政策決定を行うために、連邦政府が関係する研究の
評価および公開のための明確なガイドラインを作成し、研究結果を迅速に公開す
る。この段階でもガイドラインを作成し、何を目指し研究を公募するかを示し、
実際に採択された研究がこの目的に合致していることが発表されるわけである。
以上のように、オバマ政権では、徹底して科学的根拠を重視した科学技術政策
を行うことで、新規性に富むそして質の高い研究が実施されることを目指してい
る。もちろん、今までも、米国では公的資金による研究採択は厳正な審査のもと
実施されてきた。それにも関わらず、ことさら公正な政策の再構築が強調される
ことは、研究課題の採択は、今後の科学技術の方向性を決定するために極めて重
要と認識されていることに他ならない。
もう一つ、注目したい項目が21世紀のグランド・チャレンジへの対応である。
科学技術による新規課題の解決を21世紀のグランド・チャレンジと呼んでおり、
特にクリーンエネルギー、医療、製造技術、交通、農業は前政権よりも優先度が
向上した。この中で私たちに直接関係するのが、医療への研究費の増額である。
この研究費の増額を受けた研究分野には、探索医療(Translational Research,
TR)に加え、前政権ではサポートを得られていないES細胞やゲノム医療などを
含む15項目が選定されている。米国が得意とするTRをさらに強化するというこ
とは、日本もこの分野を整備しなければ手遅れになると危機感さえ抱かせる。
今年に入り、21世紀のグラント・チャレンジの課題が発表され、全米の科学
分野はにわかに活気づいた。ライフサイエンスではアメリカ国立衛生研究所
(NIH)チャレンジグラントとして2年間で2
00億ドル(およそ1.8兆円)の研究費
が準備されている。このグラントは、全米中に知れ渡ることとなり、ライフサイ
エンスに携わる研究者の多数が、このグラントを意識したであろう。私の研究所
(ラボ)でも、共同研究を含める4つのグラントを申請した。このNIHチャレンジ
グラントには、およそ2万件もの研究が申請された。米国では、グラントを申請
する際には、予備実験のデータが要求されるが、このデータの充実がグラント獲
得の鍵となる。そのため、すでに、予備データの充実を目指し、研究室が活気付
いている。今回のNIHチャレンジグラントは、金額のみならず公募した研究対象
の項目も多いため、全米を巻き込む一大イベントとなり、少なくとも研究会の活
気を呼び戻す効果はすでに得ている。
◆ 夢を現実にする研究 ?Translational Research; TR-
TRは、極めて重要な研究であるが、日本ではまだまだ浸透していると言い難い。
研究室で細胞やタンパク質を主に扱うような基礎的な研究は、次世代の治療への
期待を高め人々に夢を与えるが、TRは実際の臨床現場で「夢を現実にする研究」
である。つまり、基礎的な研究の成果を人々に還元する研究がTRである。このた
め、研究室からベッドサイドへという表現も使われる。
TRは日本では橋渡し研究とも言われ、基礎医学を臨床に導く研究とされており、
基礎医学で新しい発見をした研究者が、その研究をどのように臨床に導くかに主
眼が置かれている。ただし、現実的には基礎研究を臨床研究に導くといことは、
考えているほど容易ではない。実際に日本では、基礎研究で得られた夢をさらに
大きな夢に発展させることはできるが、この夢を現実にすることは難しい。
ここで、注目してほしいのは、夢は夢だから美しく、現実は厳しいということ
である。基礎研究の結果、様々な病気が治る可能性が示され、実現に向けて研究
が続けられる。そして、いよいよ臨床応用を実施すると、その治療法の限界、副
作用や合併症が明らかとなり、今度は、それらの対策が重点課題となる。TRの真
骨頂は、実は臨床応用が開始されてから、新しい治療の限界をどう越えるか、副
作用や合併症をどのように最小限にするかという点にある。TRに巨額の費用がか
かるのは、副作用や合併症に対する保証つまり、安全性の担保のためである。
TR先進国の米国では、TRはむしろ大動物実験あるいは臨床のパイロットスタディー
ですでに有効性が示されている治療を、標準治療そして産業化に導く戦略がとら
れる。つまり、 米国では安全性の担保を含めて実用化に近いものを選定し、そ
こから一気に実用化までのプランを立てて実行してしまうのである。つまり、米
国がTRに力をいれているのは、ライフサイエンスから次々に産業を作り出そうと
する戦略であり、次世代の科学立国政策での重要戦略なのである。
◆ 最後に
世界的には、ライフサイエンスが次世代の産業で重要なことは疑いの余地もな
い。日本がこの産業分野で勝つためには、日本に即した現実的なTR戦略をとる
ことが急務である。自動車産業が日本を支える産業となった背景には、国がその
産業を世界のトップに押し上げる戦略があったからであり、国民の多くがそれを
望んでいたからである。安全性に敏感な国民性をブレーキとして考えるのではな
く、それを活かし、安全性の担保されたライフサイエンス分野を産業化に発展さ
せる戦略を国政として考えるべきである。そして、ライフサイエンス分野に携わ
る者は、国民にその必要性を訴え理解してもらう必要がある。
参考)
1)Investing in America’s future. Barack Obama and Joe Biden’s plan
2)Alan Trounson. New perspectives in human stem cell therapeutic research. BMC Medicine 2009; 7:29