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Vol.019 身内を介護してお金をもらう福島生まれの新介護施設 ~入居者に身内がいることでモラルハザードの歯止めにも

医療ガバナンス学会 (2016年1月20日 06:00)


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※このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45464

越智 小枝

2016年1月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

「申し訳ないけれども転院させてください」

先日、患者さんのご家族に相談を受けました。その患者さんは震災でお子さんを失い、これまで2人の甥ごさんが交互に面倒を見られてきたそうです。今回自力での生活ができなくなり、長期の入院を余儀なくされていました。
「叔母(患者)の兄弟・姉妹も年だから車を持っていませんので、面会のたびに私たちが車を出すんです。でも、私の両親、妻の両親もすでに介護が必要な状態で・・・叔母のためにこちらまで通うのは、限界です」
夫と息子の介護をする80代の女性や、夫とその親を亡くし、夫の祖父母の介護をする義理の孫・・・津波と原発事故という二重の災害により急速な高齢化が進んだこの地域では、このような例は決して珍しくありません。
原発事故の後、浜通りでは地域のコミュニティだけではなく、これまであった大家族という単位の家庭もまた崩壊しました。そのような中で、今この地域が直面している最も深刻な問題は、介護問題です。
特に要介護者だけでなく、負担の増え続ける介護者をどうしたら救うことができるか。相双地区では、昔ながらの「講」という文化をヒントに新たな試みがされようとしています。

●増加する介護者の負担

相馬市のデータによれば、高齢者の中で要支援者・要介護者の割合は、震災前の2011年2月には16.5%でした。その値は、震災から1年半たった2012年9月には18%まで増加しています。
この背景には、慣れない避難生活で生活活動度が落ちてしまった高齢者が多い、ということもあると思います。しかしそれだけではなく、介護をする家族がいなくなってしまったために、介護申請を必要とする必要が増えた、という事情もあるようです。
相双地区では、震災前までは2世帯、3世帯、場合によっては4世帯という家庭がよくあったそうです。
もともと漁業・農業などの自営業が多かったこの地域では、家庭=仕事の場であり、何世帯かで分業していることも珍しくない、という背景があるのかもしれません。病院の外来でも、「夜叉孫と暮らしている」というお年寄りを時折見かけます。
大家族で暮らしている時には、高齢者がたとえ寝たきりになっても、介護を交代で行うこともできます。そのため、これまでこの地域では介護の外部化はあまり行われてこなかったようです。
しかし原発事故の後、若い世帯が県外へ避難してしまったことにより、多世帯住宅は急速に減少しました。それとともに個人あたりの介護の負担は急速に重くなったといいます。
今、相馬にある施設の待機リストは、常に200件を超えている状態です。
要介護者が増える一方で介護施設は不足し、さらに介護者の世代も減少する。その結果、地元にとどまった若い人々の介護負担は日に日に増しているのです。

●介護者の孤立

このような介護の負担を抱えた人々の辛さは、日々の負担以上に、孤独と戦わなくてはならないことかもしれません。
「身内の恥だから誰にも言いたくない」
「夜中に徘徊されるので大変だ、って言っても、家の外に出るわけでなければ回りもあまり大変だと思ってくれない」
要介護になった方でも、その前には長年のご近所付き合いがあります。元気だった時のことを知る人に、弱ってしまった身内のことを話したくない。それ以上に、たとえ兄弟姉妹であっても一緒に暮らしてみなければ介護の辛さは分かってもらえない。そのような訴えが、ご家族からよく聞かれます。
このような孤独感の背景には、家族や家そのものの単位が小さくなった結果、むしろ家族が家にこもるようになってしまったためではないか。双葉郡出身のS医師はそう考察されます。
「家族が大きい時は、自然と子供のつき合い、親のつき合いとかで、ほかの家族とのつき合いの行事も多かった。家族の単位が小さくなってとなり組のつながりも減ったんじゃないかね。家も小さくなったから、皆が集まる場所もなくなったせいもあるかもしれない」
それだけでなく、冠婚葬祭が外部化され、業者に委託されることもまた、個々の家族の孤立につながったのではないか、とS医師は言われます。
「昔は葬式などでも家でやって、となり組での役割が決まっていた。今は葬儀屋がすべてやっちゃうから、集まる必要がなくなってしまった。こういう檀家を中心としたまとまりが完全に崩れちゃったんだよね」
冠婚葬祭が外部化されることで、むしろ個々の家庭が孤立する。そのような社会背景のあおりを一番強く受けているのが、家庭内での介護者なのかもしれません。

●「介護者にお休みを」

そのような方々を社会に引き出すことで救うことはできないか。介護施設の立場から、そのように考える方もあります。
震災5年目を迎えようとする今、南相馬市で再建を進めている介護老人保健施設があります。この施設は震災時津波で全壊し、多くの入所者が亡くなられました。施設長のI医は、数年の間それが心の傷となって再建に踏み切れなかった、と言います。
「しかし、津波で亡くなられた方の供養もしたい。それ以上に、今この地域で急速に必要となっている介護施設は、絶対に作らなくてはいけないと思いました」
震災直後から診療を続けられ、患者さんだけでなくご家族とも深く関わってきたI医師が目指しているのは、要介護者だけでなく、介護する方々をも救える施設です。
「今この地域は介護士が圧倒的に不足している。その状況で介護施設なんか建てて大丈夫なのか、と聞かれます。でも一方で、家でお年寄りの介護に疲れている方もたくさんいるんです。それならその方々を、介護職員として雇ってしまえばいいんじゃないかと思って」
つまり家庭内の介護の代わりに、要介護者は患者、介護者は職員として施設に迎え入れる、という新しい形の施設だと言うのです。
家庭での介護と、介護職員としての介護。仕事の内容事態はあまり変わらないように見えますが、どのような違いがあるのでしょうか。
「家での介護は無給の24時間労働。でも介護職員になれば、多少なりとも給料が出る、そして何より大切なことは、休日がもらえます」
家の中で介護をされている方は、社会とのつながりを失い、また家庭内でも介護を評価されることも少ないまま24時間労働を強いられているとも言えます。そのような方にお休みを与えつつお給料も出せる。
その結果、今介護施設で問題になっているモラルハザードの歯止めにもなるのでないか、という期待もあります。
「身内が入所している施設であれば、モラルも低下しにくい。いずれは地域ぐるみで介護施設を支えるになれるのでは。」

●講の復活

「これはある意味介護の『講』って言ってもいいね」
病院がコミュニティの中心として働かなくてはいけない、とI医師が自然に思いつかれる背景には、この地域に昔からある「講」という文化があるかもしれない、と言われます。
講とは、もともと宗教結社を示す単語でした。それが時代とともに少しずつ形を変え、今では地方ごとに異なった形の講が残っているようです。相双地区では、主に同じ檀家の中で、年間行事を一緒に行う人々の集まりを指していたそうです。
「比較的有名なものは頼母子講(たのもしこう)と言って、宴会の後に皆が出し合ったお金をくじ引きで1人が総取りする、いわゆる富くじのような行事」
60代のS医師は、ご自身の若い頃にはまだこの講が存在したと言います。
この頼母子講は、実は当たる人はある程度決まっていて、困った人が当座しのげるように皆で寄付をする、という目的があったようです。
それ以外にも、人づき合いの単位ごとに様々な講、例えば職場の講や、母親の講など色々な講が存在したと言います。
「母親の『講』は、母親だけが集まって一緒に料理を作ったりしていました。メンバーでも、自分の娘に子供が生まれた瞬間に祖母となるので、もうその『講』にはいられなくなる、という厳しい決まりもあったようです」
前回ご紹介したポジティブ・カフェで、昔から相双地区に住んでいる、ある男性に教えていただいたことです。

●講の歴史と役割

なぜ、相馬の地域には講の文化が強かったのでしょうか。原因の1つは、相馬の移民の歴史にあるようです。
天保の大飢饉の後、死亡および失踪による人口減少に悩む相馬中村藩では、逆に人口過多に悩んでいた北陸地方の浄土真宗門徒を8000人以上受け入れた、という歴史を持ちます。
寺院はその移民の心の拠り所として重要な役割を果たしていたようで、実際に新しく真宗寺院が建立されたところもあるそうです。そのため、自然に寺院を中心としたコミュニティのつながりが強くなったと考えられます。
そのつながりは戦後も続き、つい最近までは葬儀や埋葬なども、となり組の中で役割分担を決めて行われるのが普通だったと言います。
「高校生の頃、お隣のおばあさんが亡くなって、うちが当番だったので、6尺の墓穴を掘った覚えがありますよ」などと思い出される60代の方もいらっしゃいます。
「講って言うと、無尽講とかねずみ講とかあまり良いイメージがありません。でもこれは行事だけでなく、家で疲れた人の逃げ場所としても有効だったんです」
窮屈で排他的な集まりのようにも聞こえますが、この講という因習がなくなることで、むしろ家庭内の問題を外に出せなくなったのではないか、と考察される方もいました。

●ままカフェと講

このように家庭で話せない問題を共有する場の大切さは、子育ての現場でもよく言えることです。
震災後最も早く保育園の民間除染、乳幼児宅の自主除染を手がけたよつば保育園の園長は、そのような場は、放射能の不安を抱える福島では特に大切だと言います。
「線量が下がったからじゃあ安心だ、と考えるのは、お父さんに多い気がします。お母さんはもっと現実的なんです。今線量が下がったから戻ろう、という単純な話にはならない。線量が下がったら、じゃあ10年後に子供の教育や就職先がどうなるのか、そういう未来の心配へスイッチが切り替わるのがお母さんです」
もちろん放射能がなくても、子供に危険な遊びをさせるか、塾に通わせるか、お菓子を食べさせるか、など、男親・女親の価値観が異なることはよくあると思います。しかし、ものが放射能や震災の話になると、それ以上に家庭の中でオープンに話すことは難しくなるそうです。
「家の中では喧嘩になるのが怖くて、家族がどんどん話さなくなってしまう。そういう家族の崩壊を防ぐには、家族のメンバーが話し合う場を、学校やNPOなどが作ってあげること。もう1つは、家族の問題を家族の外で話せる、逃げ道を作ってあげることだと思う」
子育てに不安を持つお母さん方の「ままカフェ」を運営されるNPO法人ビーンズ福島では、そのような観点からママ以外の家族にも支援が必要、と「ぱぱカフェ」も始められたそうです。
これは形こそ違いますが、やはり「講」文化の復活と言えるでしょう。檀家という単位でまとまっていたコミュニティは崩壊しましたが、昔ながらの文化を知る人々が、今、医療や福祉という新しい「講元」のもとに、子育て、介護という新たな講を組み立て直しているのかもしれません。

●逆境からのイノベーション

これまでにも地域崩壊に対する浜通りの新しい試みはいくつも打ち出されてきました。相馬市の独居高齢者の孤独死対策、「復興長屋」の試みもその一例です。
要介護者の視点からできた復興長屋、介護者の視点からできた介護講。いずれも地域の文化と歴史を知り、住民の暮らす視点を持った方からしか生まれ得ない発想だと思います。
地域崩壊、家庭崩壊、高齢化、風評被害・・・福島が直面している窮状は、5年程度の年月では抜け出すことのできないほど深いものです。しかしその窮状を脱するために、多くの人が、逆境を逆手に取り、あるいは温故知新をもって新たな活動を創造しています。
10年後の浜通りは、このようなリバース・イノベーションの宝庫として、新しい誇りを持った地域になっているのかもしれない。相馬に長年暮らすに従い、日々そのような気持ちを強めています。

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