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Vol.028 戦争と人間―獣性という難問

医療ガバナンス学会 (2016年1月28日 06:00)


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がん患者 清郷伸人

2016年1月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

戦争はなぜ起こるか

戦争がどのようなものかは体験した者はその実態に基づき、体験しない者は様々な見聞によって、それぞれの解釈で把握している。ただ戦争が人間同士の殺戮と破壊であることは、落差はあるが共通して認識している。だが、戦争は絶対悪であり、不正・不必要かという問いに、答えは問答無用で自明かどうかは考え直してみた方がよい。
過去の戦争を学んだ者は、平和に穏やかに暮らしていた人々が突然他の人々を獣のように襲う姿を見る。ある集団、国民が大義と目的をかざした指導者に率いられて攻撃対象の殺戮、破壊にまい進する。人間の心に欲望と獣性がある限り、その群衆・民族・国家が巨獣となることは宿命であると直視できるなら、その集団にとって戦争は善であり、正義であり、必要であることは自明だと直覚できるだろう。そして巨獣は遠い存在ではなく、身近に隠れており、いつでもどこでも姿を現すことが見えるだろう。
人間に欲望と獣性があると思うからこそ社会で警察は必要とされ、国家は軍事力を頼り、同盟を結んで備える。子供が漫画やゲームで暴力や殺戮に夢中になることは普通の光景だが、それは獣性の芽生えともいえる。しかも大人になればそれは潜在的に成長する。
戦争の原因は、たとえば歴史学や哲学において政治的、経済的、心理的などさまざまな角度から要因分析がなされてきた。しかし、それらの要因だけでは戦争は起こらない。そこから暴力を駆使しても自らの欲望や思想を実現しようとする戦争の最終的な要因といえるのは、人間の獣性に基づく集団・国家の意志である。

戦争反対への困難な道

平和で穏やかに暮らしているとき、人はつねに戦争反対である。しかし自らが巨獣と化す可能性や巨獣と化した集団に襲われる蓋然性を、すなわち戦争を当事者の身になって徹底して考えない戦争反対は、感傷に過ぎない。
平和なとき反戦や非戦に反対する者はいない。また戦争を回避するために最大限の努力をすべきといって済ませられている間はいい。しかし、それでも平和が破られ、自分たちがある集団や国家の攻撃対象となって殺戮と破壊が押し寄せてくるときはあるかもしれない。
そのときも反戦や非戦を叫んでただ羊のようにそれら巨獣のなすがままにされるのか。ヒトラー第三帝国や皇国日本という巨獣に襲われた国は、自衛のために武器を持って立ち上がり、自らも巨獣となって戦った。
襲ってきた巨獣の獣性はただ暴発するだけではなく、長期にわたって計画的に理性的に発揮されるようなものだったのである。このように自衛のために戦争をすることも反戦、非戦に反するとして採らないか。普通、人はそのようなことはできない。滅ぼされないために決意して、獣性には獣性で応えるほかない。ここに戦争反対の困難な一面がある。
マハトマ・ガンジーは自衛を放棄して非暴力を貫いた。多大な犠牲を伴ったが、インドの独立を勝ち取った。しかし、その後のインドはガンジーの理想にほど遠い。愛と寛容を説く宗教が多くの戦争の動因だったことは紛れもない事実である。聖人がいても神を信じても人間の欲望と獣性は絶てない。だが、どれだけの人が自らの内なる獣性を自覚し、省察しているだろうか。どれだけの国民が自ら巨獣となる可能性を怖れているだろうか。
戦争を体験した世代は「戦争は二度と絶対にあってはならない」といい、その後の世代は「戦争はいけないと思います」という。
そこには戦争は誰かが起こしたものというニュアンスがうかがえる。自分たちは被害者だという顔がある。太平洋戦争は政治を弱体化させた軍人の暴走が招いたとされるが、それも国民の支持、応援があったからである。中でも最も過激で無責任な応援団はマス・メディアであった。衆愚政治の極みだが、現在も終わっているとはいえない。国民は一人ひとりの人間から成っている。一人ひとりが自らの獣性を省みて決して獣になるまい、国民にもならせまいと決意することが真の反戦である。戦争は自分たち国民が選んだと認識できないところに、戦争反対の言葉だけでない強い意識は育たない。だが、自分を知ることは難しいのである。

権力という獣性―武力なき戦争

人は子供のころ獣性の芽生えを持ち、それは時とともに成長すると述べたが、人は同時に獣性を抑え込むことを学ぶ。独りでは生存できない人間は、社会を構成し、他者への共感性と共同体との協調性を育くまなければならなかった。しかし、獣性は手強く、それは上手く解放しなければ社会を壊す作用として働く。共同体でのヒエラルキー(階層)はこうして生まれた。家庭、地域、企業、組織集団、国家などのあらゆる共同体で獣性は、それぞれのヒエラルキーにおける力への意志に昇華して懐柔され、共同体に取り込まれた。
戦争は、人間が本然的に持っている獣性がコントロールを失って暴走するところに実態がある。しかし、それはなにも戦争だけではない。いじめ、虐待、暴力、犯罪など日常のいたるところに顔を出している。しかし、それらは獣性の組織的、継続的、宿命的…必然的発露ではない。それらは多くが個別的、単発的、偶然的であり、さらに私的なものである。
ところが、人間の獣性が宿命的、必然的に暴走する場がある。国家権力である。
国家権力は、人間の獣性の合理的な解放であるさまざまなヒエラルキーの頂点に立っている。国民への支配は保障されており、権力者たちの獣性はしばしば暴走する。たとえば亀田総合病院副院長の小松秀樹氏に対する官僚の言論弾圧である。官僚は小松氏の言論が問題なら言論で反論すべきである。ところが官僚は権力をふるって小松氏を沈黙させようとした。このような権力の発動は、獣性の暴走がもたらした武力なき戦争行為といえる。当然、小松氏は自衛のために官僚を提訴した。小松氏の提訴という戦いは、自分自身の自衛だけでなく言論の自由という公共の利益の自衛でもある。なぜなら、提訴せずに自衛戦を放棄して沈黙したら、権力の獣性は暴走を止めず、国民の権利と公共の利益は蹂躙されるからである。国家権力による獣性の暴走を身に染みて知った近代社会は、憲法という歯止めを作り、司法に権力監視の機能を持たせた。

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