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Vol.050 ある外科医の研究不正疑惑とノーベル会議事務局長の辞任

医療ガバナンス学会 (2016年2月25日 06:00)


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山本一道

2016年2月25日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

先日、ノーベル医学生理学賞を選考するスウェーデンのカロリンスカ研究所のノーベル会議の事務局長を務めるウルバン・レーンダル教授が、会議の事務局長やノーベル基金の理事を辞任した、というニュースが日本語サイトでも短く報道された。報道によると同研究所の客員教授の研究不正疑惑が理由で、自らも調査対象になる可能性があると考えノーベル賞の品位を保つため身を引いたとの事であった。

http://www.nature.com/news/nobel-official-resigns-over-karolinska-surgeon-controversy-1.19332

この問題となっている客員教授とはパオロ・マキアリニというイタリア人の胸部外科医であり、すでに数年前から研究不正以外にも金銭疑惑でイタリアにて在宅逮捕されるという事件があったこともあり個人的に何が起こっているのか注視していた。

遠くヨーロッパで起こった日本人が直接関与しない問題であり、おそらく”研究不正に絡みノーベル賞選考委員会の事務局長が辞任した”という以上の背景はあまり関心が持たれないことであろうと思うが、長く胸部外科、特に気管外科に心血を注いできた筆者にとっていろんな意味で衝撃的な出来事であった。この一件は単なる研究不正に留まらない多くの側面が絡む示唆に富む出来事であると感じたため、その背景について私の理解する範囲でこの場をかりて意見を投稿させていただくこととした。

筆者は研究不正の専門家でもなければ、当事者たちに直接取材したわけでなくあくまですでに発表された論文や報告書をもとに今までの自分の直接的な経験に基づいた個人的な意見を述べるものであり、事実誤認や論理的矛盾があれば訂正いただければ幸いである。

●パオロ・マキアリニという人物

マキアリニは、彼自身の公表する履歴によればイタリアの大学で医学を学んだのち外科専門医をイタリアで取得している。胸部外科、特に気管外科でその名を知られるようになったのは、当時世界最高の胸部外科医と呼ばれた外科医が長を務めるパリの病院での数々の業績であり、気管分岐部再建や喉頭気管吻合など臨床論文に加え、動物実験などの業績も多く残している。筆者も若い時にこの病院に見学に赴いたり気管に関する論文を検討したりする機会も多く、当時より特に気管再建の分野では一目置かれる存在になっていた。

http://www.ctsnet.org/home/pmacchiarini

そして2008年に彼がトップとして勤務していたバルセロナ大学においてある一つの論文が発表された。それが今回の一連の問題の始まりとなる、幹細胞を用いた死体由来気管移植でありニューヨークタイムズやCNNでも大きく取り上げられたため印象に残っている人もいるかもしれない。

胸部外科医としてヨーロッパにいた筆者としてはマキアリニに関しての評価を直接働いた人間からも含めしばしば耳にしたが、その評価は一言で言えば”優秀であるが付き合いにくい人物”という点で一致していた。手術などの技術も高く研究も緻密だが、学会などでも攻撃的な言動が多くあまり社交的な人物ではないというイメージであった。

●気管切除の歴史

なぜこの気管移植がそれほど驚きであったかを理解するためには気管切除の歴史を簡単に把握する必要がある。

気管内挿管による麻酔管理、人工呼吸管理が行われるようになった1950年代以降、現在のようなlow-pressure soft cuffが開発される以前はしばしばカフによる壊死性の気管狭窄が問題になるようになった。これに対して、1960年代に二つのアプローチが提唱された。一つが後のルーチンな治療となるMGH Grilloによる気管切除吻合と、Nevilleの人工気管である。しかし後者は一部長期生存例もあったようだが、合併症、特に異物であるシリコンラバーに由来する縫合不全や肉芽形成のため極めて成績が不良で、1970年代以降は徐々にGrilloの気管吻合が主流となり現在では後者は完全に否定されている。
これ以降、死体からの気管移植、よりbiocompatibilityの高いとされる素材を使った人工気管という二つのアプローチで試行錯誤が続いているが現在までのところ一部ベルギーのグループで実験的に行われている症例を除き人体への適応は実現していない。

http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMc1315273

これらの問題で特に大きな問題となっているのは、同種移植であっても人工気管であっても気管を外部から移植する場合移植気管を栄養する血流が確保できないという点である。そのため移植片が異物とみなされ吻合部に狭窄が起こる事が極めて多く、結局は正常な気道を保てないという結果に陥ってしまうと考えられている。この点については上記ベルギーのチームも同じ視点からマキアリニの手技に疑問を呈している。

http://dx.doi.org/10.1016/j.jtcvs.2013.12.024

●一連の問題の経緯

2008年の移植では死体から取り出した気管を薬剤を使って脱細胞化し、特殊な培養器を使ってレシピエントから取り出した骨髄由来幹細胞を体外で気管上皮細胞、軟骨細胞に分化させそれを移植するという方法を取っている。この移植の問題点はやはり血流を栄養できていないことであるが、報告された4ヶ月後および5年後の論文ではブジーやステント治療を繰り返し行われ理想的な状態ではないものの致命的な合併症はなく、生存しているようである。

http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(08)61598-6/abstract

http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(13)62033-4/abstract

この報告の信頼性を高めたのは別チームの追試が成功していることである。正確にはロンドンの小児病院のチームが当時10歳の少年に同じく幹細胞を使った脱細胞化した気管を移植した。この移植にはマキアリニが参加はしているがあくまで補佐的な役目のようであり、2年後、4年後の報告においてはマキアリニは著者の中には入っていない。また実際の手順はマキアリニの方法とやや異なるやり方で行われているが、大筋において同じコンセプトの移植となっている。

http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(12)60737-5/abstract

http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/ajt.13318/abstract;jsessionid=3B94E39DDFA41435124EB9F6C7AB06B7.f01t04

これらの業績を経て、2010年よりマキアリニはカロリンスカ研究所の客員教授に就任している。

http://regmedgrant.com/files/CV_eng.pdf

今回のノーベル会議の事務局長がその辞任の理由としてあげているマキアリニの採用を推薦したという時期はこの前後の話であろうと考えられる。当時のマスコミの過熱や、ランセットに出た報告およびその傍証として次々と出された動物実験の論文なども含め、研究不正を疑うような点はなく、筆者も当時それらの論文をかなり読み込んだがその緻密な計画性に感心した覚えがある。

●疑惑の始まり

2011年にカロリンスカ研究所より気管移植の論文が発表された。この論文には前の二例と比べて大きな違いがあった。それはこの移植が死体由来の脱細胞化した気管ではなく、ナノコンポジットを用いた人工気管に患者由来の幹細胞を移植したものであったことである。これは細胞こそ患者由来ではあるが、もはや気管移植よりは人工気管と表現する方がふさわしく、前2症例とは完全に趣を異にするものと言っても過言ではない。これ以降、カロリンスカ研究所から複数の論文が出されたが基本的にはナノコンポジットを用いた人工気管であり、術後の経過は良好であるという点で一貫している。

http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(11)61715-7/abstract

これに加え、2011年からマキアリニはロシアの大学でも活動を開始する。これはロシアの科研費に相当するファンディングを現地大学とマキアリニが共同で獲得したものであるようである。

http://www.regmedgrant.com/index.php?id=4&lang=eng

この施設での活動についてはHPやマスメディアを通じて報告はあるものの学術論文としてはほとんど発表がない。手術直後の患者をプレス発表などに同席させたりして手術の成果をアピールはしているが、いずれにおいても長期成績の報告がなく、一体何が起こっているのか学術的には把握のしようがない状態が続いている。

ここで一点確認しておく必要がある。気管移植に限らず、気管切除を行い再吻合した場合、手術直後にはむしろ患者の呼吸状態、正確には気道の状態は正常に近いことは不思議なことではない。気管吻合、今回の場合人工気管と正常気管との吻合部が問題を起こす場合、少なくとも数週間から数ヶ月経ってからでないと吻合部の成否は判断できるものではなく、術後2週間後に経過良好とされたものが三月後に狭窄を起こしていることは全く不自然なことではない。従って、例えば筆者が気管あるいは喉頭気管吻合を行った場合、約10日後に気管支鏡にて吻合を観察した際に全く異常がなくても約1年間の間は気管支鏡にて定期的に吻合部を確認している。
少なくとも半年までは仮に全く問題がなくても、これで大丈夫だと太鼓判を押すこともなくましてや学術発表を行うことはない。特にこのロシアの施設の発表する世界初の喉頭気管移植といったセンセーショナルなプレス発表に関してはその後の経過報告もなく、また喉頭を含む移植は単なる気管移植よりもはるかに多くの問題をクリアする必要があることを考えると筆者は否定的に見ている。

●同僚らによる告発とその後の展開

2014年8月にカロリンスカ研究所での手術症例に関して同僚4名の連名による内部告発が発表された。これによるとこの世界初の実験的手術に対して倫理委員会への申請自体がなされておらず、患者の承諾書も確認できない、あるいは術後に取られているという信じられないレベルの内容であった。また、このような手続き上の問題に加え、患者の臨床経過や検査結果などが極めて多く捏造あるいはオミットされ報告されており、結果としてはカロリンスカで手術された3名のうちすでに2名は死亡、もう1名は術後2年以上集中治療室から出ることができない状態であることが報告された。

http://retractionwatch.com/wp-content/uploads/2014/12/Analysis-of-Clinical-Outcome-of-Synthetic-Tracheal-Transplantation.pdf

これに対しマキアリニは患者への事前の承諾書は取られており、倫理委員会への対応はカロリンスカ研究所内の別の医師によって対応されてていること、臨床経過などは常勤医師である告発者たち自身による報告を元に作成しているものであり、問題があるとすれば共著者である告発者によるものであると内部のEメイルを元に反論した。

http://www.svt.se/svts/article2971402.svt/binary/PM%20yttrande%20i%20april..pdf

この一件を受けて、告発者たちは正式にカロリンスカ研究所に対して外部専門家に調査委員会を依頼することを要求し、これを受けて独立調査委員としてベンクトゲルディン名誉教授が調査を担当することとなった。この結果2015年5月にベンクトゲルディン教授は研究不正を認定した調査書を提出した。

この報告書ではマキアリニの主著者としての責任を問い研究不正を認定したほか、世界で初めての人工気管手術を緊急性を理由に研究よりは通常の医療という理由の元に倫理委員会や医療機器のレギュレーションをクリアしていない点でカロリンスカ研究所自体の責任にも言及していた。

http://retractionwatch.com/2015/05/28/misconduct-found-in-7-papers-by-macchiarini-says-english-write-up-of-investigation/

ところがカロリンスカ研究所の副所長であるアンダースハムストン教授はこの調査書を踏まえて、幾つかの行うべき手続きの逸脱はあるものの研究不正を支持する確証は認められなかった、という声明を発表した。

http://www.sciencemag.org/news/2015/08/update-karolinska-institute-clears-trachea-surgeon-misconduct-charges

これ以前にもカロリンスカ研究所は前述のベルギーのチームの医学的な側面からの公式な疑義表明に対しても医学上の意見の相違であり研究不正なしと結論付けている。

http://www.sciencemag.org/news/2015/04/artificial-trachea-pioneer-cleared-first-two-misconduct-cases?_ga=1.68203857.1379694461.1446572550

ベンクトゲルディン名誉教授の報告書はマキアリニのみならず告発者の研究不正への加担、カロリンスカ研究所のマキアリニ雇用に対する思惑、またこの実験的治療に対してのカロリンスカ研究所の対処の不適切性など広範囲にわたり言及しており、一個人での確信的な研究不正に留まらないカロリンスカ研究所自体の一大不祥事といった様相を呈していた。

●マスメディアによる検証、再調査、辞任へ

2016年1月スウェーデンのテレビドキュメンタリーでこの件について詳細な検証が行われた。筆者はこのスウェーデン語の放送は直接見ていないが、その中で手術を受けた8名のうちすでに6名が死亡していること、また手術を受けた患者も緊急を要する状態ではないものが含まれているにもかかわらず、成績が芳しくないことが明らかになってなお手術が続行されているという倫理面の問題が浮き彫りにされたという。

http://www.svt.se/dokument-inifran/experimenten-stjarnkirurgen

また、経歴詐称の疑いやメディアへの働きかけの疑惑なども報道されるに至り、カロリンスカ研究所およびスウェーデン医師会などは事態を重く見て再度独立調査委員会を開催する決定を行った。またカロリンスカ研究所は2016年11月に終了するマキアリニの契約を延長しないことを発表するに至った。

最初にあげたノーベル会議事務局長辞任はこれを受けてマキアリニをカロリンスカ研究所の客員教授に推薦したことに対しても調査の対象になると考えたウルバン・レーンダル教授本人がノーベル会議の権威を維持するために自発的に辞任したというものであった。

最後に

ここからは私の個人的な意見である。

この件に関しては気管に関して専門的知識を持つため事実を把握しやすいと考えこのような文章を書いたが、実際のところどこまでが真実で誰が正しいのかということを把握することは筆者には不可能である。ただ、以前よりこの外科医に注目し畏敬の念を持ちつつその業績を参考にしてきたものとして今回の一連の出来事を通じて幾つか考えることがあった。

一つは医療の面においてである。脱細胞化した気管に幹細胞を培養するというユニークな手法で重く閉ざされていた気管移植という分野の扉にやっと手がかかったと思ったのもつかの間、なぜこのような方向に行ってしまったのだろうかという疑問である。イタリア本国で(ロシアで)彼が外科医として続けていけるのかはわからないが、この最先端の領域で彼が活躍することはもうないだろう。最初からそういう人間だったと片付けてしまうのは簡単であるが、この分野は再び停滞の時期を迎えるのは確実である。かつての脳死移植疑惑が何十年にもわたり日本の移植医療に重くのしかかった事実を見るに容易に想像がつくところである。

次にあれだけ緻密な内部告発書を前に独立調査委員の結論までもひっくり返したカロリンスカ研究所の最初の結論は一体何だったのであろう、という思いである。日本でも最近話題になった研究不正の問題が幾つか頭に浮かぶが、それぞれの疑惑はどう総括され次の不正防止の為の対策がとられたのであろうかという疑問である。研究不正が生み出される土壌や構造など問題の本質について何かが改善されたのか、あるいはそれを行う意思はあるのだろうか。

外科医としての筆者の個人的な意見としては、仮に医学的な意見の相違を理由に判断を退ける意見があったとしてもマキアリニは確実にguiltyだと考える。しかしこれはマキアリニという類稀なる捏造魔が犯した異常な一例であるとは全く思わない。今回の一件では告発者が刺し違えを覚悟して告発したように思われる節がありこのような展開になっているが、実際には権力や組織の前に闇に葬られる問題の氷山の一角なのであろうと考えている。ノーベル賞という科学の最高峰の足元で起こったこの一件に、カロリンスカ研究所自らがどのような判定を下しどう次につなげていくのか興味を持って注視したい。
略歴:山本一道 平成7年京都大学医学部卒、呼吸器外科専門医、気管食道科専門医

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