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Vol.54 福島県で起きた原子力発電所事故の責任を問うことと、現地での放射線被ばくによる直接的な健康被害が軽微なものであると考えることは矛盾しない(2)

医療ガバナンス学会 (2016年2月29日 15:00)


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この記事はハフィントンポスト日本版よりの転載です。

http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/nuclear-plant_b_8879872.html

精神科医
堀 有伸

2016年2月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●旧警戒区域等への帰還の問題と除染について
原発事故被災地の住民が抱えざるを得ない不安には、さまざまなものがありますが、最近は「先が見えない」不安を耳にする機会が増えたように思います。それにはさまざまな意味がありますが、現在の南相馬市で話題になるのは、来年春に目指されている南相馬市小高区(原発から20km圏内)への帰還と、除染等の作業員の問題です。
避難区域への帰還については、すでに平成27年9月に楢葉町への帰還がはじまったのですが、戻っているのは全人口の約5%で、60歳以上が全帰還者の約7割を占めているそうです。南相馬市の小高区でも、来春には帰還が始まる予定ですが、除染などの準備の遅れが指摘されています。例えば、ある山間部の男性高齢者は、南相馬市で行われた住民説明会の席上で行政の担当者達を前に、このように語りました。「自分の部落では、帰還しようとする世帯は自分だけである。自分も若くはないので、自分の土地だけの草刈りだけでも手一杯である。ところで、震災前までは、道路の草刈りはそれぞれ隣接する土地の持ち主が行っていたが、今回は戻るのが自分だけなので、それが期待できない。そうすると道路が使えないことになる。ところで、草刈りをするだけでも線量は下がるのだから、除染という名目で草刈りをしてもらえないだろうか」と問いかけたのです。会場からは拍手があったものの、国・県・市の担当者からの返答はありませんでした。

旧警戒区域の除染は環境省が担当していますが、水源地の除染についてはこれを南相馬市に担当するように働きかけているようです。南相馬市は、技術的な難しさ等からこれを環境省に担当して欲しい意向を示していましたが、この交渉は難しそうな印象でした。現在の理解では、水源の底の方に放射性物質が貯まっていたとしても、それが底に沈殿している限りにおいてはそこから流れる水の放射性物質の汚染は健康に影響を与えるものではないと判断されています。それでは、大雨が降ったときなどに水源地が撹拌されるような状況では、汚染された水が流れるのではないでしょうか。その説明会では、水の出口においてリアルタイムで線量を計測してその水を流れないようにせき止める運用をする説明がなされました。しかしこの場合に、台風のような状況で貯水量が増えた時にそれを放出できないのだとしたら、水害対策として問題が生じるおそれがでてきます。

もちろん、帰還したい人々の意向を尊重するのは大事なのですが、環境省のホームページにあるように、年間積算線量が20mSv以下の避難指示解除準備区域、20〜50mSvの居住制限区域のすべての場所について、「帰宅を希望される方全員が1日も早くご帰宅できるよう、除染を進めていきます」という目標設定は、妥当なのでしょうか。「どの地域にまで、帰還して町を再建するための努力を行わねばならないのか」という不満を、現地で帰還を目指している人が簡単に口にすることはないでしょう。しかし、この点があいまいなことも、「先が見えない」不安に結びついています。もちろん、現状復帰ができれば、それに勝ることはありません。しかし、技術的・経済的な理由から、除染等を完遂して復旧ができない地域が存在することを認めることも、事故後5年近くが経つ状況では、必要なことと思われます。「過失を認めない」「起きた損失を過小評価したい」という政治的意図、ひょっとしたら意図とも言えないような曖昧な願望が、この当たりの政策運営に現れているように思います。「原発事故による直接的な健康被害は軽微である」というエピステーメーが、このような政治的意図に利用されないような配慮も必要となるでしょう。現状についての総合的な配慮を欠いた、建前としての不可能に近い理想的な目標設定と、現実のはざまで苦労をするのは、現地の人々です。故郷の再興に尽力しようとする人々に、大き過ぎる負担がかかる状況が継続しています。

その一方で、平成25年末に行われた環境省の試算では、除染にかかわる費用として2.5兆円が試算されています。そして、人間が生活できるようになるためには、除染さえ済んでいれば良いというものではありません。私の専門とする医療や福祉の分野については、小高区に隣接する原町区や鹿島区でもマンパワーの不足が続いています。そこからさらに、小高区を含んだ広域の診療圏をカバーするとなると、負担増による職員の疲弊などが危惧される状況となります。率直な印象として、除染に投じられている費用に比べて、看護師・介護士・保育士などの対人サービスの人件費に当てられている予算が少ないのです。また、「こころのケア」の重要性が叫ばれる一方で、訪問等を行っている職員を継続して確保するための予算は、不十分な状況です。

南相馬市の人口は、震災前に7万強だったのが、震災後にはだいたい5万人くらいに減りました。若い世代で移住を決断した人も多く、地域の高齢化が一気に進みました。そのような地域に、この1・2年で一説には7千人とも言われている除染等の作業員が暮らすようになりましたが、長期的に生活することを考えていない人口の増加によって、治安が悪化するのではないかという住民の不安が高まったことは否めません。また、作業員の中には、一般的な健康状態が十分に管理されていない人々がいることも指摘され、糖尿病や高血圧などの現疾患を放置した上で突然の病気の発生・受診というケースも多く、ただでさえ脆弱になっていた地域の医療機関に負担を与えています。

●モラルハザードについて
平成27年12月の段階で、震災前に福島県に居住していた人で避難生活を継続しているのが57000人以上、震災関連死は1800人を超えたとされています。このような甚大な影響が生じた事故について、たとえ放射線による直接的な健康影響が少なかったとしても、その責任が問われなければならないのは当然のことと思います。しかし、事故を起こした事業者についても、監督官庁についても、担当者のなかに刑事罰を問われる人物は一人として出ていません。
原発事故後に行われた国会による「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」の報告書では、事故の原因と考えられている津波対策の必要性が事故の数年前から指摘されていたのにもかかわらず、そのことが無視され続けた状況があったことを明らかにしました。ここには、監督官庁と事業者との間での不適切なズルズルベッタリの関係性が成立していたのです。

原発事故についての真剣な反省を行うのならば、このような不適切な関係が再現しないための工夫こそがなされるべきです。たとえば、事業者と監督官庁との独立性が担保され、強制力を持つ第3者機関によるチェックが可能になるための工夫がなされるべきです。
しかし、原発事故後に起きた出来事はそれとは逆の出来事でした。私はそのことについて、別の機会に「コロナイゼーションの進展」として理解できると論じたことがあります(コロナイゼーションの進展としての東京電力福島第一原子力発電所事故対応 http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/post_9738_b_7778974.html)。
コロナイゼーションとは、簡単に言えば社会・経済的な優位を背景に、劣位にある人を、社会的・経済的に、さらにそれを超えて心理的にも支配し、その支配を理想化・美化することによって自動運動のように維持し拡大する傾向です。

平成23年の原発事故は、その直接の被害に加えて、それに対する適切な対応が行われなかったことによって、「重大な事故を起こしても、ある種の社会的な立場があればその責任を問われずに名誉も財産も保護される」「不条理な人災に巻き込まれても、ある種の社会的な立場をもたない場合に正当な保護が与えられない」という傾向を強化してしまいました。現在でも、廃炉や除染などの放射線被ばくのリスクがある事業には多くの予算が計上されている一方で、直接的な作業は十分な保護や管理が与えられないままに、現地の被災者を含む社会的に立場な弱い人々に押し付けられ、その報酬が不透明な形で中間で搾取されることが許容されています。震災による被害を受けた上で、このような状況に巻き込まれた場合に、現地の人々が意欲を維持することは容易ではないでしょう。一方では、多額の賠償金を突然に手にした人々もいます。現地では刹那的な傾向が強まっています。復興について、現地の住民のニーズを具体的に汲み取ってそれに対応し、地域の人材育成や長期の発展につながるような事業の展開は、官からのものも民からのものも十分な力強さを持っていません。

現在、原発の再稼働に向けての議論が盛んですが、再稼働を行う前提として、福島の原発事故についての責任が明確となること、この事故に起きた経済的損失が明らかにされて、その上で原発の再稼働が正当化されるか否かを国民全体の関与のもとで判断することが必須であると考えます。しかし、現状はコロナイゼーションの進展を背景とした、ものごとをあいまいなままにした上での既成事実の積み上げばかりが行われています。このような現状が続いた場合に、平成23年の福島県の原発事故は、それが引き起こした数多くの被害の中に、日本社会のモラルハザードを促進させたという悪影響も付け加えることになるでしょう。

●それでも倫理的な次元に訴えること
あるトラウマ研究を行っている海外の精神医学の専門家と福島の状況について話し合っていた時に、「(その場合にケアや治療よりも優先して行われるべきなのは)国を訴えることではないか」という意見を出されて、虚を突かれてうろたえてしまったことがあります。確かに、そのように考えることにも一定の正当性がありそうです。正当な権利を訴えて、法廷での闘争に取り組む原発事故の被災者の努力を、国に起きたモラルハザードに抗議する行為として、私は尊敬したいと思います。しかし、その動きを煽動したり、私が直接的に支援したりすることは、現状では考えていません。

私が自分のミッションとして考えているのは、そのような直接的な政治的な次元ではなく、もっと内面的な倫理性の次元に訴えることです。これまでにも何回か述べてきた、「日本的ナルシシズムの克服と自我の確立」という課題の引き受けを、日本にいる多くの人々に求めていくことです。
日本人の集団主義、個よりも全体を優先する心は、本来はとても美しい、優しい思いから発していたはずです。そこには、自分の故郷や家族に対する、強い責任感がともなっていました。しかし、コロナイゼーションの進展と私が呼んだ社会的・経済的状況においては、そのような優しさにつけこんで、その情熱と献身を経済的に搾取して責任を取らない層の恣意的な行動が、そのままに許容される事態となっています。現在、日本全体で若年層の意欲の低下が指摘されていますが、その背景にはこのような社会的情勢が存在していると考えます。決してこれは、若者の道徳心の欠如といった水準のみに還元される問題ではありません。和を尊ぶ、集団を重んじる日本人の心性を悪用して、それを経済的利益を生み出すための道具とした考えない層の道徳心の欠如についても、議論されるべきでしょう。

このような状況では、日本社会についての不信感が芽生え、それが育ってしまう危険性があります。原発事故による放射線の直接的な健康被害を強調して語る議論は、そのような社会の状況への不満によっても支えられていると考えます。これに対して、献身や自己犠牲、狭義の集団主義や共同体主義を主張することによる安易な道徳的水準での解決を目指すことは、一時的に議論を鎮めることができたとしても、問題を潜在化・複雑化させることで、長期的にはその解決を困難にさせるでしょう。オモテとウラの使い分けが深刻化し、オモテでは誰も傷つけないかのような過度の優しさや共同体主義が語られる一方で、ウラでは絶望的な対人不信感を抱いて個人の利益の確保に必死になるような心理状態が、現れやすくなっている危険性を感じています。

個人主義の考えが浸透し、分断が深まりつつある日本社会において、本当の意味での連帯が回復される道は、個を否定して集団を美化する日本的道徳を単純な形で主張することではありません(これは、近代化や行動経済成長の段階での成功体験を、状況の異なる現状に無理に当てはめているだけです)。
単に集団主義を主張するだけでは、悪い意味での社会への依存・甘えが促進されやすいのです。日本的ナルシシズムと私が名指しているのは、社会的な関係がそのような依存によって不適切な甘やかし合いに変質してしまうことです。日本的なズルズルベッタリの関係性の中にどっぷりと浸かり、自らがその集団の中における道具としての役割を引き受け、その役割に自分の全存在を引き渡してしまうことも、その関係性の中からの見返りを期待できる以上は躊躇しなくなるでしょう。自分の属する小さな集団のためには、より大きな共同体からの見解を簡単に見捨てるようになることで、集団主義が集団主義を裏切るのです。このようなナルシシスティックな精神性は、内部と外部の間に超克が困難な断絶をもたらしてしまい、その関係性の内側に留まれない人、留まることをよしとしない人とつながることを、きわめて困難にしてしまいます。集団に還元しえない部分も、それぞれの個人にはあることを認めるべきです。

日本では個人主義が単なるわがままと理解されることも多いのですが、本来の個人主義は、正当な意味での自己責任の倫理を内在化することを求めます。そして真の個人主義は、決断の場面において、集団の空気を参照するだけではなく、自ら学んで自ら考えることを可能にするのです。アリストテレスは、エピステーメーやフロネーシスを「思考の徳」と呼びました。集団に合わせるばかりで自ら考えて判断することを放棄している人々は、この思考の徳を身につけることを放棄していることになります。私が強調したいのは、日本人の一人一人が、エピステーメーやフロネーシスといった思考の徳を身につけることの重要性を認識し、そのための努力を積み重ねるようにすることの必要性です。
フロネーシスを目指した判断を積み重ねる経験によってのみ、本来の意味での自我、あるいは個性が形作られて行きます。集団と個人は弁証法的な関係にあります。集団ばかりを理想化して個人をないがしろにすることは、集団の力をも弱めるでしょう。そうではなくて、きちんとした自我を備えた個人が作られた上で、そのような個人同士が共同体を形成することによって、集団も機能するようになると考えます。このような方法による日本の誇りの回復が目指されるべきです。

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