医療ガバナンス学会 (2016年3月9日 06:00)
震災の日まで、双葉郡には4つの民間病院と県立病院、厚生病院がありましたが、発災後も入院診療を継続できているのは高野病院だけです。他の病院はすべて警戒区域の中にあり、今も立ち入ることができません。警戒区域の民間の病院は、当初すべて自分たちで避難の手配をしなくてはいけなかったため、第一原発近くの病院は、混乱を極めていたそうです。高野病院と違い、停電にならなかったので、テレビなどで情報を得ることができたそうですが、逆に、原子力建屋から煙が出ている映像をみて、多くの職員が動揺したと聞きました。他の病院の事務長から「高野病院のスタッフは、あの映像を見ていなかったから良かったのかもな。」と言われました。
私達は外部から少ない情報しか入ってこない中でもスタッフはみな落ち着いていて、目の前の業務をこなすことに必死でしたが、映像を直接みたらもっと動揺していたのかもしれません。第一原発から12キロに位置する民間病院では、移動のための警察のマイクロバスがやっときたと思ったら、「次の車両はいつ来るかわからない。患者さんをおいて職員が乗りなさい」と言われたそうです。その病院のスタッフ達は「そんなことができるか!」と乗車を拒否されたそうです。通常の災害時であれば、病人やけが人優先であるトリアージが、原子力災害の中では「生きる可能性が高い人が優先」と、まったく逆の選択となってしまったのです。
高野病院は海のすぐそばにありますが、高台にあったため直接的な地震と津波の被害は大きくありませんでした。しかし病院へのアクセス道が、津波で流されてきた家の屋根や大木などにふさがれて、人1人が歩けるのがやっとという状況になってしまいました。その日の夜勤者は、車をあきらめ、引き潮がまだ完全にひかない中、「今ならいける」という消防隊の判断で、膝まで泥にまみれ、びしょびしょになりながら歩いて出勤してきたのです。思わず、「なんできたの!!」と言ってしまった私に「夜勤ですから~」と答えたスタッフの姿を思い出す度に、涙がこみ上げてきます。
さらに津波が通過した瞬間に停電。貯水槽の水も、停電のためポンプが作動せず、くみ上げることができなくなり、下からバケツなどに抜くしかなくなりました。残っているスタッフ全員で、バケツリレーをしながら浴槽などに水を確保しましたが、翌日にはその水も底をつきました。食料は、隣町の取引先スーパーの裏口の鍵が偶然にも開いていたので、警報装置の真っ赤なライトがグルグル回り、警報音がビービー鳴り響く中で、まさに手当たり次第と言っていいくらいに食料をいただいてきました。有事でも前科がつくのかな、でも患者さん達のご飯は確保しなくちゃ。スーパーの社長には、私だと認識してもらうために、防犯カメラにしっかり映っておこうなどと、考える余裕はまだあったようです。
数日後、スーパーの社長が「お店の中のものはみんな好きに食べてください。」と言い残し、お店の鍵を病院に託して避難されました。その町が警戒区域に指定されるまで、まさに私達の命の源でした。
当初、広野から南のいわき市まで行けば、食料なども調達できるだろうと思っていました。しかしいわき市で、ヨウ素剤が40歳未満の人達に配布されたことで、他県の人達から、「いわきでもそんなに危ないんだ」と思われてしまい、当初は入ってきていた物流がストップしてしまいました。商店や飲食店も水が出ないこともあり、閉店していました。あいているスーパーも、ほとんど品物がない状態でした。12日にいわき市に買い出しに行きましたが、水やお米はもうありませんでした。残っていた鯖やサンマ、小豆の缶詰などを買い物かごに、脇目も振らずにぽんぽん入れていたら、知らない方に「ねぇーちゃん、泥棒みてぇだなぁ~」と言われてしまいました。市場では、ジャガイモ、バナナ、タマネギなどなどが、まだ箱で沢山ありましたが、すべて1人一箱と言われてしまいました。「病院で、屋内退避中で患者さんが100人いて」と説明してもだめでした。確かに平等にということでしょうが、わかりましたとも言えない立場だったので、一箱抱えては次々に違うレジに並んで、車一杯にして帰院しました。
広野町は、町が自主避難を決定し、3月15日に、町の機能ごとすべて75キロ西にある小野町へ移転しました。それまでは町から水や物資の支援を受けられましたが、15日を最後にそれもなくなりました。役場の職員さんが、最後に水を運んでくれながら、「すみません、すみません、どうかがんばってください。」と涙を流していました。あの頃は、中央に物資が集まっても、原発の地域に運んできてくれる人達はだれもいなかったのです。