医療ガバナンス学会 (2016年4月8日 06:00)
原発事故被災地には、そのような深刻な悩みを抱えている子どもや思春期の生徒がいる。もちろん、いつも悩んでいる訳ではない。普段は活発に、勉強や遊びに没頭している。しかし、一見明るい様子の奥に、深い恐怖や不安が存在しているのを、私たちが知ることがある。
この話から、二つの逆の反応が起こりえるだろう。「子どもをこのように苦しめる原発は許せない。事故を起こした原発の近くに住むことは許されず、それだから即刻避難地域を拡大するべきだ」という意見と、「反原発派が、放射線による健康被害を過剰に喧伝することで、風評被害のような心理的・社会的な悪影響が強く起きている。だから、そのような発言を止めさせるべきだ」という意見である。
私は2012年の4月から、事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所の北25kmほどの福島県南相馬市に暮らしている。2011年の東日本大震災の時には、東京に暮らしていた。もともと、原子力発電とそれを支える社会や産業の構造に批判的な意見を持っていた。今でも基本的にそうであるが、こちらに来てから、地元に留まって地域の再興を目指すことを選んだ人、留まる以外の道がなかった人たちに寄り添うことを通じて、考えが変わった点も多い。
私は東京大学で医学と自然科学を学んだ。そして、今回の事故後に報告されている調査結果などが示している内容からは、直接的な放射線による健康被害は軽微なものに留まることが予想できると解釈した。例えば、福島県内で行われたホールボディーカウンターによる内部被ばくの調査では、「非検出」とされる住民がほとんどだった(例えば、下記の論文を参照のことhttp://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3669733/)。
これは、チェルノブイリの状況と異なり、事故後の日本では食品流通の管理が行き届いてなされ、相当程度に内部被ばくが防がれていることを示している。
福島県で現在まで避難生活を送っている人は約9万8千人で、震災関連死は2000人に迫る勢いである。避難生活が長引くことや、さまざまな人間関係の変化や社会的・心理的な葛藤に巻き込まれたことが、間接的かつ複合的に住民に与える影響は甚大である。糖尿病や認知症などの慢性疾患が悪化するリスクは確かに高まった。現地にいた多感な子どもがどのように感じていたのか、それが今後どのような影響を及ぼすのか、予想もつかない。例えば、避難地域にあった学校の生徒の中には、一度も本校舎を利用せずに、仮設校舎に入学して卒業したような中・高校生もいる。放射線による直接的な健康被害が軽微なものだとしても、原発事故の破壊的な影響はあまりにも明白であり、原発についての根本的な見直しを行わずにそれを再稼働させるというのは、決して受け入れられるものではない。
事故前後の政府の対応に問題はなかったのか。事故当時の風向きの予想が伝えられずに、不必要な被ばくを強いられた人がいるのではないか、ヨウ素剤の適切な配布が行われなかったのではないか、など疑問はつきない。
政府は性急に日本国内での原発の再稼働を進めようとしているが、そこに福島の事故の教訓を生かそうとする姿勢は乏しい。そもそも、東京電力福島第一原子力発電所事故が起きる以前から、津波によって事故が起きるリスクについて認識されていたのにもかかわらず、それが事業所と監督官庁によって放置されていたことが指摘されている。こちらについての事態の解明や責任を不問にしたままで、今後の原発の安全管理について、国民からの信頼を得ることは難しいであろう。これだけの事故が起きたのにもかかわらず、だれも刑事責任を問われていないことは不可解である。
原発を推進・維持したい立場の人は、日本経済が原発に依存していることを示し、経済が私たちの生活に占める重要性を強調する。私は、その主張からも、一定の説得力を感じる。即時の原発の全面廃止は難しいのかもしれない。しかしそうであったとしても、事故のリスクを含めて原発が経済的に有利であることが示されねばならない。現場で見ていると、福島の原発事故で起きた損失は甚大である。まず、多くの豊かな国土が汚染され、安心して立ち入れない場所、海・山の幸を無造作には受け取れない場所になってしまった。多くのコミュニティが破壊され、そこに伝わっていた文化も危機に瀕している。賠償金や除染・復興関連の建築等に使われている費用は甚大である。その後の放射性廃棄物の管理コストも含めて、原発を推進・維持をしたい立場の人はその経済的な正当性を示すべきだと思う。
上のように私は考えているのだが、原発をめぐる議論になると、「直接的な健康被害」を認めないと原発を推進したい立場で、それを否定すると反原発であると決めつけるかのような感情的な反応が横行しており、正直、当惑している。
今回の原発事故では、日本人の精神性がチャレンジを受けている。私たちは、集団に合わせることが美徳であると教育されてきて、自己責任によって判断することに慣れてこなかった。事故前に、ほとんどの日本人が「安全神話」という原発は絶対に事故を起こさないという内容を、根拠なく信じていたことには真剣な反省が行われるべきである。
その意味で、反原発運動は、全体の考えに自分の考えを全く一致させるだけではなく、自分たちが学んで判断しなければならないことについての自覚をうながす、日本人の精神性における重要な意味を担っていたはずである。しかし、反原発運動は現在の日本では停滞している。その要因の一つは、この運動にかかわる人の一部が、福島での事故後に現地の人々への礼儀と配慮を欠いた、根拠の乏しい攻撃をくり返したことにもあると思う。
「政府や権威の言うことを無条件に信じる」を「政府や権威の言うことに無条件に反発する」という反対の極端に転換させるだけの誤謬に、一部の反原発運動は陥っていると思う。これでは結局、自ら学び、自ら考え、自ら決断することの責任を回避していることになり、これまでの態度との間に差を作ることができない。それなのに、自分たちだけが倫理的な高みに立って、実際に現場で動いている人の粗探しと攻撃ばかりを行っている印象を、国民に与えてしまったのだ。
日本全体における原発をめぐる思考の停滞を反映するかのように、現在の復興関連の事業では除染に使われている費用が突出して多い。とりあえず「除染を行うこと」は、どの立場の人からも強い反発を引きおこさないからだろう。
しかし、地域の復興を考える立場からは、もっと医療や教育・福祉にかんする人件費にも予算を投じてほしいという思いが強い。たとえば、私が暮らす福島県の相双地区には、児童精神医学の専門家が一人もいない。すぐに目に見える成果は少ないだろうが、安易な判断や介入を行わずに、さまざまな感情や葛藤をそのままに受け止めて、そばに寄り添ってもらえることが、被害を受けた人々には必要不可欠な時期もある。このように複雑な社会情勢の中で、子どもとコミュニティを守るためには、良識と専門的技能を兼ねそろえた人材が一定数地域の中に確保されることが必要である。その場合に、「専門家が足りないのは福島だけではない」という反発が予想される。その通りである。日本中で、成果がすぐに目に見える事業ばかりではなく、長く時間がかかる人材育成やコミュニティの維持・発展のための投資を増やすべきなのだ。
福島に関する問題点の一つに、現地から自主避難を行っている人々への政府からの保護や賠償が少ない点が指摘される。このことが、福島の現地にいる人と避難した人との間での、コミュニケーションが円滑にいかないことの要因の一つとなっている。現状の予算配分は、自律的な判断を行った人々に報いるところが明らかに薄い。やはり、全体に合わせることの方が報われやすい社会構造になっているのだ。しかし、そのような方針では、放射線のリスクについても、周囲の空気を読んで安全か危険かを論じる姿勢ばかりが強まり、自律的な判断を行おうとする精神は育たないだろう。賠償金等に依存する態度が強まるかもしれない。その場合に住民が主体的に地域の課題に参加する態度は期待できず、今後何十年も続く原発事故後の複雑な問題に十分に対応できなくなるおそれがある。
原発事故と関連した複雑な課題、それだけではなく、私たちが出会うであろうさまざまな問題に対応するためには、一人一人が自ら考え、責任を持った判断を積み重ねていくことが必要である。大人が考えない国では、子どもが考えるようになることもないだろう。
しかし、希望を持とう。このような悪循環は、国民ひとりひとりが意識的にあることで、止めることができるはずである。
福島の子どもたちには、その傷ついた感情を受け止められ抱えられることと、自律的に考えて判断することが評価される環境の、両方が必要である。そのことを通してこそ、子どもたちは自分の周囲の困難な課題を引き受けてそれを乗り越えていく気概と能力を身につけていくだろう。