最新記事一覧

臨時 vol 54 「医療の危機(下) 社会システム間の齟齬」

医療ガバナンス学会 (2009年3月14日 14:18)


■ 関連タグ

問われる統治機構との接点
「無理な規範」医学発展の阻害も

虎の門病院 泌尿器科 小松秀樹
※日刊工業新聞 2月18日掲載



04年12月17日、福島県内の女性が、帝王切開手術時に、大量出血で死亡した。
医師が逮捕・起訴され、医療界に衝撃をもたらした。08年8月、福島地方裁判所
で無罪の判決が言い渡された。検察が控訴を断念したためこの判決が確定した。
判決は、死因が癒着胎盤剥離による大量出血にあるとした。また、胎盤剥離を継続すると、生命に危機が及ぶ恐れがあったことを予見できたし、胎盤剥離を中止して子宮摘出を実施していれば結果回避可能性があったと判断した。その上で、臨床経験豊富な医師たちの証言から、癒着胎盤に関する医療現場の医学的準則を以下のとおりであるとした。

●医学的準則

「開腹前、あるいは開腹後一見して、穿通胎盤や程度の重い嵌入胎盤と診断で
きたものについては、胎盤を剥離せずに子宮を摘出する。用手剥離を開始した後
は、出血していても胎盤剥離を完了させ、子宮の収縮を期待するとともに止血操
作を行い、それでも止血できないときに子宮を摘出する。」

この準則により、胎盤剥離を中止する義務はなかったとして医師は無罪になっ
た。この判決は、医療現場の実情を重視した点で画期的だが、医療は準則で動い
ているわけではない。

私自身、穿通胎盤患者の子宮を摘除したことがある。当時の産科医たちは判決
に示された準則とは異なる行動をとった。山梨県のある産科医院で帝王切開が行
われた。胎児を出し、胎盤を摘除した。膀胱壁に及ぶ穿通胎盤であり、膀胱が大
きく開いた。子宮に限定した問題ではなかったので、どうしたらよいのか分から
ないまま、ガーゼを詰め込んで止血した。山梨医科大学に搬送され緊急手術になっ
たが、やはり、そのまま創を閉じた。

私は学会で山梨県内にいなかった。山梨に戻った後、相談を受けた。膀胱鏡検
査で、膀胱後壁が大きく欠損しており、直接子宮内腔が観察された。尿管口(腎
から膀胱に尿を運ぶ管の膀胱への出口)ぎりぎりまで膀胱壁がなくなっていた。
三度目の手術を私が執刀した。手術前に文献を調べ、手術の展開を想像した。外
国のマイナーな雑誌に似た症例の報告があったが、記述はひどく簡素だった。左
右尿管を剥離切断。尿管口を含めて膀胱壁を正常部分で切離し、前壁の欠損した
子宮に膀胱の一部をつけて摘除した。左右の尿管は膀胱に吻合した。膀胱後壁を
縫合閉鎖した。萎縮膀胱になることが危惧されたが、後遺症なしに回復した。

明らかな穿通胎盤だったにも関わらず、最初の2回の手術では、子宮を摘除し
なかった。この対応は結果からみれば適切だった。

医療と司法では考え方が異なる。司法は過去の規範で未来をしばるが、医療は
未来に向かって変化しつづける。医学論文における正しさは研究の対象と方法に
依存している。仮説的であり、暫定的である。この故に議論や研究が続く。新た
な知見が加わり、進歩がある。医療現場では、論文や前例は参考の一つにすぎな
い。難しい症例は常に新しい。厳密な認識をもとに頭の中に再構成した病状と、
持っている方法を、想像力で結びつけることが優先される。

考え方の違いをどう理解するか。

●機能分化の時代

社会は、石器時代のように小さな集団が幾つもある分節分化の時代、人間が貴
族や農民などの階級に、あるいは、資本家や労働者などの階級に分かれていた階
層分化の時代を経て、機能分化の時代に入った。世界は、司法、政治、医療、経
済、学術、テクノロジーなどさまざまな巨大で複雑な社会システムから成り立
ている。

個々の社会システムは独自の領域を持ち、外部の指示に従うことなく作動する。
医療は、統計学と英語を基本言語として、世界横断的に正しさを形成し、日々更
新している。司法は、医療を扱う場合にも、医療の言語をそのままでは使わない。
司法の言語におきなおし、司法の論理で医療の問題を扱う。政治における権力、
経済における金銭、学問における業績、高速鉄道の正確な運営の獲得や喪失は、
それぞれのシステムの作動の中で決められていく。

ニクラス・ルーマンは社会システムを大きく二つに分類した。規範的予期類型
(法、政治、メディアなど)は物事がうまく運ばないとき、自ら学習せずに、規
範や制裁を振りかざして相手を変えようとする。これに対し認知的予期類型(科
学、テクノロジー、医療、運輸など)は物事がうまく運ばないとき、自ら学習し
て知識・技術を進歩させる。

時代とともに、適応的で学習の用意がある認知的予期の存在が一貫して大きく
なってきた。規範的予期は、認知的予期を理解しないまま、しばしば、現実認識
を欠く規範によって、社会の営みを阻害する。

例えば、07年6月施行された新建築基準法は、耐震偽装という悪の撲滅のため
に、厳格な規則の体系で現場をしばった。建設が激減し、多くの会社が倒産した。
07年度の日本のGDPを0.3%から1%近く低下させた。耐震偽装より、新建築基準法
の害が大きかったのではないか。

世界の医療機器マーケットが拡大している中で、日本のシェアは低下し続けて
いる。日本では、治験段階から完全な本生産設備の整備を求められる。医療機器
開発に対する厚労省の立場を、ある課長補佐が「私どもは、国民の安全のための
審査をするところでして産業振興・育成は経産省の仕事と思っています」と表現
した。医療機器を開発させないと言っているように聞こえる。化学技術戦略推進
機構の調査で、企業の医療機器開発への参入意欲が低いこと、その背景として
「行政の許可承認を事業の阻害要因と強く感じている」ことが明らかにされてい
る。

●近代憲法

日本国憲法を含む近代憲法は、ロック、ルソー、モンテスキューなどの理念が
基盤にある。同時に、アメリカ独立戦争やフランス革命など、特殊な時期の特殊
な状況に対応するための方法を、プログラム化したものという側面もある。アメ
リカ独立の指導者には、現代の認知的予期の存在の大きさは想像もつかなかった
はずである。近代憲法は、現代の高度な医療、科学、経済を想定していない。統
治権を行使するための立法、行政、司法を規定するが、認知的予期についての記
述はない。患者を治すのは医療独自の領域であり、法が適切な影響を及ぼしうる
のは、医療システムの外縁である。国家を、上位規範とそれを実現するための下
位規範からなる法秩序そのものだとするケルゼンの認識は、法が他のすべての社
会システムを包括しうる規範の大体系であるがごとき誤解を、統治権を担う人た
ちに与える。彼らは安易に、無理な規範で実情をしばる。日本では、規範的予期
に対するチェックが不足している。アメリカ合衆国憲法の発効から221年、近代
憲法の歴史に根ざす限界が日本で顕在化している。

MRIC Global

お知らせ

 配信をご希望の方はこちらのフォームに必要事項を記入して登録してください。

 MRICでは配信するメールマガジンへの医療に関わる記事の投稿を歓迎しております。
 投稿をご検討の方は「お問い合わせ」よりご連絡をお願いします。

関連タグ

月別アーカイブ

▲ページトップへ