医療ガバナンス学会 (2016年10月19日 06:00)
<前文>
現行憲法の前文では、日本国民は再び政府の行為による戦争が起こらないように、主権が国民にあることを宣言し、これに反する一切の憲法、法令、詔勅を排除するとし、国民主権を前面に押し出しています。同時に、日本国民は恒久平和を願い、人間関係を支配する崇高な理想を自覚し、平和を愛する諸国民の公正と信義の上に国民の生存と安全を保持することを決意したとのべ、平和を維持し専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいとしています。
一方、自民党改正草案前文では、日本国は、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であり、国民主権の下、三権分立に基づいて統治されるとし、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献すると述べています。次に日本国民は、基本的人権を尊重し、国と郷土を自ら守り、和を尊び、家族や社会全体が助け合って国家を形成する。自由と規律を重んじ、自然環境を守り、教育と科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させ、よき伝統と国家を末永く継承するとしています。
前文の書き出しは、現行憲法が主語に日本国民を置き、改正草案では国家を置いている違いがあります。国民主権に主眼を置く現憲法は、権力は国民の代表者が握ると明言していますが、改定草案では権力を誰が握るかについて明言を避け、国民統合の象徴として天皇の基に、三権分立制により統治されると述べています。文面だけ見ると、これから天皇制に戻ろうとしているかのような印象で、三権分立の理解も一般認識と異なるようです。本来三権分立は、政府が実権を独占しないように立法・行政・司法の三権を分立させ、国民の権利を守る制度だと習いましたが、“三権分立”に続き、“統治される”と書かれているので、三権分立は国民を統治するためのツールであると考えているとも取れます。また、主語がはっきり書かれていないので、主語が独裁者であっても、他国の傀儡でも通じてしまいます。三権分立の正しい理解については今後勉強し、専門家の意見を聞いてみたいと思います。
前文第二の骨子は、恒久平和に関するものですが、現行憲法は、法律文書特有の問題か、占領下で押し付けられたものとの主張にある翻訳の問題かわかりませんが、かなり難解な印象を受けます。独断を恐れずに要約すると以下のようになると思います。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を自覚する。そして、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、我が国民の安全と生存を保つことを決意した。国際社会は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めており、我が国民はその一員としての地位を占めたいと思う。そして、全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。また、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする国家は、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないという、普遍的な政治道徳の法則に従う責務を負っている。ということになるかと思います。
改定草案でも同じように、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、国際平和と繁栄に貢献することをうたっていますが、詳しい内容は省略されており、代わりに、国と郷土の自守や、和の尊重、家族や社会の助け合い、自由と規律、自然環境、教育と科学技術、経済活動を通じた国の成長、伝統と国家の継承などを述べています。現行憲法に比して内向き傾向が強く、規範重視、経済成長重視の国家運営という、昭和後期の現状肯定の価値観で書かれているように感じます。
第一章 <天皇>
現法では天皇は日本国の象徴ですが、改正案では日本国の元首とあり、第三条には日の丸と君が代を国旗と国歌として制定し、国民はこれを尊重しなければならないとしています。二つを比較すると改定案では天皇をより強く意識した表現になっており、国歌・国旗との距離も国民より元首に近くなる印象です。
第二章 <戦争の放棄>、改正案は<安全保障>
第九条について、戦争放棄が現憲法の主眼ですが、改正草案は、戦争放棄は行うが、自衛権の発動は別という内容です。
第三章 <国民の権利及び義務>
医療の理念と考えられている病人権利と深い関係があるので詳しく述べてみます。
◇第十一条 基本的人権の享有
現憲法では、国民は「すべての基本的人権の享有を妨げられない」としていますが、改定草案では簡潔に「享有する」とだけ書かれています。この違いは、一見してはわかりませんが、すこし問題がありそうです。妨げられないというのは、妨げる可能性があることを想定してこれを否定しており、妨げる意図のあるものに抑制的な効果をもたらします。一方、享有するだけの場合は、自然に備わっているという意味に近く、妨げる側にも、妨げられる側にも、また第三者としての国民にも抑制的に働きません。いじめがとことん進むまで周囲は傍観し、事件として明るみに出て、司法で裁かれて初めて抑制効果が出るような現状から、さらに後退した内容です。
「基本的人権を享有する」という文言を病人権利におきかえると、病気の人は基本的人権をもともと持っているという意味で、国や医療側に抑制力や拘束力を持つものではありません。私たちが反省点と考えているハンセン病の隔離政策、水俣病の発生と救済の遅れなどは、被害者が抗議しても、国や会社には何の抑止効果はなく、被害が進み被害者が証拠をもって告訴し、司法が認定して初めて陽の目を見ています。権利の享有を妨げられないと言う表現は、妨げる存在を初めから意識して否定しており、意図をもって行為を行う者は、計画の段階から権利侵害の可能性を意識する必要が生じます。昨今、点滴混入事件のような病人権利が関係する深刻な事件を見ても、行為を行う側に対する抑制力を弱める方向に進むことは避けたいと思います。
◇第十二条 国民の責務
現行憲法では、憲法が保障する自由と権利は、国民の不断の努力により保持しなければならないとし、また国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負うとしています。一方改定草案では、国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益および公の秩序に反してはならないとしています。
現行憲法との違いは、現行憲法が「権利は公共の福祉のために利用する」と明確に方向性を国民の福祉に置いているのに対し、改正案では「公益と公の秩序に反してはならない」とし、国民に対して、法律でもなく、道徳でもなく、場所や時代や慣習の影響を受ける、あいまいな基準に従うことを求めています。国民の福祉という目的に反していても、何も考えずに上層者の決定に従うという社会通念を助長し、上層には公共の福祉という目的も取り払うことになり、やりたい放題と無関心という現代の風潮を助長するだけになりそうです。複雑化した社会においては、国民が国民主権を自覚し、その場その場で公共の福祉を考え行動すること以外に、抑制効果を現すものはありません。公共の福祉のために自由と権利を利用するという現行憲法の精神を再認識し、それを教育に反映することが次世代の意識を高め、陋習を排除する気概を育成することを願うべきではないかと感じます。
◇第十三条 人としての尊重
現行憲法は、「すべて国民は個人として尊重される」と書かれていますが、改定案では「人として尊重される」となっています。この違いは医療者には違和感のある表現です。実際人間の生命現象は遺伝子により支配され、個人個人で異なることが根本原理です。そのために医療には個別のカルテがあり、個人を取り違えると大きな悲劇が発生します。多職種によるサービスも個人を対象にするものであり、医療場面では、病人を個人として扱うようにしつこく教育されます。個人と人との区別はそれこそ、人類普遍の原理であり、それを憲法が人だと言うと、医療の根本理念まで変わってしまうと感じます。公共の福祉の最も重要な部分は、個人に根差しています。この意味もまじめに考えて確認しなければならないと思います。
以上がざっと見た感じの感想ですが、ほかにもまだ議論が必要なことがあると感じます。病人権利の立場から、憲法勉強会の準備を進めながら、国民のための議論を深めていきたいと思います。